第4話 忘却


「特段異常はありませんな」

 眠っているだけで身体に異常は見られません、とテネル医師長の診断が降りた際には皆一様にほっと息を吐いた。


 宵闇色の黒狼の襲撃後、意識を失っているイルは直ぐ様宮殿に運ばれた。

あの黒狼自身がイルを奪いに行くと示唆しさした為、とりあえず距離を稼ぐためにも王都に戻ったのだ。同時にマーガが宮殿に結界を張る。

「残念ながら、あの黒狼が何者なのか、まだ不明です。

 ただ、魔物であれば魔物侵入不可の結界が張れますが、魔物である可能性は低いと思います」

 なので結界と言っても侵入を防ぐ為のものではありません。侵入した事を感知する結界です。と説明を受ける。

 この事態に招集されたゼファーが「なぜ魔物でないと言い切れるのですか?」とマーガに質問する。

「……身体から発する気が違います。禍々しさが無い……と言うか、彼の狼が現れた際、強大な魔力を感じましたが……魔力を感じるだけでなく、私自身の魔力も一時的に増幅しました」

 どういう事だ? と皆がマーガを見る。

「魔物が我々に力を与えるはずがない。

 あの狼が来た途端、私の魔力が増幅したと言う事は、あの狼自身が魔力の元だと言うことです。魔力の源、大地の精霊だと」


 魔法とは、世界に存在する風、水、火、地の四大元素の精霊の力を借りて形を成すものだ。

なので精霊の居ないところでは魔法は使えない。酸素のないところで火が燃えないのと一緒である。

逆に言えば、力の強い精霊がいるところではその力は増幅する。

 宵闇色の狼は大きな魔力の持ち主であったが、それと同時に魔法使いマーガの力も増幅させた。それはあの狼自身が精霊の化身であることに他ならない。


「……なぜ、そんな精獣がイルを狙うのでしょう?」

 ゼファーが疑問符を並べる。

ガヴィはある可能性を口にした。

「まさかとは思うが……イルの母親」

 その場にいた全員がハッとする。

「……イルが会ったことのないという精獣の母親ですか?!」

「……それしか黒狼がイルに用があるとは思えない。紅の民と黒狼は繋がりが深いと言うが、イル自身は黒狼と普段から仲良くしていたわけではないと言っていたし、そんな黒狼がイルに禍根があるとも思えない。

 あるとすれば、母親である黒狼だけじゃないか?」

 ガヴィの推測は最もだ。

「では、何故攻撃してきたのでしょう」

 マーガが尋ねる。

「それはわからねえが……」

「……ん……」

 全員がハッとイルを見た。

閉じられていた瞼がゆっくりと上がり、金の瞳が姿を表す。

「イル殿! 良かった!」

 マーガがホッと胸をなでおろす。

イルは起き上がると周りをグルリと見渡した。

「身体、おかしなとこねえか?」

 ガヴィが寝台に手をかけ、顔を覗き込みながら尋ねるが応えはない。

微かな違和感を感じたガヴィは訝しげにイルの名を呼んだ。

「イル……?」

 イルは少し怯えた様にガヴィの顔を見て言った。


「貴方……だれ?」

「?!」


 その場にいた全員が凍りついた。

イルはもう一度、一人ひとりの顔を見回し、その中に見知った顔がないとわかると身体を固くした。

ゼファーが寄り添い優しく尋ねる。

「ここがどこだかわかりますか?

 ……貴女の名前は?」

 イルはしばらく考えた後、目の前の青年に問われた問に返す事が出来ない自分に思い当たり、顔色を悪くする。

「それ、私の名前? ……わかんない……ここ、どこ?」

 不安気に揺れる金の瞳を見て、ガヴィは呆然と立ちつくした。

「……嘘だろ……」




 動揺するイルを落ち着かせながら覚えていることを聞いたが、自分の名前は疎か、どこで産まれたのか年齢さえ覚えていなかった。

「一時的な記憶喪失でしょうか……」

「しかし、それにしては欠落している記憶が多すぎる気がしますな」

 テネル医師長の話によれば、外傷ショックによる記憶の一部欠損はたまにあるが、記憶の一部が欠けることが多いらしく、イルのように全ての記憶が抜け落ちるのは珍しいらしい。

