踊る炎(1)

 この時代、軍隊には音楽がつきものであった。

 トランペットの合図で出発し、太鼓の連打に合わせて行軍する。

 小太鼓は攻撃の際に気持ちを高揚させるものとして、あるいは夜営中にはボードゲームや賭け事を行う際のテーブルと化す。


 敵軍にも、無論それはあった。

 メフテルハーネと呼ばれるオスマン帝国軍楽隊だ。


 ただし、ヨーロッパの音楽に耳慣れたウィーンっ子にとって、オスマン帝国軍の軍楽隊は異様な破壊音をもたらす異分子として認識された。


 ボルと呼ばれる金管楽器の鋭く高い金属音は不安をかき立てるし、ケスという大太鼓の打音に肝が冷える。

 きわめつけが、金属の皿二枚を勢いよく打ち鳴らすジルという楽器の音だ。

 その空気の振動は、鼓膜を破壊するような衝撃となって伝わってくる。


 シャーヒー砲の単調な砲撃だけでは飽き足りないのか。

 突然この演奏が始まったのは、本日午後のことである。

 無論、グラシに侵入すればウィーンから砲が飛ぶ。

 こちらの弾がぎりぎり届かない位置まで出てきてのメフテルハーネの演奏であった。


 壁の外ではそうでもないだろうが、建物が密集している市壁内ではわずかな音でも反響し、何倍もの大きさになる。

 メフテルハーネの演奏開始と同時に、市中は混乱に陥った。


 ウィーン市民に対して力を誇示している、壁の中にいる間諜に何らかの合図を送っている。あるいは呪いの念を送っている……等々、市壁内には様々な憶測が駆け巡った。


 あれはただの楽団だ。

 敵軍も堅牢な城塞都市であるウィーンを攻めあぐねて、せめてもの気晴らしをしているだけだ──ウィーン防衛司令官シュターレンベルクと、副官のグイード、更に市長のヨハンがそう触れ回ったが、市民の不安を和らげる効果はない。


 騒然としていた市中がようやく落ち着きを取り戻したのは、とうに演奏も終わった夕刻のことであった。

 空は太陽の残照で朱に染まり、まとう空気はひやりと肌を粟立たせる。


「ふわぁ……眠い。今日は疲れ申したな」


 火消しに走り回ったグイードが、疲労の色を隠そうともせず大口をあけて欠伸をした。

 横目で睨むシュターレンベルク。

 引きつったように痙攣する目蓋から疲れは伺えるが、それ以上に眼には剣呑な光が宿っている。


 当たり前だ。

 戦争が始まったら眠らなくても平気などと、エルミアの前で大見得をきったものの、要は緊張と重圧のあまり不眠に陥っているだけなのだ。

 健康優良児よろしく、トロンとした目をこするグイードが能天気に見えて仕方ない。

 きっとこの男はベッドに寝転んだ途端、大いびきをかき始めるのだろう。


「グイード、お前な……」


 喉の奥を見せて何度目かの欠伸をした弟分。


「まぁまぁ、防衛司令官殿。今後の方針について話し合いませんか」


 市長の目配せに我に返る。

 無意識のうちにギリギリと噛みしめていた爪先にようやく気づき、シュターレンベルクは左手で右の親指を握り締めた。


 籠城戦で一番怖いのは仲間割れだ。

 現にバーデン伯は、マリア・カタリーナの狂言誘拐の件で腹を立てて行ってしまった。

 このうえ、腹心のグイードと揉めるなんてあってはならない。

 しかもこんな下らないことで。


 そんな従兄の心中など知る由もないグイードはようやく市長の視線に気付いたか、遅ればせながら欠伸を噛み殺す。


「あ……兄上、市長殿、おれに考えがあり申す」


「ほぅ、仰ってください」


 ヨハンが大袈裟に声をあげて先を促した。

 幾分、小馬鹿にしたような調子であると気付いたのは、この場では幸いなことにシュターレンベルクだけである。


 有意義な話し合いは活発な意見交換から始まりますからね。

 この状況に光明を射すような建設的なご意見をお願いします──市長は早口でそう続けた。


「こうなった以上、精鋭を率いて討って出るのみと心得申す」


「それはグイード殿……」


「おい、グイード。ウィーンはヨーロッパ最高峰の要塞都市だ。これだけの市壁に囲まれているのに、何でわざわざ俺たちが出ていく必要があるんだ」


 市長が口を開く前に、今度はシュターレンベルクが弟分を遮る。

 しかしグイードは引かなかった。


「兄上、敵は大軍だ。慣れぬ地で、どこに防衛の拠点を置くか戸惑っているに違いない。それに、敵はこちらが壁の中に籠ると思い込んでいる。そこをつくのだ。ドナウ艦隊が壊滅した以上、籠城しても先は見えない。物資が底を尽きれば地獄ではあり申さぬか」


 正論である。

 シュターレンベルクと市長は聞き役に徹した。


「我が軍は、士気が高い。今が一番の機会であろう。少数精鋭で討って出る。昼夜を問わず、繰り返し攻撃を行うのだ。本国から遠く離れた地で夜営する軍隊とは、それだけで不安定なもの。そこを攪乱いたす」


 おれが指揮を執り申す──グイードはそう締めくくった。


「グイード。お前、今年いくつになる?」


「はっ? に、二十六歳であり申すが……」


 不意の問いかけに、彼が戸惑っているのが分かる。


「若いな」


 兄上と呼ぶほど距離の近い従兄弟だが、実際は親子ほども年が離れているのである。

 この場合、若さは青さだ。


「グイードよ、お前は子供の頃から盾持ちとして俺の戦場に同行させた。籠城戦は地獄だ? 俺の戦争の一体どこを見てそんな泣き言を言うんだ」


 グイードは喉の奥で掠れた声を発した。

 言葉に詰まるとはこういうことをいうのだろう。


 もっとも、グイードの意見に一理あることは確かだ。

 それは分かっている。

 だが──。


「市門を開けるという危険は冒せない」


 今朝方のように少数による偵察という行為も最低限度に慎まねばなるまい。

 門から出るという事は、オスマン帝国軍に向かって扉を開け放つことと同じなのだ。


「ぼくも防衛司令官殿の意見に賛成です」


 意外なことに、市長が賛同してくれた。


「向こうはあの大軍。戦端を開いて一時的に打撃を与えたとしても、修復可能です。引き換えこちらはどうです? 人望のない誰かのおかげで諸侯すら逃げ出す始末。ただでさえ人数が少ない中で、もしも数人でも命を落としてごらんなさい。それだけで市内は重苦しい雰囲気になるでしょう」


「そ、それは……軍人ならば覚悟の上だ」


 若者が吠える。

 だがそれも市長に「軍人ならば、ですがね」と返され、黙り込む羽目になってしまった。

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