第31話 ショートケーキ記念日
家に帰ると、ケーキがあった。
「これはどうしたの?」
スプリングコートを脱いで片付けながら私が尋ねれば、彼はふふっと小さく笑った。
「なんだと思う?」
「ケーキ、ですよね? ショートケーキ」
スポンジケーキに生クリームがたっぷりかけられていて、大きめの丸い苺が頂点に立っている。それが二切れ。
二十代半ばの女子である私だけども、残念ながら流行には疎いので有名店のショートケーキかどうかまではわからなかった。お皿の上にケーキが置いてある状態だったし。せめて箱があればもう少しヒントを得られていただろうが。
私が返すと、彼はうーんと唸った。
「ケーキを用意した理由が質問の意図だったのなら、そう指摘して欲しいんですけど」
お互いにちょっと思った反応と違ったらしかった。微妙な空気である。
「しょぉとけぇき、なのは正解。美味しいって評判の物を梓くんに聞いて買ってきたからね」
「それはどうも」
わざわざ買いに行ってくれたのか。
アニキに聞いて選んだらしいことにも驚きである。アニキの店で作ったならまだわかるのだけど、そうではないということのようだ。
「今日は三月十四日だねえ」
「ホワイトデーということですか?」
私は仕事が忙しすぎてバレンタインに彼に何か贈ったかと問われたら否である。むしろ、もらったのは私だ。
よくわからなくて首を傾げながら問えば、彼は寂しそうな顔をした。
「僕たちが出会った日、なんとなく流してしまったけれど、ちゃんと記念日にするべきじゃないかと思ったんだよ」
「あー……」
私は着替えを終わらせて、ダイニングテーブルについた。彼も正面に移動する。
「私はなんとなくでスルーしたわけじゃなかったんですよ」
「覚えていてくれたの?」
まんまるの目。瞬きで長い睫毛が上下に揺れた。
「そりゃあ、はい」
「じゃあ、なんで何も言わなかったのかな」
「怪異としてのあなたを強力にするのが得策じゃないからです」
彼はなるほどという顔をして両手を合わせた。
「なるほどなるほど。それは梓くんからの入知恵かい?」
「父からのアドバイスです」
「ああ……」
あからさまにしょんぼりした。アニキとは仲良くやってきているけれど、なかなか現れない父とはまだコミュニケーションを取れていない。攻略が難しい相手なのだろう。
「ケーキに罪はないのでいただきますよ」
「記念日にはしないってことかな?」
「そもそも、今日ではないですからね」
「うんうん。それじゃあ、今日はケーキ記念日ってことで」
「雑な記念日を作らないでください」
笑い合っていただきますをする。フォークでひと口に切り分けて、食べてみた。甘さが控えめの美味しいケーキだ。
「お給料で買ってきたんですか?」
「うん。今日が給料日だったんだよ。現金手渡し」
「口座、作れないですもんね」
「本気を出せばどうにでもなるだろうけれど、その皺寄せがどこに行くのかわからないからねえ。現物支給とどちらがいいか、梓くんもずいぶんと迷ったみたい」
「これまでの特別価格分はタダ働きさせても問題ない気はしますが」
「この社会に溶け込むためには必要なことだよ」
「労働に適正な対価を与えるのは大事なことではありますけど」
どちらも真面目だな、という感想でこの話題は終わりである。
ケーキの最後の一口に迷っている間に、彼はインスタントコーヒーを用意して私のお皿の隣に置いた。
「弓弦ちゃんも、仕事はほどほどに、ね?」
「見合った給料はいただけていると思いますよ」
「僕に構うための時間も体力も残しておいてほしいな」
にこっと微笑まれてしまった。この顔が私は好きである。
コーヒーをすすって、私は視線をそらした。
「それは……それですよ」
私の好みを完全に把握されているコーヒーはほどほどに濃くて苦い。
「ふふ。ケーキで機嫌が取れたみたいで安心した。このお店のケーキが口に合うなら、また買ってくるよ」
「せっかくなので、一緒に行きませんか? 他のケーキも見たいです」
「それはいいねえ」
彼は機嫌よく笑った。
これまで色々な都合で近所しか一緒に出歩いていないが、近々実家に連れて帰ることを考えているので、外出の練習が必要だろう。
彼は一人で買いに行ったっぽいから案外と近所なのかもしれないが、公共交通機関の使い方をどの程度マスターしているのかは把握しておく必要がある。理由なく出掛けるのが苦手な私なので、渡りに船である。
「次の週末、空いてますよね?」
「うん。弓弦ちゃんに合わせて平日にしかお仕事入れていないから大丈夫さ」
他愛ない会話。すっかりと彼のいる生活が馴染んでしまった。
彼と出会ってもう一年が経っているなんて。いつまでこの生活が続くのだろう、と少しだけ心配になる私なのだった。
《終わり》
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