 しかもイルには目立った外傷はない。

精神的ショックによる記憶喪失も考えられるが、先日の調査で精神的な負荷があるとは言え、記憶を完全に閉ざしてしまう程負荷がかかっていたとは前後のイルの様子からも考えにくい。

 ということは……

「あの黒狼がなんかやったって事だな……」

 ギリリとガヴィが奥歯を噛む。

 何も覚えていないイルは所在無げに大人達に囲まれ俯いていた。

いつも前向きで明るい普段の様子からはほど遠い姿のイルに胸が痛む。

 イルの屈託のない金の瞳が、くるくると世界を映すことが幸せな日常になっていたのだと、ここにいる誰もが実感していた。



*****  *****



 翌日、

「はぁ……」

 イルは寝台の上に大の字になり溜め息をついた。


 気がついたら色々な大人の人に囲まれて見知らぬ場所にいた。

見知らぬ場所、というのはちょっと語弊がある。なぜならここも知らぬが、以前どこに居たかも記憶がない。なんなら自分が誰かもよく解らない。

 でも、名前はイルと言うらしい。周りの人達がそう呼んでいた。

どうやら元からこの部屋に住んでいたらしいが、どう見ても貴族然としたこの部屋に自分が馴染んでいたとは到底思えない。


 一体自分は誰なんだろう。

身体の調子が悪いわけではないのに、地に足がついていない気がしてフワフワする。

一歩踏み出すと穴に転げ落ちそうな心地がした。

「……」

 ぶんぶんと頭を振って、ともすれば永遠に浮上できなくなりそうな弱気な心を振り払う。

いつまでも寝台で寝ていてはいけないような気がしてイルは立ち上がった。

そおっと部屋から顔を出し辺りを見回す。入口には衛兵が一人立っており、イルに気が付くと「どこかへお出かけですか?」と尋ねてきた。特に目的のないイルは言葉に詰まってしまう。どう答えようかと言いあぐねていると横から声をかけられた。

