第20話 【side:佐久間 杏】たしかに呼んでくれた。
たしかに呼ばれた。
杏ちゃん、って呼んでくれた。
それだけで、胸がいっぱいになって溢れかえっていた。
たかが自分の名前を呼ばれただけなのに、おかしい。
芸能界でも気安い人だったり、下心を隠さない人は、同じようにちゃん付けで呼んでくることもあった。
それなのに、彼の口から言われると、なにかが違う。
身体の火照りが止められない。奥の奥から、幸せがふつふつ、湧き出してくる。
「ごめんね、翔くん。私、起きてたんだよ?」
そう、起きてしまっていた。
ほんのちょっとした、駆け引きのつもりだった。
といって恋愛なんてまともにしたこともない私が頼ったのは、他人の知識だ。
恋愛のイロハが記されたウェブサイトに、
『寝たふりをすると、あざと可愛いポイントアップ!』
と書かれていて、それをそのまま、物は試しとやってみたのだ。
それが、思わぬ方向へと転がった。
あんなのを聞いてしまったら、今さら起きているだなんて、言い出せるわけもない。
だから、私はズルを通すことにした。やりきって、嘘を真にしてしまえと思った。
真っ赤だっただろう顔を隠すためにも、ひたすら伏せ続ける。
彼が寝つくのを待って、やっと動けるようになった。
翔くんは、すっかりベッドで横倒しになり目を閉じていた。私はその枕元に肘をついて、優しい人の顔を見つめる。
狸寝入りだったのに、毛布をかけてくれたうえ、クッションまで用意してくれた。
翔くんの匂いがする毛布、あれはご褒美だったなぁ……貰って帰りたいなぁ、ってそうじゃなくて。
湊川翔は、私が好きだった、ううん、大好きな彼のままだ。
自覚はないだろうが、彼だって十分に綺麗な顔をしている。
目元などに幼さは残しつつも、四年前より彫りの深くなった顔立ちは、男らしさも増して格好よくなった。
仕事柄、二枚目俳優やら男性アイドルらを見てきたけれど、誰一人彼には敵わない。
たぶん、たっぷりバイアスがかかっているのだろうけど、私の目にはそう映る。
「今日のお勉強、懐かしかったね」
返事があるわけないと分かっているので、半分一人ごととして呟く。
そもそも彼と仲良くなったきっかけも、たしか勉強からだった。
その頃から芸能活動の準備を始めていた私は、なかなかどうして勉強に割ける時間が少なく、頭がよくなかった。
まるで授業にもついていけず、課題などは欄をただ埋めるだけになってしまい、理解はゼロ。
そして、そんな状態に陥っても、私には頼れるような友達がいなかった。
それは私の性格のせいもあれば、芸能人の娘だというのもどちらも影響していたと思う。
周りからは、常に特別視された。
あるものは賞賛ばかりしてきて、あるものは嫉妬から虐めたりしてくる。
共通して言えるのは、彼らにとって私が、女優『佐久光里の娘』でしかないということだった。
そういう人の思考の裏が透けて見えるようになってから、私は一人でいることが多くなっていた。
だから、休み時間も話す相手なんかいない。
「なにやってるんだ、勉強?」
初めて声をかけられたのは、ほんと何気ないことだったと思う。
だって彼は、頬杖をついていた。手が空いて、時間を余していたのだろう。
隣の席の、湊川翔くん。
身長が低く、背の順に並べば、いつも前方で腰に手を当てている。その程度なら知っていたが、それ以上の関わりはなかった。
「ん、あれ。そこ、式が間違ってるな。たぶん、こうでーー」
そんな彼が、唐突に声をかけてきたと思ったら、ノートに解き方を書き出して見せてくれる。
大いに戸惑ったし、信用できなかった。
どうせこの人も、裏があるに違いない。最初は、そう思っていた。
だって私に親切な人は、たいてい母に取り入ろうとしたり、サインをねだったりした。遅かれ早かれ、みんなボロが出る。
けれど、彼はいつまで経ってもなにも言い出さなかった。
小学生にとっての勉強なんて義務以外の何者でもない。
なにが面白いわけでもなかっただろうに、連日、私の横で休み時間を過ごす。
それどころか数日したところで、
「……翔、なに。あたしも解かなきゃダメ?」
「頼むよ、瑠璃。国語はお前の専売特許だろー」
友人まで巻き込んで、私に協力をしてくれた。
彼の幼馴染で、名前は西 瑠璃(にし るり)ちゃん。
この時は、やっと翔くんに話しかけられるのに慣れてきたところだった。
正直、瑠璃ちゃんにはビクビクしていたが、彼女はのちに、初めての女友達になった。
静かで大人しい子。その印象そのままに、慎ましやかで可憐な子だった。
静かに一人ぼっちでノートに向かっていたはずが、気づけば笑いながら三人で机を囲んでいる。
まるで、普通の小学生みたいだ。
その状況が、私には半ば信じられなかった。それから、うんと嬉しかった。
それからというもの、宿題をもらうことさえ苦痛じゃなくなった。
教室以外でも、翔くんと瑠璃ちゃんとは、仲良くしてもらった。
帰り道を一緒に帰って公園やらに寄り道したり、休日には家へお邪魔したり。
もっとも強く記憶に残っているのは、翔くんのお母さんに連れて行ってもらって、ゲームセンターに行ったことだ。
昔から憧れていたのだけど、女優のお母さんが連れて行ってくれるような場所じゃない。
翔くん、瑠璃ちゃんと三人お揃いの星型キーホルダーを取れたときの感動なんかは、今も覚えている。
今ではすっかり塗装が剥げてしまったが、いまだに持ってもいた。
誰かにとっては、なにげないことかもしれない。
でも、そんな普通を、私は六年生にして、はじめて味わっていた。
翔くんが、それを私にくれたのだ。
でも、私がそんな当たり前を享受することを、快く思わない人たちもやっぱり一定数いる。
私が何もかも手に入れた幸福者に見えて、妬ましかったのだろう。
事件が起きたのは唐突なことだったけれど、ある意味おこるべくして起こったのかもしれない。
ある日、私の上履きやら鞄やら一式が忽然となくなっていたのだ。
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