第19話 お勉強も君となら嫌じゃない。



嫌がると思った。嫌がって、今日は帰るね〜と引いていくかと思った。


昔の彼女は大の勉強嫌いで、テストでは平気で平均を下回り、補修の常連。

もちろん、夏休みの宿題は間際に駆け込むタイプだった。


養成所の練習が大変だとか理由はあったらしいが、そもそも好きではないのはたしか。


だったのだが。


「お勉強か〜、うん、やろっか」

「えっ」

「自分から誘っといて、なんなの〜。私だってお勉強くらいします〜」


不貞腐れたように、彼女は床へと降りて、ローテーブルの前に座る。

カバンから筆箱を取り出すと、ペンを回しはじめた。


予想していた展開とは百八十度違って戸惑うが、こうなったらばしょうがない。


なるべく眠くなるものを、と棚にささった本を指差しながら、選択しようとする。


なんとも、思考が丸見えだった。


歴史に手をかけると、余裕そうな顔。

英語だと、真顔。生物だと、ちょっとにこり。

そして数学だとーーーー


「翔くん、意地悪だ!?」

「苦手な科目を克服できた方がいいだろー」


と、苦手も得意もない奴が言うのもなんだが、これはいけるかもしれない。


俺たちの高校は、二年から文系と理系、さらにはその中で国公立志望と私立志望とに分かれている。


俺たちのクラスは文系の国公立志望で、ひとクラスしかない。


「というか、もしかして国公立文系に来た理由って……」

「そりゃあ、君がいるからだよ? 叔母さんづてに、翔くんママから聞き出してもらったんだー」


……うちの母は、俺に個人情報がないと思っているのかもしれないなぁ。


「君の進路に私あり、だよ。一緒に歩いて行こうね」

「なんですか、その格言みたいなやつ」

「おしゃれで、文系っぽいでしょ♪ でも、本当に理系は向いてないから、こっち選んで正解だと思ってるかな。

 文系なのに、数学あるのだけがショックだよ」

「まぁ国公立の試験は、数学もあるしなぁー」


うげー、と佐久間さんは机の縁に顎をかけて戦闘不能のポーズ。


しかしこのコースを選んだ以上は、三年生の最後まで、数学は必修なので、亡霊のように付き纏う。


さっそく問題集を取り出して、俺たちは一年生の復習を開始した。


「数学なんて中学校から意味不明なんだよね……」


彼女はすぐに、リタイア。身体を後ろへ大きく投げ出して、ばーんと足も開いてしまう。


が、根気だけはあるらしく、髪を乱しつつも、むくり起き上がってくる。


「翔くんとお勉強するのも、したかったことの一つなんだよね。だから、頑張るよ!」

「……そういう理由だったの」

「えへへ。理由は不純でも、やるなら文句ないでしょ?」


こうまで意欲を見せられたら、もう追い返すわけにはいかなくなった。


勉強は高校生の本分だとはよく言ったものだ。時には教えてやりながら、俺たちは自習に励む。


「翔くん、ここが分からないんだけど……」


そう彼女が見せたのは、序盤も序盤。二次方程式の解き方だ。

もはやちょっと難しい中学三年生の範囲である。


「これ、習ってこなかったのか?」

「ううん、学校ではやってたと思うんだけどさ。アイドルって売れると、授業に行けなかったり、宿題する時間なかったりしてさぁ」


言われてみれば、養成所にいた時点で忙しかったのだから、それは自明の真理だった。


「一年生の単位もけっこうギリギリなんじゃないかなぁ。翔くんは今もできるの?」

「まぁまぁだな。って言っても、本当に全部そこそこなんだよ。二百人いたら、全科目において三十番くらい」


一応、主要教科全部なら、一桁代には入るだろうが、自慢みたいになるのでここでは言わない。


まぁなんというか、ちょうど委員長っぽい成績だよなぁ。


良には届かず、だいたいが可。


「す、すごいよ、十分。私の家庭教師やってくれないかな、ダメダメは私を救ってください、先生っ」


なぜか、もう先生になっているし。


「お金ならいくらでも出すし!」


とか言ってるし。

学年一位を平気で取るような秀才くんだったら、ともかく、ちょっとできる程度の俺には重荷だ。


「別に、たまに教えるくらいならいいけどさ。俺も大したことないぞ」

「いいんだよ。私は翔くんと同じレベルになりたいんだ〜。ちょうど同じレベルがいい」

「そりゃまた、なんで」

「大学! 絶対同じ大学の同じ学科に入りたいもん」


そこまで先の話が出てくるとは思わなかった。

だが、といってもあと二年もない話ではある。就職するかどうかさえ、なにも決まってはいないが、大学に行くとしたら国公立はマストだ。金銭的に。


「杏の突撃インタビュータイム! 翔くんはどこの大学に行くのかな」

「……大学はわからないけど、数学科?」

「翔くん、やっぱり意地悪だ!?」


すでに文系コースに入っているので、その選択はないのだが、やる気に火がついたらしい。


本気で俺と同じ大学に行きたい、というその思いに、俺がぐらりときていることも知らず、佐久間さんは、かじりつくように教科書と睨めっこし出す。


約一時間みっちりと詰めて、少し席をはずしたときのことだ。


戻ってくると、すやすやと規則正しい寝息が机の上にはあった。


字が写ってしまいそうなくらい、べったりノートに頬をつけて、彼女は穏やかに目を瞑っている。


「佐久間さん」


呼び掛けても、反応はない。揺すっても、反応はない。

久々の勉強で、頭がよっぽど疲れてしまったらしい。


少し強引に揺すろうかと思うが、防御力皆無の部屋着では、事故が起こりかねなかった。


アイドルを部屋にあげた挙句、その衣服を脱がしたとなれば、うん、刺されるだろう。もしくは禁固刑だ。


なす術を失って、俺は整いすぎた彼女の寝顔をしばし眺める。

いつものローテーブル、勉強道具に、極めつけは駅前でもらったティッシュ。


平凡でありふれたものしかない日常の中に、光り輝く玉が眠っていた。


こうして改めて俯瞰してもそれは不自然で、まったくマッチしきっていない。とんだ、はみ出しものだ。


同じ空間で息をしていること自体、不思議である。


本当に、テレビの中からアイドルが抜け出してきた。終わったと思った初恋には、まだ続きがあった。


「……杏ちゃん」


寝ているのなら、と昔の呼び名を口にしてみる。


まだ胸が痛むから変だ。


もうとっくに終わったと思って、深く心の底に埋めたはずだ。

それがいま、掘り返されようとしている。一度しまったものを再び見ようとするのは、結構な大仕事だ。



佐久間さんは、呼吸で身体を上下させる他は、ぴくりとも動かなかった。


俺はもう諦めて、彼女の肩に自分の使っている毛布をかけてやる。

横へ崩れたときのために、クッションを連結させて、布団もどきを作り上げる。


夜中に起きたなら家に帰って寝てくれればいい。

そうでないなら、明日は早めに起きて、お風呂に入るよう伝えなければならない。


たぶん、彼女の頬には、数式が刻まれてしまっているのだ。ガリレオかよ。



そこからの俺は、あくまで普段通りに過ごした。風呂に入り、少し編み物をしてから、お茶を嗜みベッドにつく。


いつか彼女がいる光景が当たり前になるのだろうか。


見知った天井を見ながら、知らない感情で、少し考えさせられた。

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