第42話 君の隣に行きたい。
♢
このアパートは、近くにある六階建てのマンションと正面から向き合っている。
昼間ならば、たまに洗濯物を干しに出てきた向かいの奥様と鉢合わせることもあるが……。
この時間は、ただ虫の鳴き声が渡るだけの、人目のない空間だ。
そこへ、右側の仕切り板の奥から、がらりと窓の開く音がした。
「おーい、もういるの?」
時間帯に配慮した、落ち着きのある声がする。
かといって、アイドルモードの時みたく、冷たいわけじゃない。
こんな声で呼びかけてもらえるのは、もしかしたら俺だけかもしれない。
「いるよ。えっと、その、お疲れ様」
さっきまで、電話で会話をしていた。
どう挨拶していいか分からず、俺の声は、中途半端なものになる。
「せっかくベランダに出たんだし、顔、見たいなぁ。翔くんの顔が見たい」
「……学校でいつも見てるだろ〜」
「でも、それはみんな見てるじゃない? こんな夜遅くに見られるのって、私だけだもん。なんというか、とっても優越感があるんだよ」
欄干がただの風より重いもので、軋む。
俺がちょっと身を乗り出して横を覗いてみれば、彼女は器用なもので、手すりの上に座っていた。
ただでさえ危険だ。それもボロアパートなのだから、さらに心許ない。崩れたり、ひん曲がったりしかねない。
不安に思っていたら、彼女は軽くジャンプして内側へと戻った。
「翔くんに注意される前に戻りました! えへへ、偉いでしょ」
今度は両手を手すりに添えて、首だけをちょっと外に出す。
何気ない行動だったが、彼女にこれをされて、どきりとしない男はいないに違いない。
風呂には電話の前に入っていたのだろう。
短い髪は耳にかきあげ、いつか見た寝巻きに身を包んでいた。
ありのままの姿という感じがして、とても愛らしい。
「しよっか、真面目なお話」
「……だな。佐久間さんが寝ぼけて、二階から落ちる前に」
「その時は翔くんも道連れにするよー、だ」
「……さすがに嫌だな、同じ接骨院に通うのは」
「学校も、家も、接骨院も同じ。あはは、ある意味、素敵かもね」
少し、間ができた。遠くでバイクの走り去る音がする。
話を切り替えるための時間は、それくらいで十分だった。
「復業するかもしれない、っていつの話なんだ?」
今度は俺から口火を切ってみる。
彼女の領域に、大きく踏み込むような話だった。
人の話に、そうそう自ら首を突っ込んでこなかった俺だ。
話をするなら聞く。
常々そういうスタンスを取ってきたのだが、こればかりはそうもいかない。
「あー、その件ね。当分、いいかなぁって思ってるよ。会見でも言ったでしょ、無期限だって」
「……それってどれくらい?」
「ほんと当分だよ。決まってないけど、向こう数ヶ月とかって話じゃない。もっと先かな」
拍子抜けした。
電話していたときの口ぶりから、てっきり、もっと短いスパンの話かと思った。
「復帰のお話はあったんだけどね。断ろうと思ってる。今戻ってもうまくやれる気もしないし、それにね、もう私、ここまできちゃってるもん」
「……どこまで?」
「君のところまで。翔くんの横まで。
遠かったんだよー? 私にしてみれば、ずっと夢見てた場所なんだもん、君の横。
それを願って歌って、踊って、生きてきたからさ。今さらここから戻りたくもないんだ」
アイドルが、武道館より夢見る場所が、このボロアパート。
そのアンバランスさに、俺は少し笑ってしまう。
でも、やり遂げてしまうのだから、そこも含めてトップアイドルの器なのだろう、彼女は。
「だからもうね。私さ、もう遠慮したくない。翔くんに、だけじゃなくて、誰にもね」
「……誰に見られたって構わない、と」
「そう、いいんだよ。だって、ここは私が掴み取った場所だもん」
夜空にぼんやり浮かぶ星に向かって、彼女は手を伸ばす。
その一つを掴むように、きゅっと握りしめた。
激戦アイドル界のトップの座を掴んだ手だ。
その小さな手が、細っこい指が、とても大きなものに見える。
