第34話 当面の間は。
タコ焼きを回しながら、縫い物をちまちま進めながら、就寝前ベッドで転がりながら。
俺が考えた末、至った結論はシンプルな原点回帰だった。
『無関係を装おうしかない』、とそれだけ。
外でも、学校でも、なるべくだ。どこに目があるかわからない以上、家の行き来も、しばらくは控えるつもりである。
あのストーカー野郎も言っていた。俺が、彼女に近づく不埒者だ、と。
あの衝撃の会見により、世間にしてみれば、俺という存在が妬ましい邪魔者になっているわけだ。
アイドルオタクではない俺でも、佐久杏子が恋を宣言する男へ、嫉妬の感情が向けられることくらいは理解できる。
ただ、それが時間の経過とともに、だんだん収まりつつもあるのはたしかだ。
いつまでもゼロにはならないだろう、けれど波は必ずもっと引いていく。
彼女がたとえば復業しても、時間の経過は関心を薄れさせるにちがいない。
結婚を発表した女優が、しばらく落ち目になったのち、人気を吹き返すのと同じだ。
どの程度かかるかのかは、分からない。けれど、まずもう一、二週間。
ベストではないが、これがベターだ。
♢
ーーそして翌日、月曜日の早朝。
俺は佐久間さんに、一通のメッセージを打った。
『今日からしばらくだけ、ただの隣人をやってほしい』
、と。
正直、送るのは躊躇った。
タコ焼きをひっくり返すだけで得た、至極しょうもない権利で、なにを偉そうに命令をしてるんだ、とも思うし胸も痛む。
だが、背に腹は変えられない。
俺は朝6時、もう家を出てしまう。
そうでもしないと、彼女はたぶんついてこようとすると思ったから。
朝ごはんと弁当は、いつもどおり佐久間さんの分まで用意してあった。
俺の家の鍵は、彼女の家のポストに入れ、その旨を連絡をしておく。
彼女が単体で狙われる可能性も考えて、ついでに防犯ベルも入れ込めておいた。
学校へたどり着いたのは、開門の七時を少し回ったくらいだ。
ほんの一部の、部活ガチ勢を除けば、ほぼ無人に近かった。
真面目すぎる委員長だなこりゃ……
丸メガネかけてたら完璧だったかもしれん、などと思いながら教室へ入る。
間違いなく一番乗りだろうと高をくくっていたのだが、
「あれ、なにやってるの、比嘉さん」
教室の真ん中付近では、まさにポニーテールがくくられようとしていた。
「嘘。うちと同じくらいに人が来るなんて。おはよう、湊川くん」
彼女は咥えていた髪留めのシュシュを一度机に落として、挨拶をくれる。
そういえば、そうだった。
部活もないのに学校へ来るのが早いという理由だけで、去年は委員長をやらされたのだっけ、彼女は。
「こんなに早い時間に来てどうしたん? しかも、一人やなんて珍しいやん。いつものお姫様は?」
「……お姫様って。そんなお高く止まってもないよ」
「佐久間さんがお高く止まってないのは、湊川くんの前だけやん? そういうふうに、うちからは見えてるけどなぁ。
あ。もしかして湊川くんも王子様やったん?」
いやいや、ないない。
ボロアパートで縫い物してる王子様、嫌でしょ、普通に。
佐久間さんが他人からしてみれば、お姫様なのを認めるとしても、俺は超庶民だ。
「それで? なんでこんな早くきたん?」
「俺は、…………まぁちょっと、のっぴきならなくてな。比嘉さんは? もしかして毎日この時間?」
「まぁ、バトミントン部は朝練もないしね。
うち、家族多いから家やと勉強できんのよ。そういう意味では、のっぴきならんね、うちも」
受け取る側にしてみれば、キツイと一般的に言われる関西弁も、彼女にかかれば、ほわっと優しい膜に包まれる。
ふわふわな卵あんだ。
早朝の登校理由も、なんとまぁ、健気なことか。
そして、委員の候補に目されるわけだ。
俺は自分の席へと向かう。そうしながらも、会話はなんとなく続く。
「大変だな、それは。ごめんな、俺邪魔だよな」
「ううん、そんなことないない。うちの勝手にやってることやし」
「極力静かにはしておくよ。……俺も勉強するかな」
が、早い段階で途切れた。
別に話題がない、とか言うわけではなくて、おのおの勉強を優先するためだ。
広い教室内に、二人分のペンの音が走る。
それが不意にやんで、俺は自然と声をかけていた。
「……分からないところでもあった?」
「ちょっとだけ。英語の宿題の大問1って、これで合ってるんかな」
「あー……それイディオムだからなぁ、覚えなきゃ仕方ないやつだよ。
『for the time being』、当面の間は、って訳すんだ。たしか単語帳に乗ってたと思うけど」
あくまで、席を突き合わせることもなく、席五つ分程度離れたままの距離感で伝える。
「ありがと。そこまで丁寧に言うてくれるなんて、ほんま優しいなぁ、湊川くん」
「おだてても、なにも出ないよ」
「ふふ、残念やなぁ。別のイディオムの答えも出してほしいんやけど」
なんだか、少し前に遡ったかのようだった。
佐久間さんが来る前の、平坦だった頃の日常を思い出させる時間だ。
たった二週間前のことである。
それを懐かしいと思ってしまうのだから、よっぽど佐久間さんは、俺の生活に入り込んできているらしい。
もう今さら、いなくなられても困る。
できれば、そこにいてもらいたい。
慣れるというのは、麻痺することに近いようだ。でも今、束の間とはいえ、俺は元の感覚を取り返した。
こうしてあったはずの日常を味わったことで、自分が思っていた以上に強くそう願っていることが分かって不思議な気分になる。
そのためにも、やっぱりこれはベターな作戦だ。
しばらくは、こうして普通の日々を過ごすそう。
そう心がけよう。
ーーそう、当面の間は。
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