10:向こうも怪異連れなんだ
神様さんの説明を聞くと同時に肌がざわっとした。袖から覗く肌が鳥肌になっている。本能的に何かを察知したらしかった。
「……どうすれば」
神様さんにだけ聞こえるように小声で呟く。大きな音は立てないほうがいい。向こうがどういう類いの怪異なのかわからないが、場所を知られるのは得策ではない。
「念じるだけでいいよ。僕が読み取るから」
それでは神様さんの負担になるではないか、と考えれば、彼は大丈夫、と唇の動きで伝えてきた。器用な怪異である。
ドアを叩く音が止んだ。
「ん?」
諦めたのだろうか。状況を把握しようと耳をすませたところで、神様さんの両手が私の耳を塞ぐ。
「聞いちゃダメだ」
肌がざわっとした。
私の耳から彼の手が離される。ドアが開く音がかすかに聞こえた。私の家の鍵が開いたわけではない。隣の家のドアだ。
「ちょっと! なんでここは開かないわけ? 寝てるのっ? 寝てても効き目があるはずなんですけどっ」
不満に溢れた声が外廊下に響いている。
「催眠効果が主な特技みたいだね」
神様さんの解説を聞いて、ざっくりと想像がついた。つまり、外の女は何かを命じたのだろう。ドアを開けるように指示した、と考えるのが妥当か。
ってことはオートロックを突破できたのも、このアパートの住人に命じて鍵を開けさせることに成功したのかもしれない。
さて、向こうの根気が尽きるまで籠城していてもいいのだが、近所迷惑だろうことは変わりなく。だからといって顔を合わせて話し合いというわけにもいかないだろう。なんせ向こうは私に消えてもらいたがっているのだから。
「ねえ。そろそろ本気出してもいいかい?」
顔を上げて私は見つめる。彼の瞳は光って見えた。
この目を私は知っている。
出会ったときの、あの色。
彼が人間ではないことを強く意識した。
本気を出させてしまったら、私は彼を畏怖するだろうか――それを不安だと思えてしまう程度には、私は彼に絆されているとわかってしまってショックだった。
《怪異を使い捨てる立場》にある私なのに。
「だいじょうぶ大丈夫。憑きモノ落としってやつだから」
これまで見てきたような、私を顔で安心させて煙に巻く様子が微塵もないことにゾッとする。
彼はここで終わらせるつもりなのだ。
暑くもないのに汗が背中を伝った。
「君が望む未来を、僕は与えてみせるよ」
神様さんは意図的に嘘をつけない。明言を避けることが可能な広いニュアンスの台詞ではあるが、与えてみせるだなんて言葉をかけてくるとは彼は自分の作戦によほどの自信があるのだろう。
長考している余裕はない。ドアはガタガタと音を立てていて、撤退の気配はないのだ。
私は神様さんの目をしっかりと見つめて、ゆっくりと顎をひいた。
「お願いします」
「――心得た」
今までで一番低い声。色気と怒気を含んだ声にゾクっとする。
彼の手が私の顎をそっと持ち上げて、唇どうしが触れる。温もりを確かめ合うことなく離れた彼は、初めて出会ったあのときのように光り輝いていた。
「流石に看過できないからね、相応に対処させてもらうよ」
私に背中を向けた彼は、羽織袴の姿になっていた。
「恨みっこなしさ」
室内が黄金色に発光した。
「……開いた! なんだ、ちゃんとできてるじゃない」
ドアが開く。神様さんの横から女の姿が見えた。間違いない、あの日の夜に顔を合わせた女だ。
その女の歓喜に満ちた顔が、こちらを見てさっと青ざめたのがわかった。
「わ、え、いきなりそれって」
「あれで懲りていればよかったのにねえ」
瞬時にふたりの距離が縮んだ。神様さんが跳躍したのだ。
真っ直ぐに突進したように跳んだのに、女にぶつかるわけではなく停止。彼の手は目を見開いた女の腹部に触れる。
決着は一瞬だった。
抵抗なく正面に倒れ込む女を神様さんは支えなかった。続くのはゴツっという鈍い音。顔面を強かに玄関先にぶつけることになってしまったが、大丈夫だろうか。こういう部分で容赦しないあたり、神様さんはとても怒っていらっしゃるのだろう。
女が部屋に入ると同時にドアはゆっくりと閉まった。
だが、問題はここからだ。
ずるりと女の背中から黒い塊が這い出てきた。
目が合う。目らしきものは見えなかったのに。
私が体をぶるりと振るわせるなり、神様さんはその黒い塊の肩のあたりをガシッと掴んだ。黒い塊は慌てたようにハングアップする。
「待ってって。ジョーダン。なにもしない」
黒い塊がふるりと揺れると、表面がパリパリと割れてこぼれた。真黒のかけらは輝く床にこぼれ落ちる前にすっと消えてしまう。脱皮みたいな様子にこわごわと見守っていると、やがて黒い塊は人間らしい姿になった。
烏の濡れ羽色と表現していいだろう艶やかなロングヘアに銀縁の眼鏡を掛けた燕尾服の男が女の隣に立っていた。身長は神様さんより少し高いくらい。よく見たら髪はハーフアップのようだ。髪の間から覗く耳に複数のピアスが見える。
……燕尾服、だよね? どういうチョイス?
