第3話 宵闇の狼㊤


(……またやっちゃったぁ)


 気がついたら寝室で。気がついたら朝だったのはこれで何度目か。

寝てしまうのはこの際仕方がないとしよう。

しかし、寝室に連れてこられたのは夜でも無かったのに、そのまま朝までぐっすり眠ってしまう自分のお子様加減に嫌気が差す。


 しかも。ぐぅ、とお腹が鳴った。


(い、いやしすぎる……!)


 しばらく一人でモダモダともだえていたが、このままここに居るわけにも行くまい。

「……着替えよう」

 ガヴィになんて声をかけようか、悩みながら。



 身だしなみを整え部屋から出ると、避暑地の屋敷を任されている女官がガヴィのいる客人用のダイニングまで連れて行ってくれた。

 扉が開く際、にわかに緊張する。

ガヴィは既に朝食を終えており、食後の紅茶を飲んでいるようだった。

イルがどう声をかけようか考えあぐねていると、ガヴィの方から先に声をかけてくる。

「おはよう。よく寝られたか?」

 あまりに普通に話しかけてくるものだから思わず、うん。とこちらも普通に返してしまった。

「えーと……お腹、空いちゃって……」

 エヘヘと笑う。恥ずかしい。

ガヴィはきょとんとすると「昨日食べないで寝ちまったもんな」と女官に朝食を頼んでくれた。

 焼き立てのパンと彩りの可愛いサラダ、豚肉の腸詰めと林檎の甘煮を添えたヨーグルトを前にすると益々お腹が鳴る。

あんなに泣いて、醜態しゅうたいさらしたというのに変わらずお腹は減る。健康そのものだ。

もはや食欲があるから前向きにいられるのだ。うん。そういうことにしよう。と自分を納得させ、開き直ってイルは朝食を美味しくいただいた。

「よし……元気でたな」

 頬杖をついてじっとこちらを見ていたガヴィがよかったと呟く。


 らしくなく、安心したように笑うのはやめて欲しい。

 無駄に胸がドキドキするから。


 イルの胸の内を知ってか知らずか、ところで……とガヴィはいつもの調子に戻って話し出した。

「今後の予定なんだけどよ、お前の仕事はとりあえず昨日で終わり。俺はまだ調整があるから残るけど、お前どうする?」

 帰りたかったら先に帰ってもいいけど、と提案されたが、どんなに苦しくてもやはりここは故郷である。もう暫く留まっていたい。

イルはガヴィの仕事が終わるまで一緒に滞在することを決めた。



 朝食を済ませてガヴィと一緒にお茶を飲んでいると、男爵がやってきてガヴィに仕事の話をし始めた。

イルは席をはずそうと思ったが男爵がお気になさらずと言ってくれたのでそのままお言葉に甘える。

「……以上が今日の予定になります。

 あと……これはレイ侯爵には直接関係はないことなのですが」

「うん?」

「最近、ノールフォールの森で少し変わった現象が起きておりまして」

 男爵の話では最近になってノールフォールの森に変化が起きたという。

一部で森林の急激な成長が見られたり、近隣住民の間で夜間の森に発光する何かを見たという者や、多少の魔法の心得のある者が森に来ると力が増幅する等の現象が起きるという。

 今のところそれによって何か問題が起きてはいないが、領民の間では紅の里で起きた惨劇の祟りだと口にする者もいるようだ。

「そちらもこれから自分の方で調査に当たりますが……一応レイ侯爵にもお伝えしておきます」

 そう申し送りして男爵は仕事に戻っていった。

「あの男爵、本当に仕事できるよなぁ」

 ガヴィが珍しく感心して言う。

ガヴィが言うように彼は爵位は男爵と低いが、フットワークも軽く、こちらが何か言わなくても先回りして動いている。報告も適正にしてくれるので無駄がない。

ああいう奴が本来上に行くべきなんだよなぁと言うガヴィにイルも同意しかなかった。



 食後、ガヴィは紅の里跡地に霊園建築のため現地に行くというのでイルも同行した。

 イルが一番の当事者とはいえ、ある程度の希望を伝えてしまえば仕事の手配や人を動かせるわけではないイルにすることは無くなる。

暇を弄んだイルは春告花はるつげばなの草原に行って一人ウロウロしていたのだが……。


「……暇すぎる」


 はっきり言ってやることがない。


 避暑の屋敷にいた方が良かったかもしれない。この歳になってお花摘みも無かろうし、当たり前だが話し相手もいない。

 イルの姿で一人走り回っていてはただの阿呆である。

「あ」

 いい事を思いついた。

 ただし大概こういう時の『いいこと』というものはろくでもない事である。

イルは周りを見渡して誰もいないことを確認するとそおっと森の茂みの方に入った。

(ちょっとくらいなら……いいよね?)

