第32話 春一番が吹いたあと

 春は七番まであるらしい。

 春一番は比較的早くやってきたが、以降は雪が降ったり初夏かと思うほどの陽気になったりと天候は安定せず、春らしい春はまだまだ遠いと思う。


「――すごい風だねえ」


 窓の外は嵐である。雨はあまり降っていないが、とにかく風が強い。時々どこかの店のロゴマークが入ったビニル袋が舞い上がっているのが目に入った。マイバック持参が定着しているといえど、ビニル袋がなくなったわけではないからなあ、とどうでもいいことを私は考えていた。


「南風、強いですよねえ」


 春は何番まで到着したのだろう。

 三寒四温というけれど、雪が降る寒さと汗ばむ暑さを行ったり来たりでは体調を崩しかねない。穏やかに季節が変わってくれたらいいのに、今年はとりわけ変化が激しい。平均気温などガン無視もいいところだ。朝晩の気温差もどうにかしてほしい。


「お出かけは延期がいいかな」


 窓の外を眺める彼の背中は少し縮んで見えて、しょんぼりとしている様子が伝わる。先日お出かけをする約束をしていたのだが、この天候では外を出歩くのは得策ではなかろう。


「まあ、そうですね」

「残念」


 そう告げて振り向く彼はにこっと笑った。


「ん?」

「いつもどおりのお休みになってしまうけど、それはそれでいいかなあって」

「飽きませんか?」

「僕は弓弦ちゃんと一緒にいることに飽きることはないんじゃないかな」


 彼は眩しいものを見るように私を見つめた。別に私は発光していないはずだが。


「……どうでしょうかね」


 永遠なんてないことを、今の私は知っている。

 高校時代からずっと付き合ってきた男と別れたのが去年の話で、付き合っていた間はこのままずっと関係が続くことを信じきっていたのだ。別れを決意する瞬間まで、私は疑いもしていなかった。幼かったのだと、今ならそう評価する。

 いつか必ず終わりが来る。別離の理由が死であれば、関係が永遠に続いたと言えなくもないかもしれないが、そこは価値観によって揺らぎそうだ。

 私がため息混じりに返して視線を逸らせば、彼はベッドに腰をかけていた私のそばに近づいてきた。体重がかかって、ベッドが軋む。


「そうは言うけど、弓弦ちゃんは、さ?」


 相手をしないためにわざと別の場所を向いたのに、彼は私の頬を両手で挟んで見つめ合うように強制してくる。

 彼は満足げににこっと笑った。


「な、なんですか?」

「僕の顔、いまだに好いてくれているでしょう?」


 指摘されて、私は全身に熱を宿す。

 美人は三日で飽きるという話のはずだが、連れて歩けば誰もが振り向く美貌の持ち主である彼の顔を、私は見飽きるどころかズブズブと深い沼に沈みきっている始末である。

 顔が好みなのは間違いがなく、顔だけが好きというわけでもないことも認める。見た目も声も性格も、深みから抜けることができないくらい好きだ。

 私は直視できなくて視線だけ外した。


「か……顔だけじゃないですけど」

「そっかぁ」


 満足げに彼は返して、手を頬から離してくれた。


「ふふ。今日は素直だね」

「別に、いいじゃないですか」

「春だねえ」

「どういう意味です?」


 押し倒される流れかと思いきや、彼はすっと立ち上がってドアの方に向かう。


「春が来たなあって思っただけさ」


 私の質問にそう答えて、彼は振り向いた。


「散歩に出られる頃には桜が咲いているかもしれないね。僕は弓弦ちゃんと花見に行きたいよ」

「去年は行けませんでしたからね」

「うん。だから、今年は」

「開花予想と睨めっこしながら、前向きに検討しますよ」

「やったぁ」


 約束とは言わない。でも、花見は私もしたいと思えたのだ。彼と一緒に、桜並木の下を歩きたい。


「今日はいい日だな。お出かけはできなかったけども」


 お茶をいれるね、と彼は言葉を続けてご機嫌に部屋を出て行った。


「……いい日、ね」


 今日はなんでもない日。でも、いい日。

 私も立ち上がって、足取り軽く彼のいるダイニングに向かうのだった。


《終わり》

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