私のまわりに現れる怪異たちの姿は一応は人間に寄せているつもりだろうが、いつもどこか奇抜だ。
「ね。その女とは縁を切るからさ、見逃してよ」
「見逃す予定があったら、僕の神域に引き入れたりしない」
軽い調子の燕尾服に、神様さんは凍るような低い声で言い切った。
あー、この金色空間、神域なのかあ。
今もなお私の部屋は金色に光っている。不思議とそれほど眩しくはないのだけど、かなり派手だ。ほんのりと梅の香りがして、どことなく暖かい。
燕尾服の男はへらっと笑った。
「……そっ。だよなあ」
軽いノリで返して頭をカリカリと掻く。やらかしたなあの表情を浮かべているが、その顔を背後の神様さんには向けなかった。
「君の能力はこの空間では作用しない」
「ひっ」
神様さんの掴む手により力が込められたらしかった。服の肩まわりに皺が増えた。燕尾服は顔を強張らせる。
「僕の伴侶に乗り換えようとしても無駄だよ」
「わぁかってるって」
「警告はしたのにねえ」
バキッと何かが砕ける音がした。神様さんに掴まれていた右側の腕がだらんと垂れる。
「いやぁ、オレにも都合がありまして、ね?」
「初めから、君の狙いは僕の伴侶だったんだね」
神様さんが手を動かすと、燕尾服の腕が床に落下した。ごとりと音を立てたかと思えば、さらさらと砂になって消えていく。
「……っ」
痛みはないのかもしれない。燕尾服は苦笑しただけだった。
「ここにいる君が本体ではないことも僕は気づいている。しばらく近づくことができないように刻ませてもらうよ」
「待て、交渉をしよう。な? 穏便に済ませようじゃないか」
「問答無用」
神様さんの腕が横に薙いだ。瞬時に燕尾服は霧散し、金色の輝きに紛れて消失する。
「……さて、こっちも処理しないと」
燕尾服男が消えたのを確認して、神様さんは足元に転げたままの女の背中をポンポンと叩く。すると彼女もまた綺麗さっぱり消え失せた。
「え、消したんですか?」
「この近所の体育館裏に転送したよ。ついでにもう一発どこかに顔をぶつけているかもしれないけど、うっかり転倒してしまったように装ったから、問題ないんじゃないかな」
そんなこともできちゃうんだ。
私はほっとしてその場にへたり込んだ。ピリピリとした気配がなくなったので安堵したのだ。
「弓弦ちゃん」
「あー、大丈夫です。腰が抜けただけで」
「ごめんね。怖い思いをさせてしまったかな」
駆けつけてきた神様さんに、私は首を横に振る。
「いえ。父の方がもっとこう派手に怪異を散らすんで、見慣れてます」
「それは……大丈夫じゃない気がするよ」
「あなたも父を敵にまわさないほうがいいですよ」
「肝に銘じておく」
私がなにを思い出したのか、彼には読み取れてしまったのかもしれない。神様さんは苦笑して頬を軽く掻いた。
「――とりあえず、事件についてはこれで解決さ。元凶になった怪異はしばらく近づけないようにしたし、あの女も怪異に憑かれていただけだから君に対してよほどの執念がなければ寄ってこないはず。普通の人間だったら、僕がいるだけで寄りつこうとも思えないんじゃないかな」
「怪異まわりは終わりってことですね」
「そうなるね」
私はふむと唸り、人差し指を立てて、神様さんの前で軽く振った。
「それでですね、私。あの日のこと、思い出せたんですよ」
「うん?」
彼はきょとんとした。目を瞬かせる。
