第35話 君の前にいるよ、私。
「……翔くん」
「…………はい」
一日を作戦どおりになんとか乗り切って、帰宅後。
俺は自室で、正座をさせられていた。
と言っても、クッションは敷いてもいい、という優しさのおかげ、別に足は痺れない。
なんなら可愛い美少女さまが、仁王立ちになる姿を間近で、しかも下から見れるというご褒美つきだ。
ファンは発狂して欲しがる権利かもしれない。
朝ご飯を食べてもらうため、佐久間家のポストに、家の鍵を入れたことを失念していた。
帰るなり、彼女がすぐ部屋へ入ってきて、こうだ。
「今朝のメッセージはなんですか、学校での素っ気ないのはなんですか、放課後先に帰っちゃったのはなんですか」
むすっと腕を組んで、矢継ぎ早に問いかけてくる。
「……書いたとおりだよ。しばらく、ただの隣人でって」
「へぇ翔くんはただの隣人さんのために、朝ご飯もお弁当も用意するんだ?」
……言われてみれば、たしかにそうだ。
完全に口だけ、形だけになっているのは俺の方だ。
やばい。思いっきり、隣人の枠超えてんじゃねぇか、俺。
とくに横のつながりが希薄な今どき、そんな隣人どこにもいない。
「味噌汁、大根の煮物、どっちも美味しかったよ。いい朝ごはんだったよ、ありがとうね。
でも寂しかったよ。ちょっとしょっぱい気持ちになったよ」
彼女は目をきゅっと寄せて、切なげに俺を咎める。
「なんでもやるって言ったけど、やだ。あのお話はやりたくない。ただのお隣さんは無理だもん」
ぶんぶんと、彼女は艶めいた髪を振り乱す。
どうしても胸が締め付けられてしまうが、
「説明するから、ちゃんと」
ここで折れてはいけない。
そもそも叱られイベントが発生していなかったとして、今日には、ちゃんと伝えるつもりだったのだ。
俺は彼女にも、座ってもらう。
姿勢を正して、今日の行動の理由をなるたけ丁寧に説明した。
ストーカーのことは伝えない。
代わりに、他のことは洗いざらいに話した。
世間がスーパーアイドル・『佐久杏子』を忘れかかる頃まで、もう少しだけ、今日のような日々を続けたい、と。
「佐久間さんがいない日常は、正直変な感じだったよ。歯車狂うっていうかさ」
「私は、君のいない日常、めっちゃ、つまんなかったよ。
昼休みもメッセージだけのやり取りって、変だよ。だって、私はここにいるのに、翔くんの真横に、真ん前に!」
声を荒げて、彼女は訴える。そんなのは俺だって、だ。俺だって……
「…………こっちも、つまんなかったさ。佐久間さんのいない日常」
えいや、で言ってしまった。
どうしても照れ臭く、つい顔は背けてしまったが、口にはした。
これが俺の本音だ。
この程度のことしか言えないけれど、逆にいえば、加工一切なしの無添加である。
彼女がそこにいる刺激的な日々の外は、穏やかではあるが面白さには欠けた。
もう身体は、彼女がいることに慣れてしまっている。
「でも、それでも少しの間だけ、無関係を装っているべきだと思うんだ」
「少しってどれくらい? 一日? 無理だよ、そんなに」
「……一日もダメなのかよ」
「ずっと我慢してきたんだもん。もう毎日でも、翔くん摂取しないと生きていけないよ、私」
大真面目な顔で彼女は言ってのける。
そのまましばらく、その琥珀色の瞳は俺を真っ直ぐに見続けた。
目角は尖って、かなり力が入っているのが窺える。
本気の目。
でも、それなら俺だって軽い気持ちで、距離を取ろうなどと言ったわけじゃない。
しばらく目と目だけで、やり取りを交わす。
その末に、彼女は無言で両手を俺の方へと広げた。
脈絡が読めず、俺は少し戸惑う。
「……えっと、組手でもする?」
「もう、わざと言ってないかな、それ。
違うよ、言わせないでほしいけど、鈍いもんね、翔くん。仕方ないよね」
やっぱりまだ怒っているらしく、ところどころ当たりがきつい。
けれど、そんな一面さえも、受け取る側の心を温めてしまうから不思議だ。
リバーシがひっくり返そうが返すまいが、一つの石であるみたい。
結局のところ、可愛い。
「ハグ、して」
「…………ハグ?」
「そう、ハグ。
ちょっとの間ならね、私、我慢するから。だから、ハグして? そうしたら頑張るよ。翔くんと一緒に過ごすために、私頑張るから」
その顔は、真っ赤に染まっていた。
大窓から差し込む夕日とほとんど変わらない。
ベッドに潜り込んできたり、時には大胆な行為をやってみたりする彼女だけど、この行動には一大決心が必要だったらしい。
指先もほんのりと震えているし、強く結んだ唇は歪んでいる。
「翔くんから、お願い」
「……でも、俺まだ、その佐久間さんの気持ちに答えられてもないし」
「関係ないよ、そんなの関係ない。今。今、私は抱きしめてほしいんだ、君に」
俺は時間をかけて悩んだ末、こくりと頷いた。
恐る恐る、彼女の首裏に手を回す。
ちょっと触れて、ぎこちなく胸の中に彼女を引き寄せた。
断れないから、ではなく、たぶんきっと自分の意志からだった。
過去の想いも、今の想いも、ないまぜにした結果、そうしたいと思った。
つまりもう、佐久間さんの好意への返事は、ほとんど決まっているのかもしれない。
けれど今、その答えを言うのは逃げだ。
こんな流れに乗せて、ぽろっと言うのではいけない。
ちゃんと今も、過去も整理して、俺から伝えるのが筋だ。
なにも言えなかった過去を乗り越えるためにも、そうする必要がある。
だから、少しだけの抱擁ののち、俺は彼女の身体を離す。
けれど、佐久間さんは腕を下ろさなかった。俺の背中にきゅっとしがみつく。
「翔くん、もうちょっとこのまま」
「わかったよ、わかったから」
「二回言わないんだよ、そういうのは。一回でいいの」
「……わかったよ」
なかなか終わらない、「もうちょっと」だった。
佐久間さんは、いつまでも俺の胸の中にいた。
確かにそこにあるのに。
今に霧になってどこかへ消えそうな、不安定な温かさだった。
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