第5話 永遠に好きで居続けること、永遠に嫌いで居続けることもできないような気がします。
私にも嫌いな人が複数いました。
営業をしていた頃の自分は、成績優秀者で、常連だったこともあり、よく人から妬みや、いわれのない中傷を受けました。
人とぶつかり合い、ぶつかり合う内に角が取れ、人間的にも成長できたのかな、今ではそんな気さえします。
当時、大嫌いだった人を思い浮かべると、何か不思議と自分と似たような人物が多くて戸惑います。
この前、昔の同僚や先輩をネットで検索して驚きました。
私が会社で嫌っていた人たちの多くは、みな起業して社長になっているか、会社でそれなりの地位に就いている人たちがほとんどでした。
つまり私が嫌いだった人達は、みな出世しているわけです。
人というもの、そもそも自分より格下の人は意識しませんし、攻撃の目を向けません。自分以上の、ライバル関係にある人物を敵対視する傾向があるように思います。
今思うに、当時、なんであんなに毛嫌いしていたのか、自分でもよくわかりません。でも最近、あることに気付きました。
人は一生、同じ人を憎んで暮らすことができないんじゃないのかなって思うようになりました。また自分と似た人物を同族嫌悪する傾向があることも、よくわかりました。
あれ程もめて離婚した相手でさえ、今では幸せを願っていますし、嫌いだと思っていた憎々しい上司でさえ、今はよくしてもらったことに感謝しています。
反対に同じ人を好きで居続けること、夫婦としてずっと一緒に暮らしていくことも。これも、同じくらい、とても難しいことなのではないのかなと、改めて思うようになりました。
恋を愛に換え、愛を情に置き換え。恋愛の形を常に変化させ、進化させ、鮮度を保ち。常に心をタイムリーに変化できないと、やはり熟年離婚ではありませんが、愛がなくなったから離婚とか、ときめきがなくなったから別れるとか、いろいろな理由をつけて、三行半を突きつけられてしまうのかなと思いました。
同じ人を永遠に憎むことはできません。
例え犯罪者に息子を殺された両親でさえ、犯人を一生、憎み続けることはできないのではないかと思う。
憎き恋敵をいつか許すときが訪れるように、怒りの感情もそう長くは続かないように思います。
人の心は常に動いています。
1つのところにとどまっていないからこそ心というのかもしれません。
掴めそうで掴めなくて、理解できそうで、できなくて。ここにあるようで実態がなくて。死んで一切が消え、遺族の心の中に永遠にしまわれ。
人間というものが、いつか苦しかったことを忘れてしまうことができるように。どうも神様は、そういうふうに人間をお造りになったらしい。
記憶は和らぐといいますか、楽しい思い出も、つらい思い出も、いつか半減できるように、記憶は和らぐようにできているらしい。
そんな自浄作用があるみたいです。
ずっと苦しみ続けなくていいんです。
いつか解放されるときが訪れますから。
いつか笑って話せる時が訪れるでしょう。
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