「刃物を持った男に襲われそうになったとき、輝く神様さんが現れて男を消しちゃったんですよね。泥酔していたし、夢だったとか記憶違いかと思ったんですけど、そういうことなんですよね?」
「そういうことって?」
これははぐらかそうとしている。私は言葉を選んだ。
「犯人を異空間に閉じ込めていたんだろうなあって」
「ありゃ……鋭いね」
「で、記憶に干渉したときにそれを思い出して、神様さん、犯人を吐き出したんでしょう?」
「ご明察」
神様さんは苦笑していた。私には思い出してほしくなかったようだ。
私は腕を組む。
「あの傷害事件の犯人って、あの怪異に操られていたってことなんですよね?」
「僕はそう考えているけれど、事実かどうかはわからないかな。犯人が動機をちゃんと自供しているなら、偶然も多分に含んでいると思うよ」
「じゃあ、事件の情報はしばらくチェックしないと、ですね」
怪異については終わったとしたのは、事件の真相まではわからないからだ。傷害事件の現場近くに自分がたまたまいただけだったかもしれないわけで。
私は一つ息を吐き出し、部屋を見渡す。まだ金色に光っているのだが、いつまでこの状態なんだろう。
「ここって神域ってやつなんですよね?」
「僕の力を最大限に引き出すにはちょうどいいからね。それに、あの怪異は君に乗り移るつもりで近づいてきたから、能力を封じるためにもこの方が都合が良かったんだ」
神様さんの本気を出せる特殊フィールドということか。
あの日の夜も、真夜中なのに世界が輝いて見えていた。車のライトだと思い込んでいたけれど、違ったということだ。
「私、帰れますよね?」
「弓弦ちゃんが望むなら、いつでも」
「じゃあ、帰る前に一つ」
「うん?」
すぐに帰せと言われると予測したのだろう。手を叩くモーションに入っていた彼は寸前で手を止めて首を傾げた。
私は小さく息を吸い込んで吐く。彼を真っ直ぐに見つめて、唇を動かした。
「僕の伴侶ってなんですか? あの小説のオマージュにしても、どさくさに紛れてなんてことを言うんですか! あなたの口からそんな言葉が出るってことは、本気でそう思っているってことでしょ?」
「ああ、そのことかあ」
彼はにこっと笑って、ぽんっと一つ手を叩いた。部屋の輝きが失われて、いつも通りの私の部屋が戻ってくる。
「なにをのほほんと……」
「弓弦ちゃんの名前を告げずに君のことを表現する適当な言葉が浮かばなくてね。契りも結んでいることだし、相棒と呼ぶよりは伴侶の方がいいなあという……願望、かな」
「伴侶ではないですよ! それに、まだ、私、ちゃんと婚約を解消できていない身ですし」
「うん。知ってる。だから」
私の手を急に取り、手のひらを上に向けさせる。そこに神様さんは何かをぽんっと置いた。彼の手が退けられると、そこには私のスマートフォンがある。
「ちゃんと、話をすべきだよ。弓弦ちゃんの気持ちを、彼に正しく伝えるべきだ」
「え? でも」
「話し合いをしなよ」
スマートフォンが震える。ケイスケの名前が画面に表示された。
「ええ、今、ですかっ?」
「今すべきなんだ」
しっかりと握らされて押しつけられる。電話はまだ震えている。
目が合った神様さんは、私に深く頷いて促した。
……今、か。
向き合わなければならない。逃げることもできなくはないけれど、ケジメをつけるなら、今なのだ。
通話ボタンを押すまでの時間が、とてもとても長く感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます