踊る炎(2)

 市長の言いたいことは分かる。

 恐れているのは一般市民の死。

 籠城戦である以上、その危険とは常に隣り合わせだ。

 今は市をあげて戦いに向かって高揚しているが……。


 この時代、戦争となると傭兵をかき集めて数を揃えるというのが主流である。

 敗色濃厚ともなれば彼らは逃げるし、統率もとれない。

 その点、ここウィーンに居るのは市の守備兵と住民である。

 己の住む場所を守るのだという意気込みは強い。

 市民の志願兵だって常の戦争よりずっと多いし、逆に兵役拒否者も少ない。

 彼らは互いに声を掛け合い、見張りや市中の警備、整備を手分けして行っていた。


 だが、それが敵軍の攻撃により一人でも死んでみろ。

 市壁内という閉鎖空間で、士気は一気に萎むに違いない。


「籠城だ。市民の血を、一滴たりとも流させるわけにはいかない」


 だから、そう結論を出したのだ。


「それでも、兄上……籠城戦に先はない」


 グイードが拳を握りしめた。

 その手は微かに震えている。

 忸怩たる思いは、シュターレンベルクにもよく分かった。


「野外戦であれば、兄上が出れば必ず勝てるはずだ。方陣隊形に一列隊形、T字形隊形……。どれも兄上が指揮をとれば、相手がどんな大軍であれ屠れるだろうに」


 悔し気に顔を歪めるグイード。

 兄貴分と共に戦場を駆けることが彼には喜びなのだ。


「そう言うな。じきに陛下が救援を連れて来れよう。その時にこそ討って出よう」


 グイードが頷いた時だ。隣りで市長が呟いた。


「陛下は本当に戻っておいでなのでしょうね」


 それは……と、今度はシュターレンベルクが口ごもる番であった。


 神聖ローマ帝国首都ウィーンに、皇帝レオポルトの姿はない。

 オスマン帝国軍が都に近付くはるか前に北へ向かって出て行ったのだ。

 向かった先はドイツ国境近くに位置する都市パッサウである。

 そこはレオポルト自身が七年前に婚礼を行った美しい街であった。


 敵大軍に恐れをなして逃げ出したというわけでは、無論ない。

 これは既にオスマン帝国の脅威をひしひしと感じ始めていた昨年六月に、皇帝自ら対策に乗り出した結果なのだ。

 互いの国境が侵略されたら一万二千の兵を救援として送るという約束を、レオポルトはブランデンベルク選帝侯と結んだのである──当人と面会したものではなく、実際には間に立つ諸侯によって取りまとめられたものではあるのだが、皇帝はこれを当てにしている。

 自らウィーンを発ってパッサウに赴いたのも、この約束を早く実行に移させたいが故のレオポルトの勇み足ととれる行動であった。


 皇帝が首都に居ないという事実は、市民の全てが知っていた。

 家族や宮廷の主だった者を引き連れて、実に物々しい行列を組んで出て行ったのだから当然である。


 本当に救援は来るのか?

 皇帝は逃げただけのではないか?

 ウィーン市民は見捨てられたのでは?


 オスマン帝国軍は三十万──実質の戦力は十万弱とはいえ、相当な人数だ。

 対してウィーン守備隊は一万に届くのがやっと。

 圧倒的兵力差に、頼れるものは市壁だけ。

 もし市壁が一か所でも崩れたら──虚勢を張る市民も、脳裏には常にこの不安がこびり付いている。


「市門は開けない、絶対にだ」


 今再び、指揮官は同じ言葉を口にした。

 これ以上の反論は許さないと、常より低い声は告げている。


 だからだろう。

 グイードの不平の呻きは、針のような鋭さでその場に落ちたのだ。


「……では、避難民ももう入れてはならぬ」


「グイード?」


 シュターレンベルクが叫ぶように従弟の名を口にした。

 無制限に避難民を受け入れていると、食糧は不足するし、オスマンやハンガリーの間者が入り込む可能性も拭えない。

 怒鳴られてグイードは口を噤んだが、言外にはそんな不満がにじんでいた。


「グイードよ。村を失い、やっとの思いで逃げてきた民の前で門を閉じろと言うのか。自国の民を、この手で殺せと?」


「……そこまでは言っておらぬ」


「言ってるだろうが!」


 不満の声があがっているのは知っていた。

 諸侯らが逃げた理由も大方そんなところだろう。

 拳を壁に打ち付ける。

 やり場のない苛立ち、そして敗北感。


 だが、と思う。

 だが、それでも──。


 オスマン帝国軍は、行軍の先々で現地の町村に略奪行為を働きながらウィーンを目指した。

 つい先日もオーストリアとチェコの国境付近の町ハイデルブルクが三日間の包囲の末、征服された。

 町は放火され、人口の五割が殺されたり拉致されたという。

 シュベッヒャート、フォヴァリウィーンの町も同様の目に。

 教会の中で虐殺が行われたとの話もある。


 ウィーンの防備で手いっぱいで救援をやれなかったのは痛恨の極みだが、せめて命からがら逃れてきた避難民はすべて受け入れる。

 それが指揮官の方針なのだ。


「民を追い払うなど……何の為の市壁だ。そもそも彼らを守る為のものじゃないのか」


 自分は頑ななだけなのだろうか?

 グイードらの考えの通りにすべきだったのか?

 多数のウィーン市民もそう願っているというのか?


 何度考えても、結局同じ答えに行き着くのは分かっている。

 帝国領のすべての民を守り、彼等のために戦うことが自分たちの務め。


「……だがな、兄上」


 絶対的な味方である筈のグイードの声が固いことに、シュターレンベルクは気付いた。


「全員は無理だ。余所から来た民に媚びても何もならぬ。実際、泥を被るのはウィーン市民なのだ」


 この期に及んで市民の信頼を失っては、籠城戦など三日とて持たぬ──弟分はそう告げる。

 一瞬、反論の言葉を探しかけた指揮官は、しかし押し黙って視線を遠くにさ迷わせた。


 夕暮れは過ぎ、市は闇に覆われようとしていた。

 空には不安定な三日月。

 市壁の上の巡視路には、常より多くの篝火が等間隔に炊かれている。

 シュターレンベルクの眼が、不意に見開かれた。


「あれは何だ」


 グイードと市長もつられたようにそちらを見やる。

 そして、二人とも息を呑んだ。


 籠城戦で怖いのは仲間割れだ。

 だが、それ以上に恐ろしい存在があった──火だ。


 市の外れの方で、赤い蛇が鎌首をもたげている。

 チロチロと炎の舌を出している。


「……火事だ」


 呻いたシュターレンベルクは、足を引きずりながらも駆け出した。


     ※ ※ ※

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