夜の部 お会計
夜の部 お会計
サキコはまた毎日のようにマスクをして過ごしていた。せっかく縫い付けた顔は自ら台無しにしてしまったからだ。
そのことに後悔はない。
風の噂に太一が無事に退院したというのは聞いた。だったら、良かったのだ。彼が生きて、夢を叶えてくれたなら。
──。
今夜も、意味もなく街をぶらついていた。純喫茶URANにもしばらく行けていない。何となく、足が向かなくなっていた。人間界への観光ビザも期限の七日を過ぎてしまったので無効となっている。つまり、昼間に堂々と街をうろつけなくなってしまったのだ。
太一は今どうしているのだろうか。退院して、元気にしているだろうか。
本当は、この毎日の夜徘徊の目的は太一との「運命的な出会い」の再現をしたいから。口裂け女としての習性などではない。我ながら未練がましいものだとサキコは思う。しかし、この裂けた口を見られたのだからもうおしまいだ。同時に、今さら口裂け女としての人生を歩むなんてことも、できなさそうであった。
サキコはそんなことを考えながら、とぼとぼ夜道を歩いていく。
そして、例の十字路に差し掛かった。この場所は太一と初めて出会った思い出の地だ。自然と足が向いてしまったのだった。
あの時に自分が隠れていた電信柱の前に立ち、街灯に照らされると感傷が胸に広がってくる。
あの時もこんな夜だった。
そう思い出した、次の瞬間──。
「サキコさん」
不意に、俯いたサキコの頭の上から声がした。
ゆっくりと顔を上げると、そこには太一がいた。
「え、あ、なんで」
「サキコさん、俺です。太一です」
「あ、それは、分かってますけど、どうして」
サキコは声が震えてしまって上手く話せない。ただ無意識に、口元のマスクが外れていないか手で触って確認した。また顔を見られたらどうしよう、サキコはそればかり考えていた。
しかし、太一は構わず言葉を続ける。もうサキコしか見えていない。
「二週間前、デートできなくてごめんなさい。俺、事故っちゃって、入院してたんす。本当にごめん、すっぽかすつもりはなかったんだ」
知っている。
助けたのは他でもない、サキコなのだから。少しずつ、サキコの頭は冷えてきた。
「ああ、いえ。良いんです。私も、怒ってるとか、そういうのはないですから」
「じゃあ、なんで」
太一は一歩、サキコに近づいた。
「なんでメール無視するんすか。怒ってないなら、なんで返事くれないんすか」
「それは」
サキコはまた黙ってしまう。
それは、嫌というほど思い知ったからだ。
人間と、化け物では住む世界がやはり違い過ぎる。サキコには改めてそう感じられた。だから辛くても一切の連絡を絶っていた。加えて、レンタルだった携帯電話は返却済みなので、そもそもメールの返事すら返すことは叶わない状況でもあったのだ。
しかし、太一はそんなサキコの思いを先回りした。さらに一歩近づく、二人の距離は手を伸ばせば届く場所まで近づいた。街灯に照らされ、はっきりとその顔の輪郭が互いに見てとれる。
「マスク取ってよ」
「え」
サキコの頭の中は一瞬だけ真っ白になった。
太一はさらに言葉を詰める。
「口裂け女なんでしょ」
太一の落ち着いた、深い海のような、そんな全て受け入れてくれるかのような、その瞳の光にサキコは酔いかけた。酔いかけて、我に帰る。一応の抵抗はしておかねば。
「いえ、それは、ダメです。言っている意味が、分かりません」
「自分で言ってたじゃないすか。口裂け女だって、俺を助けてくれたのはサキコさんでしょ」
「それ本気で言っ」
「本気ですよ。俺、女の子に対してはマジなんで」
サキコの言葉を遮りつつも、今度も太一は落ち着いていた。とても冗談など言っている雰囲気ではない。きっと何かの覚悟を決めてきている。何の覚悟かは、既にサキコには察しがついていた。
いいのか、この気持ちに酔ってしまって。最後には傷ついて終わってしまうかも知れないのに。
しかし、結局サキコはこの気持ちに嘘をつく事ができなかった。
ゆっくりと、口を覆ってしまう程の大きなマスクを取り去って、コートのポケットに突っ込んだ。その間、一時も太一から視線を逸らすことなく。太一もそれに応え続けた。
街灯に照らされて浮かび上がるサキコの素顔は、太一に晒された。初めて出会った夜とは違い、今度は一瞬ではない。唇の端から耳の下まで入った切れ込みは、はっきりと太一にも確認できた。
「私は、口裂け女です」
サキコは自分にも言い聞かせるようにそう告げた。太一は何も言わない。
「夜道に人を襲う化け物なんですよ。まあ、最近は殺したりはしませんが。脅かして、それを楽しむ妖怪です。嫌われ者なんです、誰も、私のことを好きじゃありません。それが、私です」
サキコはそこまで言うと、俯いて黙った。これで良い、太一は自分を恐れて去るだろう。これで良いのだ。
──しかし、そうはならなかった。
「俺は好きだよ」
太一は言いながら、さらに半歩だけ進み、サキコの手を握った。その暖かさにサキコは驚いた。
