陰気なマリア(7)

 それよりも──と、令嬢の視線はルイ・ジュリアスの傍らに立つ小柄な男の元で止まった。


 男というより、少年という形容がしっくりくる様相だ。

 顔も少女のように愛らしい。

 二人が入ってきた時に、入口扉の中途半端な隙間ができたことから漏れてくる光が、少年の金髪をキラキラと輝かせていた。


「あんた……どこかで会ったことが?」


 少年が何か言うより先に、リヒャルトが噴き出す。


「マリア・カタリーナ、貴女……意外と陳腐な」


 からかうような、人を小馬鹿にしたような笑いは、妹が美少年に一目ぼれしたとでも勘ぐったか。


「ち、違うわ! 本当にどこかで見かけたと思ったから」


 珍しく動揺したのは傍にアウフミラーがいたからだ。

 もっとも、彼は気にした素振りは見せなかったが。

 それどころか、アウフミラーは退屈そうに立ち上がる。


「オレ、用あるし……」


 元々、人と接するのは苦手なのだと知っていた。

 だからいつも路地裏に座り込んで絵ばかり描いているのだ。

 彼が行くと言うなら、マリア・カタリーナに引き止める術はない。


 ところが、だ。

 どこかで見た気がするその少年が、突然彼の前に進み出た。

 それはもう実に不躾な態度で。


「僕の名前はフランツ。パン・コンパニオンだよ。よろしくね。シュターレンベルク様からウィーンの食料担当に任命されてね。どうしよう。空き地(グラシ)にジャガイモを植えようかな。アレはね、きれいな花が咲くだけじゃないんだよ。おいしい実が出来るんだよ。知ってた?」


「は、はぁ……」


 とんでもなく明るい笑顔。

 フランツは有無を言わせぬ勢いでアウフミラーの、そしてマリア・カタリーナの手を取りブンブン振り回したのだ。


 じゃが芋ですって、何を言っているのかしら。

 元気が良いというか興奮しすぎというか。

 あるいは挙動不審というか。

 少し──いや、相当変わった子だとマリア・カタリーナは顔をしかめる。


 しかし、握られた手の温かさはほんの少し彼女の心をほぐした。

 それはアウフミラーにとっても同じだったらしく、フランツの握手の手を珍しく握り返しているではないか。


「パン・コンパニオン? つまりパン屋なのか」


「そうだよッ! パンからお菓子まで、何だって任せてよ。いろいろ勉強したんだ。僕はパンのあらゆる技術を世に広めるために旅するパンの伝道師!」


「へぇ、オレもお菓子なら少しは作れるよ」


 ホントに? とフランツは目を輝かせる。

 善良そのものといったその表情から、マリア・カタリーナは視線を外した。

 綺麗な顔なのは認める。

 でも、あたしはどうにも苦手だわ、こういう人は。

 どうしても馬鹿に思えてしまう。

 陰のある男が好きなどと露骨に思うわけではないが、視線が追うのはやはりアウフミラーの姿である。


「こんな暗いところにいないで、みんなで外に出ようよ!」


 僕は暗いところは苦手なんだと、あくまで無邪気にパン屋が言う。

 ルイ・ジュリアスも頷いて見せた。


「そもそも、何でフランツ殿とマリア・カタリーナ殿がこのような所にいるんだ?」


「ああ、それを言い出すとややこしくなります。ルイ・ジュリアス殿、あなたは黙っていてください」


「何だって?」


 フランツの明るさにつられたのだろう。

 和みかけていた雰囲気だが、次の瞬間凍り付くことになる。

 それは、ルイ・ジュリアスでもリヒャルトでもない。

 バサッと音を立てて床に落ちた一冊の帳面が原因であった。


「あっ……」


 それはアウフミラーの手から滑り落ちたものである。

 ページを開いた状態だったので、扉から差し込む光の帯に照らされてこの場の全員の視線を集めることとなったのだ。

 よりによって、そのページに描かれていたものは──。


「おい、これは何だ!」


 声を荒げたのは指揮官の忠犬である。

 ほんの少し腰を落としたのが分かった。

 腰の剣には手をかけていないが、返答によっては飛びかかることができる体勢だ。


 アウフミラーが、これみよがしにため息をつく。

 帳面には、壮麗な聖シュテファン大聖堂の塔の姿があったのだ。

 木炭で描かれたのだろう。

 細かな装飾も、まるで本物を映したかのようだ。


「うわ、上手」


 パン屋の感嘆の声を、ルイ・ジュリアスが遮る。


「市内のあちこちでそういうものを描いているらしいじゃないか。敵に売るつもりじゃないだろうな」


 なにそれ、とアウフミラーが小さく笑う。

 相手にしないというその態度に、ルイ・ジュリアスの額に皺が刻まれる。


「兵役を免除してくれと閣下に直談判したらしいじゃないか。閣下はお忙しい身でいらっしゃる。それなのに……」


 成程。大好きな閣下に、ただの若造が直接おねだりをしたというのが気に入らないのねとマリア・カタリーナは合点がいった。

 恐らく兄も同じ思いを抱いたのだろう。

 チラと同僚を見やる視線の冷たいこと。


「アウフミラーが自分の絵をどうしようが勝手じゃないの。お父さまがお認めになったのは確かだわ。結局のところ、あの人は市民に良い顔をしたいだけなのよ」


 フンと鼻を鳴らす女に、ルイ・ジュリアスの顔色が変わった。

 もしも同じことをアウフミラーが言っていたら拳が飛んできただろう。

 女性、それも尊敬する上官の娘に対しては、気高い騎士殿は文句を言うこともできない様子。


 勝ち誇った気になったマリア・カタリーナだったが、それもほんの一瞬のこと。

 必死の思いで庇った男は、ゆったりした動作で帳面を拾うと行ってしまったからだ。

 階段を登り、躊躇する様子もなく重い扉をギィと押す。

 帯のように細く漏れていた光が、視界すべてを覆う眩しさに転じた。


 ──待って、置いて行かないで。


 マリア・カタリーナはその姿を追って駆け出していた。

 そして二人は、地上で待ち構えていたその騒音にかき乱されることとなる。


     ※ ※ ※

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