彼女がどれほどの想いをもって、ここにきてくれたのか。それを聞いてなお、俺は簡単には首を縦に振れない。
自分でもここまで人の意見に肯けない自分に、少し面食らう。
やがて留めておくのがもどかしくなってきて、
「……でもさ、また変な輩が絡んできたりするんじゃないの。ストーカーとか、マスコミとか、危ないだろ」
仮定だとしながら、前よりは直接的に伝えた。ストーカーの五文字を、強調もしてみた。
それを受けても彼女は、軽く微笑んだままだだった。薄いまぶたを、ゆっくりと閉じる。
「いいんだよ、別に」
「……よくない。横にいると、不安で仕方なくなるんだけど?」
「翔くんに変なことする奴がいたら、『佐久』の名前が許さないし!」
「俺は自分の保身を考えて言ったわけじゃないからな。心配してるのは、佐久間さんのことだよ」
「私の心配? してくれるのは嬉しいけど、私はいいんだよ別に」
まるで、小学生の頃の彼女みたいな発言だ。
ひどい虐めや嫌がらせを受けても、平気そうな顔で笑っていた。
けれど実態は仮面を被っていただけで、その裏側では傷を負っていた。
か弱い一人の少女でしかなかった。
だから、あのとき彼女は泣いたのだ。
でも、いまの彼女からはそんなハリボテの強がりは感じられない。
月明かりの下、その姿はとても強くて美しい。夜でも、太陽のように煌々と俺を照らす。
「全部乗り越える覚悟で来たんだもん。嫌がらせとか嫉妬とか、興味本位とか、私はもう知らない、気にしない。
それでも、行きたいんだ、そこに。この壁を越えて君のところにね?」
俺の部屋の方を彼女は指差して言う。
「ちなみに、この仕切り、破っていいのは非常用の時だけだからな」
「一住人さんに言われなくても分かってますよー、一応、大家だもん」
「……ならいいけど」
「とにかく! 私はもう誰にも遠慮しないの。明日は君と登校して、君と過ごして、一緒に帰りたいっ」
いっそ人目など一切気にしない。
俺の思いもつかないところから、答えを持ってこられた感覚だった。
まったく、この少女はどこまで真っ直ぐなのだろう。
トンカチで殴られたのに近い衝撃を受けて、俺は頭をもたげた。
まるで太陽光だ、彼女はどこまでも直線で進む。
アイドル稼業なんてやっていたら、少しくらい歪んだっておかしくないのに、彼女はどこまでも前だけをみている。
したいことを、したいとそのまま言ってのける。
どれだけ綺麗になっても、有名になっても、根っこは同じだ。
いつか俺が好きになった彼女もそうだった。
悩んだり悔やんだりしても、自分の置かれた環境に不平は言わないで、抗って見せる。
「えへへ、君のおかげだね、ここまで言えるようになったのも」
「……もしかして、鞄取られたときの?」
「うん。あの思い出がね、私にささやくんだよ! 負けるな、戦え〜ってね」
なんだよそれ、とだけ返しながら、俺は柵にもたれかかり空を見上げた。
彼女がそこにいることは、あのお星様の一つが降りてきたようなものだなと思う。
横で同じ空を見上げていること自体が、本当に奇跡みたいなもの。
その彼女が、ここまで言っているのだ。
俺が消極的な考えと一般論で否定するだなんて、できるわけがない。
一緒に戦ってやれないでどうするんだ、とも思う。
たとえば味方が俺たち二人しかいなくても、俺は彼女の横でファイティングポーズを取らねばなるまい。
そうするべきで、そうしたい。
「なぁ、佐久間さん。明日も朝早く出ていいか?」
「うん、それはいいけど……。つまり、まだ人目から隠れるってこと?」
「そうじゃないよ。むしろ逆だ、逆」
今言う必要もないか、と俺は一旦伏せておくことにする。
どうせ明日になればわかることだ。……いや、日付ももう跨いでるんだっけ。
「もう寝ようか。今日と同じ時間に起きようと思ったら、もう六時間も寝られない」
「…………ね、寝坊しても置いて行かないでね?」
「心配しなくていいよ。合鍵で開けてでも、叩き起こしに行ってやる」
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