終:春は出会いと別れの季節だから



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 春は出会いと別れの季節だ。思い出と後悔とをそっとしまって、期待と希望を胸に抱いて進む季節だ。

 たくさんたくさん、ケイスケと久しぶりに会話した。

 かつて大好きだった人、ずっと一緒に生きていくのだと思っていた人――でも、それは勘違いだった。ケイスケが悪かった部分はあると思うけれど、私が彼に期待しすぎていたということも、この数日でよくわかった。早かれ遅かれすれ違いの正体に気づくことになっただろう。

 私の期待のすべてに応えるには、ケイスケは普通すぎる男だったのだ。


「……うん。じゃあ、これで」


 ケイスケの了解を示す声。向こうから通話は切られた。

 これで、本当に、終わり。今後、顔を合わせることはあるかもしれないが、ただの知人としての付き合いになるだろう。

 今までありがとうございました。さようなら、私の未熟すぎる初恋。

 結果的には、静かな終わりを迎えたのだった。


「……お疲れ様、弓弦ちゃん」

「うん」


 思ったよりも鼻声で、内心笑ってしまった。感傷にひたるものでもあるまいに、泣きたい気分なんだからおかしなものだ。


「お茶を淹れようか?」

「はい、お願いします」


 ずっと様子を見守ってくれた神様さんは、少し困ったように笑って薬缶をコンロにかけた。マグカップとティーパックを準備してくれる。

 そんな彼の背中を見ながら、ティーポットを買ってもいいかな、なんて考えていた。自分一人で飲むならティーパックで充分だからと我が家にはないのだけど、誰かと家で飲むならあった方が便利のような気がして――それで、神様さんがここに居着くことを望んでいる自分にハッとする。

 ケイスケと別れたからって、次の男にすぐさま乗り替えるってどうなのよ?

 お茶ができるのを待つ時間はケイスケと恋人として過ごした数年間を回想する時間だっただろうに、もう私はこれからのことを考えている。しかも、神様さんがここにいることを当然のように考えてしまったなんて。

 そうじゃないだろ、と自分に言い聞かせている間に、マグカップが私の正面に置かれた。


「ふふ。僕のことばかり見ていたようだけど、誘ってくれるならやぶさかではないよ?」

「下心で見つめていたわけじゃないですよ……」


 そうだ。神様さんはそういうことを言い出す男だ。

 私はため息をつく。

 彼が顕現する際に私が妙なことを願っていたせいで、体を要求することがコミュニケーションだと思わされている可哀想な怪異。少々不憫だと思う。

 私は淹れてもらった紅茶を啜った。熱々の少し濃いめの味は私の好きな味だ。


「上書きしたいのかなあって」

「充分に上書きされちゃいましたから、しばらく結構です」


 私の返しが想定と違ったのか、彼は驚いたように目をぱちぱちさせて表情を崩した。


「じゃあ、気分になったら誘ってね。僕はいつでも歓迎だよ」


 慣れた様子でテーブルを挟んで正面に座る。彼は機嫌がよさそうだ。


「いつでもっておっしゃいましたけど、私のそばから離れる予定はないんですか?」


 私が素朴な疑問をぶつけると、不思議そうな顔をされた。


「そりゃあ、伴侶だからねえ……と言いたいところだけど、少なくとも新しい御守りとお札が揃うまでは離れるつもりはないよ。またあの怪異が近づいてきたら厄介だし、ほかも君を狙っているからねえ」

