第17話 ランチタイムも刺激的

「へぇ、こんなところがあるんだね?」

「うん。ここなら、人が来ないと思ってさ」


別棟と本館の窪みに、ひっそりと存在する緑豊かな空間だ。


豊か、という表現が正しいかさえわからない。


管理されなくなった植物たちが猛威を振るっているとも言えよう。

芳しく生い茂った木々のおかげで、上から覗かれることもない。


知る人ぞ知る、秘密の空間だ。普段は、一人でいたい時にこそこそ利用していた。


隠れるにはもってこいなのだが、デメリットもある。

生徒らの喧騒から、ここは完全に切り取られた空間なのだ。

あまりにも、二人きりを意識させられる。


それに、お忍びランチという展開は、カップルそのものだ。


俺は彼女が座るのを待ってから、ちょうど一人分、距離を開けた場所へ腰を下ろす。


この隙間はいわば、俺にとってのセーフガードだ。


なんとしても死守したい! そう思うことができたのは、ほんの束の間だった。


空いたスペースをぱちぱち見つめて、佐久間さんは、たちまち距離を詰めてくる。


俺はなおも横にずれていくのだが、今度も、端に追いやられるのは早かった。

ベンチの手すりに上半身をもたれるようにして、身体を逃がす。


膝に手を置かれれば、俺は全身をこわばらせるしかなかった。


「なんで逃げるの〜、いいじゃん、もうちょっと近くにきてよ。誰も見てないよ?」

「そ、そ、そういうことじゃなくてだな……」

「じゃあどういうこと、ってもう聞かないよー。私、知ってるんだ。

 離れてるより近くにいる方が幸せなんだ、ってね。ずっと遠くにいたからさ」


切ない面持ちに、油断させられた。


「翔くんの肩、大きくなったね。それから、あったかいや」


彼女は、なんの警戒心もなく、俺の肩に頭を預けてくる。


小さくて軽くて、ぬくい。

ちょっと吐いた息までが俺の身体を這うように伝わってくる。


生唾を飲まざるをえない。


「あっいけない、いけない。ねぇ翔くん、昼ごはんはどうするの? 私はこのまま過ごしても十分エネルギー摂取できちゃうけど」

「なに、もしかして俺から吸い取ってるの……?」

「そんなことないよーだ。私は吸血鬼じゃないし! 分けあってたいな、どっちかって言うと。

 この幸せを半分こ?」


攻勢は、止まるところを知らないらしかった。


俺は、膝下に置いた鞄を手繰り寄せるついで、やんわり彼女から離れる。

ややむくれる佐久間さんの膝上に、菓子パンを一つ落とした。


万が一でも太ももに触れてしまわないよう、配慮したのだ。


「いちごジャムパン…………。これ、くれるの?」

「あぁ、自分用だったけどな。

 なんにも食べないんじゃ、佐久間さんが持たないだろ。チョコクロもあるけど、どっちがいい? 俺もなんでもいいんだ」

「うーん……」


二つのパンの間で、指が惑う。


ーーそれから、選ばれたのは俺だった。


「いや、俺、食べられないから。過食部分ゼロだから」

「私は本当に翔くんがいるだけで、飲まず食わずでもいいかなって」

「そんなわけがないっての。今日、六限まであるんだし。遠慮しなくていいよ。別にお礼もいらないから」


家賃をまけてくれ、とは言おうかは際どいラインだったが、それもここでは言わない。


決めきれないのならと、俺はチョコクロの方を食べ出してしまう。


すると、佐久間さんは、ビニル袋からパンをより上げて、リスみたいに小さな一口で頬張りだした。


「わぁ、菓子パンとか久しぶりだなぁ」

「ん、アイドルには厳禁だったのか?」

「まぁ多少気にしてはいたよ? ほら衣装のこととかもあるしね。入らなくなったら、自腹なんだよ」

「……怖すぎるな、それ」


「翔くんはけっこう食べるの?」

「まぁ、ほらとにかくカロリーが欲しい時には最適だしな。これも一つで、800キロカロリー」

