陰気なマリア(8)
※ ※ ※
どうしてあんな脅迫文を書いたの、という問いにアウフミラーはこう答えた。
もう遅いかもしれない、と。
「オスマン軍がウィーンを囲む前なら、まだ逃げ道はあった。でももう完璧に包囲された」
話の内容よりも、マリア・カタリーナは絵描きの青年の穏やかな声に聞き入っていた。
微妙な雰囲気のリヒャルトとルイ・ジュリアス、それから空気を読まない能天気なパン屋を納骨堂に残して、二人はカプツィナー教会の建物から飛び出していた。
行く当てなんてない。
人の少ない方へと歩を進めると、気付けば細い通りに入り込んでしまっている。
上空は雲に覆われ、二人は薄暗がりに取り囲まれていた。
「どこにいたって構わないの。この街の中でも、あるいは外でも。あたしの願いは、あんたと一緒にいることだわ」
勇気を出して言った言葉だが、いかんせんマリア・カタリーナの声は低く、そして陰気だった。
今何か言った? とばかりにアウフミラーが怪訝そうに彼女の顔を覗き込む。
「マリアのためだよ」
「えっ?」
どうしてあんな脅迫状を書いたのという問いかけに対する返事だと気付くのに、幾許かの時を要する。
アウフミラーは、思慮深げな藍色の目を曇らせた。
「包囲戦を想像してみて。狭い市壁の中に大勢が閉じこもって。そのうち食べ物も底をつく。そんな時に犠牲になるのは貧しい民なんだ」
貴族の令嬢であるマリア・カタリーナにはいまいちピンとこない話であったろう。
だが「うん」と頷く様子からは、少々いじらしさが伝わってくる。
もっとも、父や兄が彼女の今の姿を見ると「白々しい」と口をそろえて言うだろうが。
「知ってるか、マリア。オスマンの総大将が住んでるテントがどんなものなのか」
「テントって……そ、そんなの普通のものに決まっているじゃあないの」
オスマン帝国軍の最高司令官の名はカラ・ムスタファ・パシャという。
現在四十九歳。先の大宰相の娘婿として現在の地位まで上り詰めたという話はマリア・カタリーナも知っていた。
「いや、野営用のテントなんてもんじゃない。あれは布の建築だ。とにかく大きくて、それにテントの中だっていくつかの部屋に仕切られているんだ。絨毯や長椅子の装飾も、まるで異国の宮殿みたいで」
話しかけてくれるのが嬉しくて「うんうん」と頷きながら聞いていたマリア・カタリーナだが、徐々に顔つきが表情が険しくなってきた。
目が糸のように細くなり、その表情たるや実に陰気な風に映るだろう。
「総大将のテントだけじゃない。周りにも同じようなものが沢山建っていて。そんな塊がウイーンの周りに幾つもあるんだ」
「ちょっとあんた、えらく詳しいわね。何故そこまで知って……」
「遠くからあんな大軍勢で来るような奴等だ。敵うわけない。マリア、オレらはどうなる?」
「そ、そりゃどうなってもあたしはあんたと……そ、それよりあんた、壁の外に出たの? 敵の近くまで行って……まさか、テントの中にまで忍び込んだんじゃないでしょうね」
アウフミラーの唇が微かに歪んだ。
笑ったのだと分かる。
暗い藍色の髪と、同色の瞳を持つこの男は滅多に笑わない。
少なくともマリア・カタリーナの前では。
それどころか口数も少ない。
今日などはまだよく喋る方だ。
いつも黙って俯いて絵を描いている。
痩せているが背が高く、表情の乏しいその容貌と相まって、随分大人びて見えるけれど、マリア・カタリーナより年下であることは確かだ。
「ちょっと、本当に外に出たっていうの? でも門には見張りの兵が……」
「夜、簡単に出れたよ。ケルントナー門の横の通用門なら、人目にもつかないし。昼間だってうまくやれば出入り自由じゃないかな」
「そんな……もしも捕まったらどうするの。父は身代金なんて出しちゃくれないわ」
「大丈夫だって」
「でも……」
戦場の習慣として敵軍人──身分が高ければ高いほど良い──を捕え、身代金と引き換えに開放するということはよく行われていた。
捕まった者も、それは決して恥ではない。
雇い主である貴族や国王が、自分の釈放のために果たしていかほどの金額を積むかということは、自身の価値を計る格好の目安にもなるからだ。
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