「実感ないんですけど」

「梓くんの焦りっぷりを見て察してほしいな。僕を無理にでも引き剥がそうとしないのは、外で待ち構えている連中よりもまだマシだと判断したからだと思うよ?」


 神様さんの方便だとも考えられるかと思って話題を振ったのだが、よくよく思い返せばアニキも外の状況を把握している。何かが外で待ち構えているのは嘘ではなさそうだ。


「なるほど」

「だから、好きなだけ僕を使役すればいいんじゃないかな。ご満足いただけるように頑張るよ」

「自称神様なのに、私みたいなものに仕えていていいんですか?」


 私が笑って返せば、神様さんは私をじっと見つめてふわりと笑った。梅の花が咲いたみたいな、そんな優しい顔。

 胸がトクンと強く鳴った。


「ここは君の世界だからね。君が望まない世界だというなら、僕はすぐにでも消し去ってあげるよ」

「きゅ、急に物騒な話にしないでいただきたいんですが」


 ときめきを返せ。

 私が紅茶を飲み干すと、神様さんは声を立てて笑った。


「あはは。本気なんだけどなあ」

「別に私、世界を滅ぼしてほしいと思えるほど、期待も絶望もしちゃいないんですよ……。慎ましくもごく普通の生活が送れれば充分なわけで」


 すでにだいぶ《ごく普通》の範疇からはみ出している気がするけれど、だからこそ、普通の生活に憧れるというか。

 特大のため息をつけば、神様さんは小さく笑った。


「知ってる」

「知っててそれなんですか」

「念のために?」

「そこ、首を傾げながら言わないでください」

「ふふ。些細なことだよ」

「重要なところだと思いますけど」

「そう? ただ、さ」


 彼の美麗な顔が私の視界いっぱいに広がった。近い。咄嗟に離れようとしたけれど、彼の右手に阻まれた。顎が持ち上げられて目が合う。そらすことなんてできない。色気を含んだ視線に、自然と体が熱を帯びた。

 唇が動く。


「――僕をそばに置いていれば、僕以外の怪異に振り回されることはなくなるってことさ」

「……こ、この状態だと、私が拒めないってわかっててやってますよね?」

「使えるものは使っておこうって。弓弦ちゃん、僕の顔、好きでしょ?」

「顔は、好きですよ」


 精一杯の虚勢。顔が好きなのは認めよう。それは出会ったときから、ずっとこの顔に惹かれている。


「今はそれで充分さ」


 私を抱くときの、私を求める雄の顔をして、神様さんは私に口づける。深い口づけに変わるまでに時間は必要なかった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 遅い昼食を終えた頃、一件のメッセージが飛んできた。アニキからだ。その直後に父からもメッセージが届いて、離島から無事に脱出したことを知った。元気そうでなによりである。


「――御守り、アニキ経由でいただけることになりましたよ。一週間くらいはかかりそうですけど」

「そう。向こうも大変だっただろうねえ」

「何かご存知なんですか?」

「知っているというか、今朝ここにきた怪異の本体があるところに行っていたんだろうって思って」


 あ、そこが繋がるのか……

 裏で糸を引いているやつが出てくれば離島から出られるという話だったと記憶しているが、それがあの燕尾服の怪異関連だったということか。遠方で面倒ごとに巻き込まれていたらしかった。

 詳しくは落ち着いてから連絡をすると書いてあったので、そのうち電話がかかるだろう。お疲れ様である。


「いよいよこれで怪異まわりは安全になったかな」


 神様さんがほっとしたような顔をした。気に掛けてくれていたようだ。


「ところで、御守りとお札が揃うまではこちらにいるって話でしたけど、どこかにいく予定でもあるんですか?」

「ううん? アテはないよ」

「じゃあどうしてそんな話を?」

「区切りをつけるならそこかなって思っただけさ。他の理由はない」


 昼食の片付けを終えて、彼はさらりと答えた。ちょっと様子がおかしい。


「んー、父がここに来るかもしれないと警戒したからではないんですか?」

「まあ……それはちょっとある。梓くん相手のようにはいかないだろうなあって思ってたから」


 そう呟くように告げて、彼らしくない苦虫を噛み潰したような顔をした。


「神様さんは昔、幼い私に会ったことがあるっておっしゃっていましたが、父にも会っています?」


 そう切り出せば、彼はあからさまに震えた。意外な反応。


「あはは……正直に話すとね、会ったことはあるよ」

「どうして怯えているんです? 父の話をしたとき、そこまで反応しなかったじゃないですか」

「あれから思い出したことが、ちょっと、うん……」


 どうにかこの話題を回避したいという顔をしている。意図的に嘘はつけない体質だというのだから、的確な質問をぶつければいろいろ聞き出せそうではある。

 私は頭を巡らせた。


「――神様さんは、私を口説こうとしているのが見つかって、封じられていたんじゃないですか? それこそ……私の御守りに」


 行方不明になった私の御守り。梅の花があしらわれた、ちょっと年季の入った見た目の御守り。どこに行くにも持ち歩くように言われて、なくさないように大事にしてきたものだ。