 ちなみにこの草原に来る際に同行できないガヴィには口を酸っぱくして「一人でここを離れるなよ!!」と言われている。

なのでここからどこかへ行くことはできない。

(ちょっとだけ。……移動したわけじゃないからセーフだよね、うん)

 頭の中で言い訳をしてアカツキの姿になる。鼻先で脱げた衣服を繁みに追いやった。


 元々男爵は他領を治めているのでノールフォールの管理は一応代理だ。

調査や紅の里のことでこうやって出向いてくれているが、調査に割いている人員は多くない。

今日もガヴィの補佐に数人が同行しているのみで皆忙しくしている。

この原っぱに来るのはイルを呼びに来るガヴィくらいなものである。

 なのでイルは思う存分にアカツキの姿で原っぱを駆けたり、揺れる花に戯れたりして楽しんだ。

もし誰かに見られたって、森に住む黒狼が花と戯れているだけの微笑ましい絵図である。


(あ~! 最高に気持ちいい~!)


 香る花や草に嬉しくなってしまう。


 こういう時に、イルは普通の人との違いを感じる。

人だって美しい花を見ると癒されるだろうが、大地から香る臭いや、花や、風を感じると生きる力が沸いてくる気がする。地面を伝わって、足先から生気が上がってくる気がするのだ。


 それはきっと、人にはない、黒狼の血。


(え?)


 イルは突然身体の異変を感じた。


(なに……なにこれ?!)

 急に胸がドキドキとする。


 先ほど感じたよりももっと強く、大地から感じるエネルギー。

まるで、力が湧くような、喜びを感じて震えるような。


 全身の毛並みが逆立つ。

 イルはそこに、とてつもなく大きなエネルギーがあるのを感じた。

風が、ざぁっと吹いて木々を揺らす。

イルの感じた気配の方向に目を向けると、そこにいたのは一匹の黒狼。

 黒狼といってもその黒狼が普通の獣ではない事は誰が見ても明白だった。

身体はイルの倍以上あったし、黒狼特有の黒い毛並みも、漆黒の中に緑を溶かしたような不思議な色をして炎のように揺らめいている。

そして、黒い毛並みの中に光る金の瞳には、獣を超えた英知が宿っていた。

 イルはまるで雷を受けたようにその場から一歩も動けず、その黒狼の瞳から目を離す事が出来なかった。

(不思議。私、あの瞳を知ってる気がする――)

 の黒狼がすっと一歩後ろに下がった。

(あっ……待っ……)


