第30話 物件のチラシと引っ越しの話

 二人で暮らすことに慣れてしまったとはいえ、この部屋は一人暮らしに適しているのであって、二人で暮らすには少々手狭なのである。


「――どうかしたのかい?」


 たまたまチラシとして入っていた物件情報を見て、自分の暮らしてきた部屋を眺めていたところである。

 大学生になった頃から暮らしている部屋であり、当時いた彼氏が唐突に家に泊まることになっても問題がないように調度品も揃っている。だからなりゆきで同居することになってもとりわけ困ったことはなかったわけだが、次の更新のことは考えてもいいのかもしれない、と思ったのだった。


「引っ越しを考えてみるのもいいかと思いまして」

「急にどうしたの?」


 彼は私の正面にコーヒーの入ったマグカップを置いて不思議そうな顔をした。


「あなたはあまり物を持たない主義のようですし、着替えも布団もポンと出し入れするので場所は取らないんですが、人並みの生活をしようと思ったらちょっと手狭じゃないかと思ったんですよね」

「まあ、お風呂はもう少し広いほうが一緒に入れて嬉しいよねえ」

「そこは問題ではないですね。広くなればなるほど光熱費がかかりますし」

「それこそ、一緒に入れば問題ないんじゃないかと思うのだけど」

「風呂の問題はいいんですよ」


 話がそれている。私は用意してもらったコーヒーを啜った。


「僕は別にこの部屋に困ってはいないよ。ここにとどまることで発生する異常事態も特にないし」


 しれっと面倒な話をされた気がする。

 私はコーヒーをむせそうになったところをなんとか回避して、彼をじっと見やった。

 美形だけど見飽きない顔だな、ホント。


「……いわく、穢れが溜まることもないんですか?」

「ちゃんと掃除はしているし、お札もあるからねえ。僕がここに居ても大丈夫みたいだ」

「あー……一応、ここを借りるまでもいろいろ調査して整えていますからね。そういう場所を選んでいるのかもしれません」


 このアパートを借りることになるまでの道のりが厄介だったのを思い出した。実家から送られてくるお手製のお札だけで現状維持ができているのも、彼という怪異を飼い慣らしているからではあるまい。


「だとしたら、引っ越しは得策じゃないかもしれないね」

「神様さんは反対ってことですか?」


 ちょっと意外だ。参考意見くらいは聞き出しておきたい。

 私が尋ねると、彼は自分用のマグカップを口にしてふうと息を吐き出した。


「反対というほどの強い意見は持ち合わせていないのだけども、あまり良い結果にならないんじゃないかと思えてさ。――ああ、僕といよいよ祝言をあげるのであれば、新居はいいと思うよ」

「それ、本気で言ってます?」

「僕は意図的に嘘はつけないよ」

「隙あらば言質を、ってところですか……」


 あきれた気持ちを隠さずに告げれば、彼は肩をすくめた。


「引っ越しをするなら、そのくらいの強い動機があったほうがいいと考えての助言さ。心外だなあ」

「急がないほうがいいというアドバイスは心に刻んでおきますね」


 いい物件が見つかったときに検討するくらいで今はいいのかもしれない。現状としては、生活をするのに困ってはいないのである。急ぐ必要はない。

 私が頷くと、彼はちょっと困ったように笑った。


「それに、梓くんのところで働くのが面白くなってきたところだから、あまり遠くに離れたくなくてね」

「アニキに飼い慣らされているじゃないですか」


 一時はどうなるかと身構えていたものだったが、どちらからも報告を受けるに、案外といい感じにやっているらしかった。


「彼は教えるのが上手なんじゃないかな。その気にさせるのが上手いというか」

「扱いに慣れてきたんですね、お互いに」

「ふふ、そうかも」


 楽しそうでなによりである。


「アニキと仲良くしている分にはいいんですけど、なんともいえない気持ちです」

「嫉妬かい?」

「それはどちらに対する嫉妬ですかね?」

「さあ、君はどうなの?」


 私は肩をすくめた。


「別に除け者にされているとは思っていないですよ。ただ、アニキにもあなたにも思惑があっただろうに、当初の目的を忘れているような気がして。仲良くできるんだなあって」

「僕は誰とでも友好的な態度を取っていると思うんだけどなあ」


 そうして彼は愉快げに笑った。はぐらかしているときの態度にも感じられるから、油断ならないのだけども。


「……引っ越し、なにか希望があれば言ってくださいね。部屋の更新の都合があるので」

「うん。梓くんにも聞いておいた方がいいかい?」

「それは私からするので、余計なことはしないでください」

「梓くんから聞かれたときは検討してるって返すね」

「そうしてください」


 向こうから振られたら、それは引っ越し時のような気がする。私は頷いて、コーヒーを飲み干した。


《終わり》

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