 それがあの夜を境に消えてしまった。およそ落としたりしないだろう場所にしまっていたのに。

 私が問えば、彼は目をまんまるにした。


「そう……だとしたら?」

「あ、いえ。どうもしませんよ。効果絶大な御守りだったから、ひょっとしたらと思っただけです」


 独特の気配を放っていたので、御守りを持っている間は生命の危機に至りそうな危ない怪異との遭遇はなかった。何が入っているのか聞くことがなかったから素直に持ち歩いていただけのこと。

 これ以上は追及しないと意思表示をすれば、彼は嬉しそうに笑った。


「ふふ。そうだね。ずっと、君のそばにいたよ。制限を受けていたから、全部を思い出せるわけではないけど、僕は君を守っていたんだ」


 制限と答えているが、おそらく封印されていたのだろう。父は怪異を封じる秘技を身につけている。


「次の御守り、中身は何ですかね」

「僕の神通力を込められる仕様だとありがたいなあ」


 なるほど。そういうことも可能ではあるのか。

 我が家特製の御守りである。怪異を遠ざけるために何か特別な術が施されている……らしい。


「――もしも、神様さんが思っているようなものだったら」

「うん?」

「父からの許可が出ているってことでしょうから、延長しませんか?」

「延長?」

「私のそばにいること」

「え?」


 ここで驚かれるとは思わなかった。私は慌てて首を横に振る。


「あ、無理には引き止めませんよ」

「引き止めてよ」

「私に好きな人ができるまで、という条件を課します」

「うん、それで充分さ」


 神様さんは上機嫌だ。


「君は僕を手放さないだろうからね」

「未来はわからないですよ」

「ふふ。手放す気が起きないように頑張るよ」


 頑張るところが違うんじゃないかなんて思いつつも、喜ぶ神様さんを見ていたらどうでもよくなってしまったのだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 五日間の休暇が終わってしまった。いよいよ明日から出社だ。

 スマホでニュースを検索して、あの日の事件の犯人が自供していることを知る。神様さんに幽閉されていたときのことは錯乱状態だったためにあやふやになっているという話で進んでいるようである。また、事件の動機については詳細に語っているとのことで、怪異が操っていたわけではなさそうだ。

 ケイスケと同棲していた女は、押しかけてきたのを追い出した話をケイスケにしたので彼が迎えに行ったようだ。カッとなって八つ当たりしていたらバチが当たって転倒し、顔面に怪我を負うことになったと彼女が説明したと聞いている。どこまで記憶が残っているのか怪しいところだが、私のところにはもう行かないと宣言したとのことなので、流石に懲りたのだろう。

 めでたしめでたし。

 ニュースのチェックを終えた現在は二十時を過ぎたあたり。新しい御守りは出社までに間に合わなかったなあと準備をしているところで、インターフォンが鳴った。画面に映っていたのはアニキで、私はすぐにオートロックの解除を行なう。

