第38話 【side:佐久間杏】君だけの私だよ。




君だけの私だよ。

そばで見つめさせてね、その笑顔。

君のために君の横で歳をとる。


シワが入ってもさ、きっと笑ってあげる。

だから寂しくさせないでね?




歌の一節を、暗い部屋で一人、私は口ずさむ。


『君だけの私』。

私が、アイドル・佐久杏子としてリリースし、世間でも人気を博した一曲だ。


ミリオンの売り上げを達成して、カラオケ屋でもランキング1位を記録していたらしい。



どうしてヒットしたのか、当時はよく分からなかった。

レコーディングでも、ステージでも、何気なく歌っていたその歌詞が今、胸に沁みて仕方がない。



寂しいな。


会って、お話ししたいな。


声が聞きたいよ。



単純な気持ちだけが頭をぐるぐる渦巻いて、ベッドの上、私は足を胸元に抱え、身を丸める。


手には、いつか彼から貰ったジュースのキャップだ。握りしめる力が、今は入らない。


ぼやぁっと広がりきらない視界で、それを見つめる。


深夜0時をとうに回っていたが、全く寝付けなかった。

部屋の電気は落として久しいのに、どうしても眠りに落ちることができない。


翔くんの家では左側、つまり私の部屋の方へベッドを寄せていた。

だから私は右側、彼の部屋側にぴったりとつけて、新しいベッドを置いた。


つまり、彼と私の間にあるのは、たったの壁一枚だ。声も振動も聞こえるだろうくらい、それはとても薄い。


大家の私が言うのもなんだが、かなり年季が入っているのだ。


聞こえないかな、と思ってしまう。


「君だけの私だよ」


そう、君だけの佐久間杏。


何百万の人が私を愛してくれたって、私は君だけのもの。


誰かにとってのアイドルじゃなくて、湊川翔くん、君だけの私。


それ以外の誰のものでもない。どれだけたくさんの人の声援を受けても、どれだけテレビで称賛されても、足りない。


君じゃないとだめなふうに、そういうふうに、佐久間杏はできている。



だから私は、壁に向かって口にする。


反応はなくて当然なのに、ないことに胸が痛む。とっても歯痒くて、とんと壁に指を這わせた。


壁さえなかったらな。


いつか、冗談で言っていたことを本気で思う。


そうしたら、私は迷わず転がっていくだろう。それで、ハグよりもっと先のことを求めるんだ。


熱いままの身体を、ありのままの私をさらけ出してぶつけて、君のありのままを受け取って。


そうできてしまえば、私はすぐにだって幸せになれるはずなのに、簡単そうにも思えるのに、今はそれができない。


だから、物足りなさと切なさを抱えて、一人丸まっている。じれて痺れる身体を持て余すしかない。



どうしてこんなに好きなのかなぁ。


考えると分からなくなるけど、こんがらからまっても、好きの思いは変わらない。


君の名前が好き、声が好き、手の形が好き。


その手さえ掴めれば、他のものは全部手放してもいいと本気で思う。


歌じゃないけど、シワができるまで君の隣にいたい。

でも、その優しさをすぐ隣で受け取れれば、私は幸福すぎて、いつまでも歳をとらないかもしれない。


とびきり情熱的でなくても、甘くなくても、いい。平坦でもいいんだ、別に。

ただ、もう離れたくなくて、ずっとそこにいてほしいだけ。


今だって、現在進行形でそこにいてほしい。



わがままだとは、思う。

翔くんが私のことを思って、こんな提案をしてくれたことも分かっている。


でも、それでも。


もうまったく寝られそうにもなかった。

私は立ち上がって、仕事用のガラケーを手にして、一通のメールを確認する。


今日だけで、もう何度も開いた。けれど、返信メールを作る気にはなれない。


それは、事務所のマネージャーからのものだった。



『休業を撤回して戻ってきてくれないか、他の二人のメンバーも待っている』



そんな内容が、長文で綴られていた。

ありがたいことに、必要としてくれているのが、よく伝わってくる。



私が翔くんに抱いてきた思いを理解して、一度は休業を認めてくれた人たちでもあるのだから、申し訳ないとは思う。



でも、たぶん無理だ。


アイドル稼業がその見た目や華やかさとは裏腹に、過酷なものだとはよく知っている。

望んだから、はいどうぞ、ですぐにやらせてもらえるような世界じゃない。


少なくとも、翔くんを落とすことだってできていない、こんな生半可な状態では、絶対にダメになってしまう。


そもそも戻る場所があるのだかさえ怪しい。

だって、私はとっくに色々かなぐり捨ててきた。


母の用意してくれたスターへの道も、積み上げてきたアイドルとしての人気も実績も、なにももう私の手元にはないーーーー。


と、そこで私はやっとある事実に思い至った。



「…………そっか、とっくに来るところまで来てたんだ、私」



まだ、翔くんを捕まえるまでの道のりは、遠いと思っていた。正確には近づいたのに、また離れてしまった。


霞に溶けるみたいに離れていってしまって、手が届かなくなった。



でも、それは後ろを振り返っても同じだ。


たった三週間前、アイドルをしていた私に、私はとっくに戻れない。


もう引き返すなんて到底できないところに、長い道程の真ん中に、私はいるのだった。


なぁんだ、と仰向けになって呟く。ふふっと勝手に口角が吊り上がる。


なんのことはない気づきが私の周りを浮遊していたゴミを払っていく。

悩みごとが、頭からふわふわ暗がりへと抜けていくようだった。


一人で思いをこじらせて大きくして、うじうじ悩んでいる場合じゃない。


どうせもう、私はここまでやったんだから。


謝罪会見まで開いて、苦労で積み上げてきたアイドル人生なげうって、それでも私は彼が、湊川翔が欲しかった。


ここにくるまでの私は、そりゃあもう全力だったはず。


全力で欲しがっていたはずだ。


……それが、今はどうだ。


作戦とはいえ、ここへきてヒヨって、前へ進めなくなっている。


たしかに翔くんが言うみたいに、世間が私を忘れていくまで影に隠れているのは一つの方法だ。


私を応援してくれない人だってたくさんいると思うし、姿を見られれば、冷ややかな声を投げかけられることもあるかもしれない。



でも、別にそれはそれでいい。受け止めればいい。

そういう方法だってあっていいと思うのだ。



でも、それでも、私は彼がほしいんだから。


今すぐ駆け出して行きたいのだから。その手を掴みに行きたいのだから。



だったら、足掻かなきゃいけない。少なくとも一人で爪を噛んでいる場合じゃない。



深夜1時、私は密かに攻勢へ出る決意を固めた。

そして今度はよりはっきり、彼の部屋へひとりごちる。


「あなただけの私だよ。そばで見つめさせてね、その笑顔」


ちょっと決意には弱いかな?


うん。絶対見てやる、君の一番そばで。

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