9:推しアイドルを愛でたあと、急展開
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
壁にポスターを貼らないのには意味がある。真っ白な壁をスクリーン代わりにするためだ。
棚の一つを空にしてプロジェクターを突っ込み、そこから壁に光を向ける。
「ほら、こうして映せば、小さな画面を一緒に覗かなくていいでしょ?」
セッティングを終えて彼に告げれば、彼は興味深そうにしげしげとスクリーンとプロジェクターを見てにこっと笑った。
「僕としては、小さな画面をくっついて観るのもアリだと思うよ」
「それがよろしくないからアニキがわざわざ持ってきてくれたんでしょうが」
アニキは体格に恵まれていることもあって力持ちであるが、だからといってそれなりに嵩張るプロジェクターを気軽に持ってきてもらってもいいことにはならないだろう。アニキなりに意図があって運んでくれているわけだ、間違いなく。
あきれ口調で返せば、彼は不思議そうに首を傾げた。
「でも、何を観るの? すけべなものを鑑賞しながら、実践する?」
「そうはならんだろ」
ものすごく低い声が出た。
彼は苦笑する。
「こうして投映したら両手が空くことだし、ちょうどいいかなって思っただけなんだけど」
「思っても口に出さないでください」
「口に出さないと、弓弦ちゃんに伝わらないでしょ?」
それはそうだが、そうじゃない。
ツッコミを入れるだけ野暮だと思い至り、私は咳払いをした。
「……とにかく、眠くなるまで映画か何か観ます。神様さんは興味がないなら引っ込んでいていいですよ」
「僕は出たり引っ込んだりはできないよ?」
「布団に潜っていていいってことです」
「弓弦ちゃんが一緒なら布団に入るさ」
とはいえ、神様さんのふかふかの布団からはスクリーン代わりの壁が観にくいから私が入るのは却下である。プロジェクターの意味がないではないか。
私は腕を組んで思案する。
「……何か観たいものでもあるのかい?」
「特にはないんですよねえ。話題になっていた作品を観るのはアリではありますけど、そこまで興味がそそられないというか」
仕事が忙しすぎて、エンタメ情報からすっかり遠のいてしまっていた。テレビがないからドラマを追いかける気が湧かないと同期にこぼせば、最近は配信サービスがあるから見逃してもスマホで見られるよと返されたものの、そこまでして見たいものはやはりないのだ。
そんな限界状態でも頑張って続けてきたのがゲームの推しを愛でることと、アイドルの応援である。
通勤中に音楽は聴けるので、新曲は予約してダウンロードできるようにしておけば、推しアイドルと一緒にいられる。ライブにはちっとも足を運べないでいるが、くじ運は今ひとつな私だ、チケット争奪戦に敗れて配信を購入している有り様だった。決まった時間に決められた場所に行くことが叶いにくい身なので、配信はとてもありがたい。この時代に感謝である。
「――となると、ライブ映像ならアリか?」
推しているアイドルのライブ映像を観るというのは、大画面で拝めることが貴重なのでチャンスではある。ただ、お隣さんのことを思うとあまり大きな音も出せないから悩みどころだ。
「いいんじゃない? らいぶというものを知っておきたいなあ」
「心、読んだんですか?」
私がむすっとして指摘すれば、彼は大袈裟に肩をすくめた。
「弓弦ちゃんが口に出して言ってたよ?」
「む……」
一人暮らしをしていると、独り言に無頓着になる。つまり、無意識に声に出していたのだろう。
神様さんが人差し指を立てて軽く横に振った。
「気になるなら音漏れについては、僕がちょっと頑張ってみるよ」
「そういうこともできるんですか?」
「君が好きなものを知りたいからね。特別に神通力を使うさ」
「それはありがたい申し出ですけど、神様さんの体調は大丈夫なんですか?」
私が尋ねれば、彼は驚いたような顔をして目を瞬かせた。
「ありゃ、そんなに顔色が悪そうに見えるのかい?」
「私が身を委ねたのは神様さんの体調が悪くなっていたからなので、そういう特別な力は気安く使うものじゃないと思うんですよね」
「君が望むことに消費して、また補給できれば僕としてはとても美味しいのだけど」
「……それ、はぐらかすために言ってますよね?」
私が探るように問えば、神様さんは困ったような顔をした。しばらく口篭っていたが、観念したように口を開く。
「……鋭いね」
「私が力を積極的に使わないってわかったから、そういう方向に舵を切ろうってことにしたんですか?」
「そういうわけではないよ」
まだ彼は困っている。
神様さんは、私に気遣われるのは都合が悪いのかな?