「……………ち、ちょっと待って。このジャムパンは?」


急に深刻そうに、眉にしわを寄せる佐久間さん。


「えっ、そりゃあ同じくらいあるんじゃないか?」


俺がこう言うと、ビニル袋がぐしゃっと握り締められた。俯き加減、前髪で目元が隠れている。


「……翔くん、ちょっと。こっち向いて、あーんして」


よく分からず、ただ従った。

口を開けていると、彼女はパンを口に咥える。


空いた両の手指が、俺のブレザーの肩口にそっと乗せられた。

少し、体重がかけられたところで、やっと顔が上がる。


どろんと、濁った目をしていた。宝石みたいな輝きがそこにはない。


変な体勢だったもので、そのまま俺の尻はずるずるベンチを滑り、半ば押し倒される。


立った膝が、ちょうど彼女のスカートをたくしあげていた。

シャツはややはだけて、ちらっと白い肩紐が見える。


そんな姿のまま彼女は、柔らかそうな唇と唇をーーー


ではなくて、口から口へ、ジャムパンを突っ込んできた。


「責任とってよね……?」などと言う。


俺は一口だけ齧ってしまって、一旦パンを手に持つ。

とりあえず、待ったをかけた。


「……いや、あの脈絡が分からないんだけど?」

「全部食べたら太っちゃうもん! 太っちゃって翔くんに嫌われたら、もう私ダメになっちゃうよ、そんなの……」


急に身体を起こして、両手で顔を覆う佐久間さん。


なんだかコントみたいだが、彼女なりに真剣らしい。半ば馬乗り体勢になっていたことも、気付いていないようだ。


はぁ、と俺はため息をつく。狙われた誘惑より、よほど心臓に悪い。


「そんなことで嫌いにならないって」

「……ほんと? いっぱい食べるけど、いい?」

「いっぱい食べて、いっぱい動けばいいんじゃないの」


どちらかといえば、物を美味しそうに食べてくれる人の方が、健康的でいいよね、うん。


俺は、端だけ齧ってしまったパンを差し返す。


「いっぱい動く、いっぱい動くよ、私」


なぜかこう繰り返しつつ彼女は、またパンを食べ始めた。


遠回りしすぎたが、やっと普通のランチタイムが訪れる。


結局、触れるか触れないかぐらいの微妙な距離感に落ち着いていた。

水筒一つが、ちょうど間に立つくらいだ。


「ジャムパンってば、罪の味……! 美味しいのが悔しいっ」

「だろ〜? チョコクロも食べるか?」

「うぅ、変に釣ろうとしないでよ〜」


この距離感が、今の俺たちには最適な距離なのかもしれない。


開いてしまった空白の時間を埋めていくための、近すぎず遠すぎもしない間合い。


その居心地は悪くなくて、予鈴が鳴るまでは、あっという間だった。


「戻りたくないなぁ教室。二人でサボっちゃう?」

「そんなわけにはいくかよ。俺たち、仮にもクラス委員だし」

「わかってますよ、委員長さん」

「それはなによりだ、副委員長」


軽い掛け合いをやってから、俺は先にベンチを立つ。


「ねぇ家に帰ったらさ」


ベンチに座ったまま、彼女はまだ言い残したことがあったらしい。


「また二人で色んなことしようね? ゲームでも、映画見るのでも、ただ一緒にテレビ見るのでも、なんでもいいけど、とにかく二人。ね、約束!」


俺の小指だけを器用に絡めとる。


くそ、あまりに天使すぎる。

神様が配分を間違えたとしか思えない、純真さだ。


俺はもう片方の手で頭を掻いて、


「……そうだな」

「やった! じゃあ、午後の授業は真面目に受けます!」

「えっあれ、午前はどうしてたんだ」

「……8割くらい、翔くんの顔見てたかな?」


うん。とりあえず、委員は別の人に変わった方がいいかもしれない。


俺も含めて。

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