「どうかしたか?」

 声を掛けられた方を見ると、昨日目が覚めた時に近くにいた赤毛の青年が立っていた。

確か、レイ侯爵、と言ったか。彼は衛兵と二、三言葉を交わすとイルの方に身体を向けた。

「……昨日は眠れたか? メシは?」

「ええと……はい。ご飯も頂きました」

 あんまり、食べられなかったけど。と答えると目の前の青年侯爵は微かに眉を下げた。

「……そうか。

 ……暇ならちょっと散歩にでも行くか?」

 そう問われてイルはしばらく考えたのち頷いた。



 彼に連れてこられたのは見事な薔薇に囲まれた庭園だった。

「うわぁ……! 凄い!」

 イルは素直に感嘆の声を上げた。

淡い桃色や黄色、菫色など、色とりどりの薔薇が品良く咲いている。

垣根の緑とのコントラストが実に綺麗だ。

それに大変素晴らしい香りがした。

 霞がかった記憶にもやもやしていた気持ちがちょっぴり晴れる。

「あの、有難うございます。

 ……えーと、レイ侯爵様?」

 お礼を言って、すぐに自分が何か失敗したのだと思った。だって彼が凄く微妙な顔をした。

「ご、ごめんなさい! 私なんか間違い……」

「ああ、いや違う! 間違ってねえ! ……間違ってはねえんだが……」

 ボリボリと頭をかきながら気まずそうな顔をする。

「……お前にレイ侯爵だなんて言われると流石に落ち着かねえわ。覚えてないんだから仕方がねえけどよ。ガヴィでいい」

「で、でも……侯爵様なんですよね?」

失礼じゃないですか? 不安気に聞くイルにガヴィは吹き出した。

「いや、そもそもお前、記憶がある時は呼び捨てだったし、おたんこなす! とか罵倒されて散々だったけど」


 どんな関係だったんだ。


 相手は侯爵、しかもどう見たって年上で、聞けば九つも上だと言うではないか。

そんな男性相手によくもそんな失礼な態度をとっていたな、自分。

イルは青くなって口をパクパクさせた。

ガヴィは笑ってイルの頭に手を置く。

「元はお前の護衛兼世話役やってたんだ。気にすんな」

 ガヴィは優しく、くしゃりとイルの髪を混ぜると、大きな手で頭をひと撫でしていった。

「……必ず、お前の記憶は取り返すからよ」

 そう言って笑う菫色の瞳に、イルの胸は何故かトクトクと音を立てるのであった。



*****  *****



 さて、イルのこの状況をどう解決するか。

アルカーナ王国の国王の執務室で国王、ガヴィ、ゼファー、マーガの四人で集まり会議が行われていた。

「対峙した感覚ではアイツは普通の精獣じゃない。力がケタ違いだった」

 動物として、普通の能力を超えた精獣と呼ばれる精霊の一種がこの世界には稀にいる。

 彼らは普段普通の獣の姿をしているが魔法力が強く、人の言葉を喋ったり、中には人の姿に変化する者もいる。

精獣の中でも力は様々だが、宵闇色の黒狼は近くにいただけのマーガの魔力を相乗効果で上げた。

相当な力を持っている。

「……城にいるからと言って安心はできない。陛下の安全も考慮してマーガやゼファーを動かすのは危険だと思う」

 珍しく主導権をとって話すガヴィに全員が注目する。

「だから俺が行く。ノールフォールへ」

 有無を言わさない口調であったが、同じく黒狼と対峙したマーガが口を挟んだ。

「しかし、あの精獣が先日の様に魔力で交戦してきたら、魔力を持ち得ない君に勝ち目はないぞ」

 マーガの意見に国王もゼファーもガヴィを見る。

「流石に俺も単身で突っ込む気はない。あの黒狼がイルの血縁者だと仮定して、まずは話ができる相手か見極める。

 魔法使いに関してはちょっとアテがある。国の一級魔法使いにも引けをとらない奴を知っている」

「その者は必ず協力してくれるのか?」

「……危険も伴うからな。相手に決めてもらうが、最悪耐魔法だけかけてもらって危なくなったら移動魔法要員として同行してもらって撤退する」

 まずは接触をはかる。無理はしねえ。

そう言い切るガヴィにゼファーが溜め息をついた。

「……確かに、マーガ殿がここを離れることは危険すぎるし、私も陛下の側を離れるわけにはいかない。君に行ってもらうのが最善だとは思う。だが」

 ゼファーはわざわざ言葉を区切ってガヴィを見た。

「相手は人ではない上に目的も未だにわからない。再び相まみえた時にどうなるか予測がつかない。……本当に無茶はするな。危険を感じたらすぐに引き返せ」

 それを約束できないなら許可できないと強い口調で言われた。

「……私も、アヴェローグ公の意見と同じだな。ガヴィ。

 イルの記憶は取り戻してあげたいと皆思っている。だが、事を急いて君を失うような事になれば一番イルが傷つくのだと言うことを忘れてはいけないよ」

 そう国王に言われてガヴィは深く頷いた。



 会議の後、ガヴィは王子と王妃と一緒にいるイルを迎えに宮殿内の王家の居住区に行く。

 イルはなるべく一人にならないように取り図られていた。

王家へ危害が広がるのを防ぐ為、王子との面会もはじめは控えられていたが、王家の居住区は城の中でも一番警備が厳しく、魔力を感知する体制も整っている点から、日中は王子と会っても問題ないだろうと言う事になった。

