1-1 黒い煙
七月第二週目の月曜日午前七時、外では雨が降っていた。
カレンダーには十二日から十六日までの期間にお盆帰省と矢印が書かれていた。
「八月はな、お盆でお母さんの実家に帰省するから、予定入れたらあかんよ」
母・直子がキッチンから出て、信に声をかけた。
「え、今年は帰るん?」
信は目を丸くして驚いた。
「そう。今年は帰れます」
「でも何で急に?」
「今年は僕の仕事が落ち着いているから休み取れたんや。せやから家族みんなで帰省できるで」
リビングに父・圭一がスーツ姿で現れ、信に話しかけた。
「ほんなら、早速コレをフル活用できるわ」
学生鞄の中からデジタルカメラを取り出し、両親を写すようにカメラを構えた。
「夏休み明けの文化祭、写真部で作品発表せなあかんねやろ? ちょうどよかったやん」
直子は話しながら信の横をすり抜け、キッチンへと戻る。
「前谷さんから、おさがりのええカメラもろて良かったなぁ」
圭一は信に微笑みながら、リビングテーブルの椅子に腰掛け、新聞紙を広げた。
キッチンにいる直子は「またお礼せなあかん」と呟き、トースターからこんがりと焼けたトーストを二枚取り出した。皿に置いて、バターと共に信へ手渡す。
「はい信、これはまなみの分」
「はーい」
信は皿とバターを受け取り、卓上へ運んだ。
山下家は、信が五才になるまで毎年八月のお盆期間中は、必ず直子の実家に帰省していた。だが、圭一の出張、信の姉・まなみが所属する陸上競技部の夏季強化合宿など、予定が重なり、家族全員で帰省できる暇がなかった。
直子の実家には彼女の兄夫婦が住んでいる。二人には子供がおらず、直子の両親は信が生まれる前にすでに亡くなっている。そのため、兄夫婦二人だけが実家に住んでいる状態だ。
兄夫婦は、信を我が子のように可愛がっている。信は二人に会える喜びと久しぶりの帰省に心躍らせ、ズボンポケットからスマホを取り出し、地図アプリを起動させた。直子の実家周辺を検索し、ピンを立てる。
「ここって、海、綺麗なん?」
信は椅子に腰を下ろし、スマホの画面を圭一に見せた。マップには、直子の実家近くの海岸が衛星写真で表示されている。
「展望台が近くにあるんやけど、そこから見る海が綺麗やで。なぁお母さん、海、綺麗やったよなぁ」
「綺麗よ。そうか、信は小さかったから覚えてないか」
信は微笑みながらスマホをズボンポケットにしまい込んだ。
「流石に覚えてないかな。すごい綺麗やん、撮影しに行こ」
「あー、あかんあかん」
直子がミルクティーを入れたマグカップをトレイに乗せて、キッチンから出てくる。
「綺麗やねんけどね、お盆の時期に海は撮らん方がええよ」
直子が眉間に皺を寄せて、マグカップを卓上に置いていく。
信は直子を見つめた。信の頭の中で、数枚の海を撮影した写真が浮かび上がる。写真の端々に白く丸いものが沢山写りこんでいた。ああ、なるほどそういうことかと、信は直子の言いたいことが理解できた。
「うん、わかった。撮らんとくわ」
直子は目を閉じて頷き、苺ジャムの瓶とスプーンを信に手渡す。
「まぁ、信の目に映るもののほうがリアルやろうけどね、一応ね」
信は「そやね、リアルリアル」と言いつつ、瓶の蓋を開け、パンの上にたっぷりと苺ジャムをのせた。
パンを食べ終わり、信は家を出た。まなみは朝練のため、信より早く家を出ている。中学は信の自宅から徒歩圏内で、ゆっくり歩いて十二分程度だ。
「信くん、おはよう」
信は後方からの声に気づいて振り返った。
信とは、小学三年生から仲良くしている。男女では珍しくお互いを下の名前で呼び合っている。
「おはよう希ちゃん」
「信くん、何か嬉しいことでもあったん?」
「あ、バレた?」
「視えたわけやないけど、何となく」
「そっか、でも正解」
信は希に、母親の実家にお盆帰省することを話した。
「よかったね、信くん」
信は突然、希をじっと見つめて黙り込んだ。
「信くん?」
「希ちゃん、嫌なことあった?」
「あー」
希は苦笑し、頭をかいた。
「信くんは視えるもんね、うん、そう。嫌なこと、あったよ」
希は俯いて、ため息をついた。信の頭の中に、ドアの隙間から黒い煙が溢れ出すような映像が浮かんだ。微かにグランドピアノが視える。
「ピアノ教室で何かあった? 真っ黒い煙が視えるよ」
希は目を丸くして立ち止まった。
「信くん、ほんまにすごいね。すぐに色々視えるん、昔から変わらんのやね」
「希ちゃんも視えるやんか」
「私はそこまで視えんもん」
「まぁ、確かに」
「それこそ、ちょうど信くんに頼みたいことがあってん」
「頼みたいこと?」
「また放課後になったら、詳しく話すわ」
「わかった。じゃあ放課後に」
「ごめんね、ありがとう」
希は安堵した表情で歩き出した。信は希を心配そうに見つめながら、共に学校へ向かった。
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