「――て、めぇぇぇ!!」

 怒気を含んだ声に思わず振り返るとそこに赤毛の剣士が立っていた。

「誰もいないと思って油断してんじゃねぇ!! 何やってんだ! お前は!」

 そう言ってイルの首根っこを掴んだ。

危機感が足りない! とかなんとかお説教するガヴィの目を盗んであの黒狼の姿を探したが、もうその姿は森の暗闇に溶けてどこにも見当たらなかった。



*****  *****



「本当だよ! こんなおっきい黒狼がいたの!」

 屋敷に戻り、ひとしきりガヴィに説教を受けた後、イルは必死にガヴィに訴えかけた。

「ほぉ……、その黒狼を見たから、嬉しくなっちまって自分も変化したってかぁ……? 違うだろうが!」

「ゔっ! ……ち、ちがうけど」

 珍しく正論のガヴィに何も言えない。

「……暇なのは分かるがよ、見られて困るのはお前だろうが! 年頃の娘が、人目にさらされるかもしれない所であの姿になるのにも問題あるだろ! 反論は?!」

 イルはぐっと言葉に詰まった。

「ないです……ごめんなさい」

 反論できる部分が一つもないので素直に白旗を上げた。

ガヴィは頭をかきながらため息をつく。

「……あんま心配させんな。一瞬いなくなったかと思って、肝が冷えた」

 草の陰で一瞬イルの姿が見えなかったのだろう、前日のこともあり本気で心配してくれていたんだと解かった。

「本当にごめんなさい」

 もう一度ちゃんと謝る。

ガヴィは嘆息して気持ちを切り替えると「で? 黒狼がなんだって?」とちゃんとイルの話を聞いてくれたのだった。



「……へぇ、そんな大きな黒狼がいたのか」

「そう、それでね! なんて言うかね、こう毛並みがぞわーーって立つような気持ちになったっていうか!」


 お茶を飲みながらガヴィが相槌を打つ。

「……もしかすると、それが男爵の言ってた森の変化ってヤツの一例かね。

 同族のお前がそんなに力を感じるとするなら……精獣ってやつか?」

「……たぶん……わかんない、けど」

 イルは自信なく答えた。

「私、実際に精獣って見たことないんだ。黒狼自体はこの森にはいっぱいいるし、里にもいたから見てるんだけど」

 黒狼と紅の民の関係は古のころからの関係であったが、紅の民が時代と共にどんどんと魔力を無くしていった頃から黒狼との関係も薄れ、現在では黒狼と共に生活していた民もいたが稀であった。

「私さ、本当に黒狼の姿になれるだけで、魔力とか、なーーんにもないんだ」

 だから、人間の姿だと黒狼とお喋りできるわけでもなくて、何か知ってるわけでもなくて……。

しょぼん、とイルが言う。

「安心しろよ。普通はそうだ。俺だって魔力なんかこれっぽっちもねぇよ」

 ガヴィにしては珍しく渾身のフォローをしたが、イルはでも……と返した。


「ガヴィは違うよ! ……だって剣の腕だって凄いじゃない? なんだかんだ言って何でもできちゃうし、陛下にも信頼されててさ。

 見た目も……格好いいし」


 思いがけない一振りが来てガヴィは言葉に詰まる。

「……お前さ、本当に俺のことが好きなんだ?」

 水晶谷での一件以来、ガヴィからはなんの反応もなかったので、イルはガヴィが意味を理解していなかったものと思っていた。

まさかここで蒸し返されるとは思わず顔を赤らめた。

「……す、好きだけど。なによ、悪い?!」

 思わず睨み返す。


 そもそも、女の子が告白をして返事を返さないとか、そちらの方が失礼なんだからガヴィに何か言われる筋合いはない。

ガヴィの心の中にはきっと今でもイリヤが住んでいて、九つも年下のイルにははじめから勝算などないのは解かっているのだから勝手に好きなことくらい許してほしい。


 ガヴィは「別に悪かぁねぇけどよ……」とからかうでもなく複雑そうに眉を下げた。

「……物好きな奴だなと思ってさ。

 俺は別にお前が思ってるほど格好よくはねぇし、出来る人間でもねえよ」

 そもそも人間出来てたら今ここにはいねえし、ちょっと歳が上だから大人に見えるってだけだろ? それにお前にはけっこう醜態晒してると思うんだけどな……とぼやく。

 心底不思議そうにゼファーならともかく、俺のどこがいいわけ? と問われて、イルは「そんなことないよ!」と力いっぱい答えた。


理由どこなんて……解らないけど……。

 でも、ガヴィが笑うと嬉しいし……ガヴィが悲しいと私も悲しいよ。

 本当は凄く優しいのも知ってるし、ゼファー様にもガヴィにも色々助けてもらってるけど……ガヴィが困っていたら少しでも力になりたいって思うの」

 

 悩んだとしても、一緒にいたいって思うよ。隣にいたいって思うよ。

 ガヴィは、いつでも私の前にいて、行く道を照らしてくれるから。側にいてくれるから。

 だから、私から見たらガヴィは格好いいんだよ。



 曇りない金の瞳にそう言われて、ガヴィは毒気を抜かれたあとに一気に赤面した。

「お、おま……なんて恥ずかしいヤツ……!」

 酷い! とイルも顔を赤らめて言う。


(素直な十代ってコエェー……)


 聞いた自分がいけないのだが、余りにもまっすぐなイルの言葉に、ある種の感動すら覚える。

ガヴィは無理矢理冷静さを取り戻してイルの頭をくしゃりとやると、顔を真っ赤にしてぷりぷり怒るイルにゴメンごめんと謝った。

「悪かったって。……ありがとな。

 ……同じ気持ちは返せないけどよ。俺もお前に救われてるとこあるぜ」

 そう言って、柔らかく笑う。

完全にフラれているのだが、自分に向けられた笑顔に胸が揺さぶられるとか。

惚れた方が負けとは本当なんだなぁと、イルは悔しく思った。


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