よって、会議中は王子と王妃にイルを預けたのだが……


「レイ侯爵様が参られました」

 部屋の扉が開き、王子が「あ! ガヴィ!」と一番に気がついて手をふる。王子に視線を向け、唇の端を持ち上げて笑ってやると、その隣にイルはいた。

 王子と一緒にいる時には見たことのない不安に揺れた顔をしている。

王子につられて顔を上げ、見知った顔を見つけて表情があからさまにほっとした。

ガヴィは王妃に挨拶と礼を述べてイルに声をかける。

「イル。行くぞ」

 イルはペコリと王妃に頭を下げ、「またね!」と手をふる王子にぎこちなく手を振ってガヴィの元にすぐに駆けて来た。

隣に並んでイルの部屋までを歩く。

やけに静かなので部屋の扉前で「どうした?」と顔を覗き込んだ。

イルは小さな声で「王子様とか王妃様とか、雲の上の人すぎて緊張した……」と呟いた。

 王子とは、まるで前世からの片割れであったかのようにあんなに仲良くしていたのに、王妃は憧れの母だと尊敬の眼差しを向けていたのに。

記憶がないというだけでこんなに印象が違うものかと複雑な気持ちになる。

ガヴィは「そうか」としか返せなかった。

「あー、あとな、明日から俺はお前の記憶を戻す手がかりを探しにちょっと出かけてくる。俺がいない間はゼファーが面倒みてくれ――」

 連絡事項を説明している最中、イルの顔を見てぎょっとした。

イルはこぼれ落ちる涙を拭いもせず、不安と寂しさの滲んだ顔でボロボロと涙をこぼしていた。

「どうし――」

「……行っちゃうの……?ガヴィ……嫌だ……行かないで……」

 そのまましゃくり上げて抱きついてくる。


 そこに居たのは、ガヴィが知らないただの幼子だった。


 記憶を無くした直後から、基本イルは宮殿の自室にて保護されていた。護衛の意味もあり、移動時にはほぼガヴィが付き添っていたし、なるべく部屋にも通うようにしていた。

 イルにとっては周りは全て知らない人間であったが、接している時間が少しばかり多かったせいかイルにはガヴィが親鳥のように刷り込まれていたのかもしれない。

 一人にしないで、怖い。と訴えてくるイルに、ガヴィは衝撃を受けていた。


 ガヴィの知っているイルは元々感情豊かだ。

よく笑って怒って泣いて。表情をクルクルと変える。


 人の為に泣いたり、嬉し泣きはしょっちゅうだが、聞き分けは悪くなくて感情的に泣きわめいたり情緒不安定になることはあまりなかった。

 イルが感情豊かでもあまり嫌な気持ちにならないのは、イルの感情には負の表現があまりなかったからだ。

いつも太陽のようにキラキラとした笑顔に照らされて、皆笑顔になる。

 ガヴィにとって、イルは前も今も護るべき子どもだった。

だからイルからの告白を受けたあとも、年上への憧れの感情からの延長だと思っていたし、気持ちだけ有り難く受け取って、特に関係に変化はなかった。

 それが今、この記憶を無くしたイルを前にして、自分がこんなに動揺するとは思わなかった。


 気づけば記憶を無くし、自分の事も、周りの事も解らなくて不安になるのは当然だ。

しかも彼女はまだ十四。

この様になるのは致し方あるまい。


 だが、以前のイルも同じ様に『子ども』だと思っていたガヴィだが、それは間違いであったと気づいてしまった。


 今のイルが普通なのである。

 記憶を無くす前のイルがいつも笑顔だったのも、泣いてしまったってすぐに立ち直っていたのも、非を認めると素直に謝れたのも。

 あれはイルが努力をしていたのだ。

 無理をしていたとは思わない。

けれど彼女はその素直さで、努めて笑顔でいたり立ち直ったりしていたのだ。

 それは彼女の強さであり、普通の子どものする事ではなかったのだと今更気が付いた。


 怖くて泣きじゃくる目の前のイルを抱きしめてあやす。

両親に愛されて育ち、里があんなことにならなければイルもこんな風になっていたのだろうか。

 ……でも何事も起こらなければ、きっと出会ってはいなかった。

自分のことになると途端に自信がなくなるのに、まっすぐガヴィの目を見て好意を伝えて来る少女は存在しなかった。

どちらのイルが彼女にとって幸せなのかは解らない。

けれど、身勝手だとしてもガヴィの会いたいイルは決まっている。

「……ここにいる人は皆お前の味方だから。大丈夫。怖がらなくてもいい。

 ……必ず、お前の不安が無くなるようにするから」


 取り戻す。必ず。


 ガヴィは固く決意した。


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