彼には彼なりの都合があるのだろう。怪異と人間ではそれぞれの理(ことわり)が違うと思うし。
私は小さく息を吐き出す。
「――まあ、好きなようにされたらいいと思いますけどね」
そう応えて、スマホを操作する。アプリ経由でプロジェクターにデータを転送して動画を再生した。部屋を暗くして明るさを調整。音量は控えめにする。
私が動画を流し始めたからか、彼は壁を興味津々といった様子で見つめる。
私の推しは七人組のアイドルユニットのうちの一人だ。大学生のときにSNSで彼らのことを知って、それからずっと追いかけている。そこそこ広い会場でカウントダウンライブができる程度には勢いがあるグループだ。最近は声優業や俳優業にも活躍の場を広げている。
「弓弦ちゃんが好きなのは彼かい?」
カメラが推しの顔を抜いたところで、神様さんが聞いてくる。私は素直に頷いた。
「そんなにわかりやすいですか?」
「まあね」
「自分と似てるとでも思いました?」
「君は似てないとでも思った?」
質問に質問をぶつけられてしまった。私は苦笑する。
「似てますけど、神様さんのほうがずっと好みの容姿ですよ」
「……ふふ。そんな返事が聞けるとは思わなかった」
嬉しそうに笑って、壁に映っているアイドルを観察している。私の気を引くためのヒントを探っているのかもしれない。機嫌がよさそうなことは、彼が曲に合わせて頭を左右に振っていることから察せられた。なんか可愛い。
「――なんでしょうね。彼、宮原(みやはら)ユウマくんは、見た目で惚れ込んだんですけど、ゲームの甘崎くんほど熱を上げてはいないんです。頑張っている姿が素敵に感じられるというか」
「彼は努力家なんだと思うよ。そして、こういう舞台では自分の持っている力を極限まで出せる人だ。そこを魅力的に感じられるのはわかる」
「このライブ映像だけで読み取れるものなんですか?」
「なんとなく、だけどね。視線の動かし方とか手や足の動かす間とか、他の人たちと比べると少し未熟な部分がある。それを埋めるための笑顔とか声の出し方とか、とても努力している」
神様さんの分析は、前にインタビューで見たものや他の人の感想を思い返すに妥当であるような感じがした。私の心を読んで私が気にいるように言葉を選んだわけではないことも察せられる。
「……弓弦ちゃんは完成しているものよりも完成に近づこうとしているもののほうが好みなのかな」
「どうでしょうか」
あまり考えたことはなかった。そういうものだろうか。一般的にはどうなのだろう。
神様さんの横顔に憂いが混じる。
「神様という存在は、完成しているほうに入る気がする」
「神様はそうかもしれないですけど、神様さんは頑張って人間っぽく振る舞おうとされているので、そこはまあ張り合えるんじゃないですか?」
率直な感想を私が返せば、彼は私を見てふにゃりと笑った。
「ふふ。僕を喜ばせてどうしようっていうのかな?」
「別に喜ばせようとしたわけじゃないですよ」
「そう? 意図していない発言なら、なおのこと嬉しいよ」
そんな顔でこっちを見ないでほしい。恥ずかしいではないか。
私は彼から顔を背け、映像のほうを観る。
推しは推せるときに推せ――グッズはあまり買わないけど、また配信は買っておこう。
そのうちに眠くなってきて、耳は音を受け取らなくなり、スクリーンは見えなくなった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
インターフォンの音がうるさい。私はゆっくりと目を開ける。
「……しつこい」
インターフォンを鳴らしすぎだと思う。