「え、どうして」
「どうしても」
顔を上げて目が合うと、太一はじっとサキコを見つめていた。口元も見られている。かあ、と顔が熱くなった。
「私、口が裂けているんですよ、ほら、見えますか、オバケなんです。あなたを騙していた」
その瞬間、握られていた手は離れ、今度はサキコの頬の切れ込みに太一の指先が触れた。サキコはびくりと肩を震わせる。だが、不快感は無かった。
「口、裂けてるね」
「──はい、そうです」
「関係ないっすよ」
太一は言葉を続けた。
「本当に人を怖がらせるだけのオバケなら、事故に遭ったあの時に俺を助けたりしないでしょ」
ごほん、と咳払いをして、太一は緊張したように、だが目を見て言うのだった。
「あなたは綺麗だ。サキコさん、綺麗だよ。顔が美人だからどうとか、巨乳だとか関係ないんだよ、とにかく綺麗なんだ、ハートなんだ。俺はやっと分かった。口が裂けているだけで、化け物とか嫌われているだとか、悲しいこと言わないでよ」
「え、巨乳って、なに──」
「いいから黙って聞いて!」
突然、太一が何かごまかすかのように大きな声を出すので、サキコは驚いて思わず黙ってしまった。ちょっと気にはなったが、今聞くべきではないらしい。
太一は気を取り直し、深呼吸をすると、またはっきりと、告げた。
「あの、サキコさん、とにかく俺の気持ちはそういう感じっす。だから、僕と、お付き合いしてくれませんか」
太一は着ていたジャケットのポケットから潰れた箱を取り出した。その中から出てきたのは銀のネックレスだ。
「ごめん、事故のときに箱潰れちゃって、本当は買い直せば良いんだけど金なくてさ。これで勘弁してもらえれば。で、でも、絶対嫌な気持ちにはもう二度と、させないから」
言いかけた太一を、サキコは強く抱きしめた。背はサキコの方が高いので、太一を覆い隠してしまう。そんな風に強く抱き締め、泣きながら言葉を紡ぐ。
「私、わた、私も、よろしければ」
太一は慌てて抱き締め返す。
「う、うん。もちろんっすよ。任せてください。きっと、楽しい感じにしますから」
サキコは、本当の自分を受け入れてもらえたことが何より嬉しかった。
嫌いだったこの顔は、愛されることができたのだから。
◯
サキコは太一に連れられ、零時を回って『夜の部』も営業終了となっているはずの純喫茶URANにやって来た。
店内は灯りが点いていて、宇蘭と駆、翼ら従業員全員で太一とサキコを待っていた。
「え、どうして皆さんが」
店に入ってすぐ、呆然とするサキコに、太一が言った。
「ごめん、本当は宇蘭さんたちにサキコさんのこと聞いたんだよ。口裂け女のことも。ここの常連さんだったんだね」
それを聞き、サキコは笑ってしまった。
そうだ、太一もここへ来ていたのだった。しかしまさか相談に乗ってもらっていたとは。では、最初から宇蘭たちは全て承知していたということか。
「本当に、人が悪いですよ」
サキコは太一と共にいつものカウンター席に着いた。それを確認すると、宇蘭がまず頭を下げる。
「ごめんなさい、嘘を付くつもりは無かったの。でもルールだから、二人にお互いの話は出来なかった。ま、今回は特例で太一さんに話しちゃったんだけど。それはオーナー権限ってことで」
謝る宇蘭に、サキコは優しく言葉を返した。
「いえ、もう良いんです。こうして上手くいきましたから。噂は本当だったのですね」
“純喫茶URANで相談すれば、どんな恋も成就する”
「太一さんは、サキコさんが口裂け女だと知ったうえで、決断をした。それを尊重して全てを話したの」
宇蘭がそう語る間にも、サキコは太一のことしか見ていなかった。
駆はその光景にやれやれと笑ったあと、そんな二人の前に無料のクッキーを出した。
「奢ってやるよ、何か飲むか?」
太一とサキコは顔を見合わせる。今度の翼は茶化したりしなかった。
「では」
二人は声を揃えて言った。
「ブレンドコーヒー、ガムシロップは三つで」
すると、翼は二人に笑いかけ、元気よく「あいよぅ」と注文を受けた。
◯
サキコは再び口を縫い、今度こそ人間になったらしい。今は人間世界に住むための資格取得中だ。宇蘭はそんな話を常連となった太一から聞いた。
サキコには、もはや疑いなど必要はない。本当の自分を認めてもらったのだから。
これからは人間としての第二の人生。太一と共に生き、そしていつか、あの夢の民宿を一緒にやっていくのだという。
──。
今日もオーナー宇蘭は店に立つ。身長が足りないので、カウンター裏に台を隠して。
「昼の部」は何かに迷った恋の人間たちが。
「夜の部」は何かに迷った恋の異形たちが。
そんな彼らはこの街に住む限り、こんな噂を聞くだろう。
“純喫茶URANに相談すれば、どんな恋も成就する”
夜の部 お会計 完了
────第一話 「あなたは綺麗」完
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