陰気なマリア(9)
しかしオスマン帝国軍は勝手が違った。
彼らの捕獲対象は主に現地の民間人。
即座に身代金と引き換えられなければ、殺す。
異教徒に対して容赦などしない。
女性を捕らえ、売り飛ばすこともあるという。
画家志望のこの細腕で、そんな連中のテントに忍び込むなど考えられない。
話を聞くこちらの身が縮むようだ。
「絵を描きたいから兵士にはならないと言ったら、あんたの父親は認めてくれた。これは、そのお礼だよ」
あんたから父親に今の話を伝えておいてくれ。
そう言われ、マリアは怯んだ。
「あ、あいつは民の人望が欲しいだけよ。町では愛想もいいくせに、家ではいつも不機嫌で。市民の家や市壁の整備なんかにお金を出すせいで、うちの屋敷は雨漏りしているのよ。建て替えも修繕もできやしない」
父に伝えるなど御免被る。
顔も合わせたくないというのが本音だ。
アウフミラーがあいつの外面に騙されているのが悔しくてならない。
「あいつは偽善者なのよ。市民を戦争に駆り出しておいて、自分の家族はちゃっかり避難させているって。一体どういう了見なのよ」
シュターレンベルクの妻、つまりマリア・カタリーナの母は神経が細い女であった。
数年前のペストの大流行の時や、昨年、不吉な彗星が夜空を過ぎった時も早々に郊外へと逃げ出したものだ。
今回だって彼女は、軍人であるリヒャルトを除いた五人の子を連れて早々に避難した。
マリア・カタリーナは一緒に出るふりをして、こっそり抜け出したのだ。
オスマン軍は怖い。
だからといって、降伏しろなんて脅迫文を書いたって仕方ないのに。
そもそも、要求が通るわけがないというのに。
アウフミラーはまるで子供ねとマリア・カタリーナは湿った声で呟いて鼻を鳴らした。
──包囲が解けたら、一緒にウィーンを出ましょう。
そう言葉にしようとした時だ。
バサリ。
帳面を取り落とす音。
アウフミラーが「あっ」と声をあげる。
何冊も持つから、こうやって落としてしまうのだ。
「まったく、仕方ないわねぇ」
しゃがみこんで帳面に手を伸ばしたマリア・カタリーナ。
雲間に隠れていた太陽が不意に姿を現してその姿を照らし出す。
同時に、帳面に触れた手の動きが止まった。
「待って。何なの、この女……」
その帳面には美しいシュテッフルの塔や、王宮の壮麗な彫刻などが繊細な筆致で描かれている。
彼女も何度も見て知っているものだ。
でも、何だろう。
違和感を覚える。
アウフミラーは人物を描くことはない。
自然の景色や建物ばかりだ。
マリア・カタリーナも自分を描いてと何度かせがもうとしたのだが、彼に断られることを恐れて結局口にはしていなかった。
そのアウフミラーの帳面の中にいたのは、天使のような美しい顔であった。
柔らかな輪郭、細い髪、長い睫毛、大きな瞳と花びらのような唇──それは、女の顔である。
「この絵は天使の彫刻だよ。前も見ただろ」
アウフミラーが大切そうに帳面を拾いあげる。
その声は、少しばかり冷たく感じられた。
「そ、そうね、あたし……前に見たわね」
太陽の光に照らされ、絵の中の天使が美しく輝いて見えたから、だから驚いただけなのだろう。
マリア・カタリーナは太陽が嫌いだった。
身を縮めるように肩と背を丸め、俯く。
自分は絵の中の天使とは対極の存在だ。
アウフミラーの視線がこちらを捉えれば、その藍色の眼球に映るであろう自分の姿は、美や可憐さとはかけ離れたものとして映るであろうことはちゃんと自覚していた。
時代遅れの灰色のドレス。
きつい印象を与える化粧。
黒髪を、これまた時代にそぐわない風にきつく編み込んで、しかもそれがしっくり似合っているというのがまた哀しいところである。
「陰気なマリア」(デュースター・マリア)と貴族の子女の間で陰口を叩かれていることは知っている。
怒ることはできまい。
自分の印象はその名が示す通りなのだから。
「マリア……」
アウフミラーの唇が動く。
彼が何を言ったのか、それは分からなかった。
何故なら、突然の暴力的なまでの音が二人の声を、そしてその動きを凍りつかせたからだ。
腹に響く低い打音。
一瞬、またもやシャーヒー砲の爆撃かと身構えてしまう。
一定の調子で打ち鳴らされるその音に、彼女は足元をふらつかせた。
それが太鼓の音であると気付いたのは、右手に温もりを感じたから。
アウフミラーが彼女の手を握り締めていたのだ。
「………………」
「えっ、何? 何て言って?」
ぱくぱくと動く口。
だが、その声は届かない。
太鼓に続いて、鋭く高い悲鳴のような金管楽器が加わったからだ。
さらに木管楽器も。いくつかの音が絡み合って、不可解な音階を奏で始める。
豪雨のように、叩きつけられる「音」。
市中は恐慌に陥った。
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