第48話 湊川は、未来の苗字?




「そっかぁ。一人暮らしやから、そんなところも大変なんやな?」

「まぁな。

 本当に大事な時は両親に郵送して、サイン書いてもらってたんだけど、今回は完全に忘れてた。

 にしても、うちの学校も変だよな。実力テストの結果なんて、高校生になってまで親に見せるか? 普通」

「湊川くん。委員長の面目も忘れとるで? 思っても、言ったらあかんやつやで、それ?」


全ては佐久間さんがいる日々を当たり前にするためーー。


『早朝のお勉強会with比嘉さん』は、週が明けても継続となっていた。


これが、始まって八日目、二回目の金曜日だ。

ストーカー事件があってから数えれば、約二週間が経過しようとしていた。


もう四月も終わろうという時期だ。


桜はその花びらの多くを散らし、枝枝に代わりの葉をつける。


なにかが新しく始まる予感のする、新緑の季節を前にして、


「し、翔くんが忘れるなんて思わなかったなぁ。言っとけばよかった、ごめんね」


佐久間さんもまた、大きな一歩を踏み出そうとしていた。

まだ痞えることはあるものの、会話に交わってこようとする意思を見せる。


これは目を見張るべき進歩だ。


たぶん、比嘉さんと感情のシンクロ。俺は保護者気分で感慨を覚えるが…………。


その俺が保護者のサインをもらい忘れてしまっているのだから、詮方ない。


ちなみに、単純に忘れていただけだ。

断じて、成績が悪かったから隠したいとかいうことではない。


「そうだ。私が代わりにサインしてあげるよ〜」


佐久間さんは、ぎこちない手つきで俺のプリントを手にする。


勝手になにか書き出そうとするので、俺はそれを取り上げた。


「な、翔くん! なんで?」

「いや、まぁ、先生にバレないように、俺以外の誰かにサインしてもらうってのはアリなんだけどさ。

 その手つきだと無理だろー」

「そ、そんなことないよ?」


そんなことあるんだって。だって、なんか小刻みに震えてる。


理由は、比嘉さんがいることによる緊張だろう。


「んー、でも湊川くん。保護者サインは欲しいやろ?」

「ん、まぁそりゃそうだけど」


提出締め日は、今日だ。今さら貰えるわけもない。


「ほな、うちら二人どっちがうまいか書いてみて判断してもらうってのはどう?」

「はい?」

「簡単な話やって、このノートの空きスペースに、うちらが『湊川』って書くから、湊川くんは判断するだけやん」


……なんというか、妙なイベントが始まろうとしてない?


佐久間さんがどんな反応をするやら。思っていたら、


「受けて立つよっ!! 私、書けるもん」


もう乗り気になっていた。というかやっぱり比嘉さん、佐久間さんを転がすのがうまい。


「ほな、一回勝負な〜。ノートの端と端使おか」

「うん。後腐れなしだからね」


俺を少しよそにして、彼女らはノートにペンを下ろす。

比嘉さんが綺麗な姿勢でさらさらと書き、一方の佐久間さんはムキになったのか、かじりつくようにノートを睨みつけた。


同時に書き上がる。

表情まで、余裕と焦り、対照的な二人が判断を仰いで俺の顔を見た。


完成したサインは、


「……そりゃあ、比嘉さんの方だよな」

「な、なんでぇっ!?」

「なんでもなにもないよ、迷う余地もなかったな」

「うぇぇ、翔くんの浮気者〜」


いや、そういうことではもちろんなくて。

うん、歴然の差だった。だって佐久間さんの書いた字は、まるで蛇だ。


最後になるにつれて、やや自信を失って、ひょろっと尻すぼみなあたりも、減点しなくちゃいけない。


「うちの勝ちやね?」


比嘉さんはちょっと誇らしげに、ペンをくるっと回す。


「でも佐久間さん。そんなんやったら、将来、名前書くとき大変やで? 練習しとかんと、宅配便も受け取られへん」


あのぉ、比嘉さん、なにを言ってらっしゃる……?


「……! 練習する、するよ、私! 湊川杏になるんだもんね」


あやうく吐血しかけたね。

突然、純情という包丁で刺されたのに近い。  



いや、むしろ俺が佐久間って名前を書かなきゃいけなくなったりーー


ついつい、そんな未来を想像して胸が熱くなってくる。


比嘉さんは、そんな未来までお見通しで言っていたらしい。心底愉快そうに、俺たちを見て、にやにやと目を細める。


こうしてしっかり関わるようになると、優しいだけじゃなく、遊び心も持った子だなと思う。


と、彼女の目下に朱がさした。軽く、その薄い唇を開いたが、


「……まぁ。別にこの先も、うちが書いてもーー」


ここで言葉が止められた。


「ん。ほな、うちがサインしとくな、これ」


比嘉さんは短く息をついてから、俺の手元からプリントをひらり回収する。


紙の端を肘で押さえ込んだところで、教室の後ろ扉が開け放たれた。


ばーん、とつい目を瞑ってしまうほどの轟音だ。


「おっはよ〜、……って、ん? 灯里いないところで、なんかやってた? 三人でより固まって! まさか、公然とダブル不倫!?」

「やめろやめろ、廊下に響いて誤解されるから!」


俺は真っ先に抗議する。


……にしても、朝から元気だねえ、藤浪は。


女子でも最も背が低く、小さい身体なのに、どこから、あのパワーが発揮されるんだか。


「おはよう、藤浪。

 今なぁ、湊川くんの保護者サイン大会してたんよ。どっちが一番うまく書けるか、っていうね」

「ほー……! ね、それ、灯里も参加したい! 湊川ってそそられるよねぇ、ほんと格好いい名前。欲しいくらい!」

「なに言ってるんだよ、藤浪……、お前ってほんとに」


俺は即座に突っ込みを入れる。


くそ、ナチュラルに言葉が足りなさすぎやしないだろうか、この少女。

さすが数多の男子を勘違いさせてきただけのことはある。


こんなんじゃーー


「あげなぁーーーい!!!!!」


…………佐久間さんが、暴走モードに突入してしまった。


借りてきた猫のように、しんとしていたところから翻って、さっきの藤浪の挨拶に負けるとも劣らぬ絶叫をしてしまう。


「えー、なんで。名前くらいいいじゃーん。

 格好いいんだもん。この『湊』って漢字なんか特にさ、払いが多くてイカしてる!」

「あ、げ、ま、せ、ん!」


…………そもそも俺の苗字なんだけどな?


せっかく、馴染んできた朝が、大荒れだ。


なんてトリックスターなんだろう、藤浪灯里。


このいかんとも表現しがたい思いを共有できるのは、今は比嘉さんだけだった。





その後、藤浪の声かけもあり、なぜか『湊川の字をうまく書けた人優勝大会』が始まってしまう。


勝ったのはーーーー


「いや、悪りぃな、佐久間さんよ。俺が勝っちまうかー、そっかー」


なぜか陸奥爽太郎だった。

無駄に字がうまいんだよな、こいつ。


「なんでぇぇっ!?」


と、佐久間さんは本気で悔しがっていたが。


いいオチがついたと喜ぶべき、なのかもしれない。

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