 数分後、アニキは私の部屋に来ていた。


「明日からだったよな?」

「出社は明日からだけど、どうしたの?」


 走ってきたらしい。汗がアニキの額に滲んでいる。


「実家まで取りに行ってきた」


 鞄から取り出されたのは御守りだった。特殊な気配は今のところない。梅が入っているところは前のに似ている。


「って、実家? 公共交通機関で行っても半日くらいかかるのに」

「離島から帰ってくるタイミングで受け取れるように手配した」

「あー、それで昨日はうちに来なかったの?」

「そういうことだ」


 頷いたアニキは、私の背後で様子を窺っている神様さんに目を向けた。


「これまで通り、弓弦に加護を与えてほしいって言伝だ」

「ありゃ、僕の加護でいいのかい?」

「他の加護が入った御守りを渡したところで、どうせあんた、自分ので上書きするだろ?」


 ほいっと軽く投げて渡すと、神様さんは素直に御守りをキャッチした。


「そうかな。僕より強い加護があるなら、上書きなんてできないさ」

「へえ、そういう意識はあるのか」


 なんか視線でバチバチやっている。アニキ的には、神様さんの存在をまだ認めたくないのだろう。

 神様さんはああ言っているが、かなり強い力を持つ怪異である。燕尾服の男を消し去った影響もあるのか、封じられていた記憶がいくつか戻ってきているらしく、本来の力を取り戻しつつある。力の上昇がわかってしまうのは私の体質ゆえであって、アニキはこれまでの経験による勘や父からの話で神様さんを警戒しているのだと思われた。


「とりあえず、許可は得たと受け取るよ」


 両手で御守りを包み込むと、神様さんはそこに息を吹きかける。御守りに力が宿るのが私にはわかった。

 あ、この気配、今までのに似てる。

 驚く私に、神様さんは御守りを手渡してくれた。これで明日からの通勤も安心である。


「――親父はこうなること、多分わかっていたぜ?」

「うん?」

「力を取り戻し過ぎた余剰分を、御守りに込めることで鎮めるように仕向けたんだよ」


 指で示しながらのアニキの指摘に、神様さんはきょとんとしたのちに両手をポンっと合わせた。


「なるほど、賢いねえ」

「そういうことだから……弓弦を泣かせないでほしい」

「約束しかねるけれど、努力はするよ」


 御守りに力を与えることで神様さんの力を削いで、私の負担にならないようにすることを画策したということだろうか。このまま一緒に暮らすことの実家からの許可は得られたと見てよさそうだ。


「弓弦も、なにかあったら遠慮なく言えよ。せっかく近所で生活しているんだから」

「心配性だなあ。大丈夫だって」

「そいつの見た目に騙されるな。弓弦の好きな外見であっても、怪異なんだからな?」

「うっ」


 外見が好みなことをアニキに指摘されたくなかった。

 言葉に詰まらせる私を、神様さんは背後からふわっと抱きしめる。


「嫌いな外見よりはいいと思うんだけどな。梓くんだって、僕の見た目は嫌じゃないんでしょ?」

「好きとか嫌いとか、どうとも思わん」

「ふふ、じゃあそういうことにしておく」


 このまま会話しても神様さんのペースに巻き込まれるだけだと判断したのだろう。アニキは特大のため息をつくと背を向けた。


「オレはこれで。また連絡する」

「うん。気をつけて」

「梓くんにも加護をお裾分けしておくね」


 神様さんは上機嫌だ。アニキの背中に神様さんの気配が少し被ったのがわかる。

 アニキは手を振って家を出て行った。


「……弓弦ちゃん」

「今日はしませんよ?」


 不意に胸を揉まれたので引き剥がしながら先手を打った。戸締りを確認すると、バッグの中に御守りをしまう。

 これでよしっと。


「えー。君の中に直接加護を注いでおいたほうがいいかなって思うんだけど。久しぶりの外出でしょう?」

「心配要らないです。御守りも新調できましたからね。それとも、御守りに不備があるとでも?」


 意図的に手を抜いたんじゃないかというニュアンスを込めて迫れば、神様さんは悔しそうな顔をした。


「万が一のことがあれば、あなたを呼びますよ。だから、安心してください」


 離れていても、きっと神様さんは応えてくれる――そう信じられるから御守り一つで出社しようと思えるのだ。その期待を裏切らないでほしい。

 私の気持ちが伝わったのか、彼はふぅと小さく息を吐いた。


「わかった。必要なときは、必ず僕を呼んでよ」

「それは約束してもいいですよ、神様さん」


 私たちは約束をする。怪異との約束は慎重にすべきだと叩き込まれている私だけど、神様さんとならそのほうがいいように思えた。


「触れ合いが必要なときも、だよ?」

「そこは約束しかねます」


 私の欲望によって生み出してしまった怪異との同居生活は、まだ当分の間続きそうだ。


《欲望の神さま拾いました 本編終わり》

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