新聞の勧誘も宗教の勧誘もここまでしつこくしないのではなかろうか。オートロックの扉の前に長く居座っていると通報されるから、都合の悪い連中は早々に退散する。何者だろう。
ケイスケの顔が一瞬よぎったが、あいつには合鍵を渡してあるからインターフォンを鳴らす必要がないことに思い至る。
あとはアニキだろうが、アニキであればまずはスマホを鳴らすだろう。電源は入っているはずだし。
憂鬱な気持ちで上体を起こしたところで、神様さんがダイニングの方から寝室に顔を出した。
「弓弦ちゃんは寝たままでいいよ」
「ですが、誰か来ているんでしょ?」
まだインターフォンは鳴っている。しつこいにも程がある。
大きく伸びをしてスマホに触れて新着を確認。時刻は十時過ぎですっかり寝坊しているのだが、誰かからの通話もメッセージも入っていないことはわかった。
「適当に追い払うから、そこにいていい」
神様さんの様子がおかしい。どことなくピリピリしている。
起き上がって部屋を出ようとする私をとどめるように彼は立ち塞がった。
「ん?」
「いいからいいから」
まだしつこく音は響いている。
「知っている人?」
この部屋からインターフォンのモニターは見えない。私が背伸びをして確認しようとすれば、彼は私をギュッと抱きしめて抵抗してきた。
「ちょ、神様さん?」
「見ないほうがいい。そのうち諦めるよ」
「怪異かなにかですか?」
「わりとその類だから、対応に困るんだよね……」
神様さんは焦っているようだ。ここに来てほしくない誰かの訪問。
会社の人ではないだろうし、ケイスケでもアニキでもないのだとしたら。
突然に部屋を訪ねてくる友人は残念ながらいないのだが、一人だけ、神様さんが警戒するのも頷ける人物の顔を思い出した。
「まさか」
インターフォンがようやく沈黙する。去ったのだろうと思って放せと促すが、神様さんはまだ警戒している。ドアの外に意識を向けている。
「神様さん?」
「黙ってて。ここまで上がってくる」
「え?」
フロアのインターフォンが鳴った。ドアを隔てた向こう側に誰か来ている。
もう一度、インターフォンが鳴った。そのあとにドアが叩かれる。ドンドンドン、とやや強めのノック。ご近所迷惑ではないかと思うが、向こうはお構いなしらしい。
「居留守すんじゃないわよ!」
それなりに防音処理がされているはずの家なのだが、外廊下からの声ははっきりと聞こえた。
この声。
記憶の彼方に追いやられて、なんならしばらく忘れていた女の声がした。
ケイスケと同棲中の女である。
「昨夜誰か訪ねてきた後から誰も外に出てないことは確認済みなのよ? いるんでしょ! 出てきなさいよ!」
この喋り方、このまとわりつくような声。一度聞いただけで覚えられたが、正直なところもう忘れたい。
一体なんの用事だ。
ケイスケとは別れる話がついているし、居候女と競うつもりもやり合うつもりもなく潔く退くことにした私になんの用事があるのだ。
「部屋から一歩も外に出ないなんて卑怯よ! 正々堂々と勝負しなさいな!」
部屋から一歩も出ないのは、今回に限ってのことではないのだが。
私は腕に閉じ込められたまま神様さんの顔を見上げる。
「警察を呼びますか?」
小声で尋ねると、神様さんは首を小さく横に振った。
「たぶん、それは意味がない」
「どうして?」
あの夜の事件で警察が見回りを強化していたのだから、犯人が捕まったとはいえなんかしらの対応をしてくれそうなものであるが。
私の問いに、彼は人差し指を口元に当てた。
「向こうも怪異連れなんだ」
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