7:集まる断片

◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 身体が気怠い。

 そっと目を開けると、カーテンの隙間から見えた外は薄暗くなっていた。

 結構寝ちゃったな……

 彼は自身の愛情を示してくれたと思う。快感を最大限に引き出すための前戯、私を気遣いながらの挿入。その後は心地よく眠ってしまった。思い出すだけで熱が蘇る。

 ああ、だめだめ。求めたら、彼の迷惑になってしまう……

 物足りなかったわけではないのだ。あの官能の時間が快すぎて、おかわりしたくなってしまうだけで。


「むむ……」


 性欲解消のために都合のいい男を生み出した女になるのは考えものだ。言動は慎重にせねば。

 さて。

 起き上がるにしても、彼に抱きしめられた状態である。服はお互い身につけていない。素っ裸だ。

 彼は目を閉じているので眠っているのだろう。神様に眠りがどの程度必要なのか私は知らないが、瞼は閉じているし呼吸も穏やかであるところからするに眠っているところだと思う。起こしていいのかわからないし、寝顔を見る機会もそうなさそうなのでじっと観察することにした。

 ……好みの顔をしてるんだよねえ。

 ふわふわの髪、長い睫毛。男性にしてはかなり色白で艶々の肌。髭は生えているように見えないし、実際に触れてもすべすべとしている。唇は羨ましいくらいぷるんとしているし、口は大きめなのである意味そこに男らしさを感じる。

 神様さんの姿は甘崎くんに似せたって話だけど、私が甘崎くんに惹かれたのは誰かに似てると思ったからなんだよね。

 誰かに似ている――直感的にそう感じて甘崎くんのことを推すようになった。その誰かは、元恋人のケイスケでもなければ、推しアイドルでもない。

 というか、誰に似ていると思ったんだろう?

 見覚えのある好意的に感じる顔が、甘崎くんだ。神様さんと似てるといえば似ているけど。

 神様さんは私の小さな頃を知っているって告げた。ならば私も彼を知っているということだろうか。神様さんに似ているから、甘崎くんに好意を抱いているの?

 ここまでくると、卵が先か鶏が先かという話になりそうだ。寝起きに考えることじゃない気がした。


「……そろそろ目を開けてもいいかい?」

「起きていたんですか」


 私が返事をすると、彼はゆっくりと瞼をあげる。私と目が合うと、ぱちぱちと目を瞬かせてふにゃりと笑った。


「穴があくんじゃないかと思ったよ」

「そんなに見つめてないですよ」


 幸せそうに笑ってくれると安心する。私も微笑んで返した。


「身体は大丈夫かい?」

「少し気怠いですけど、元気ですよ」

「それならいいけど。一昨日の夜は激しくしちゃったからねえ。これでも加減したつもりなんだ」

「充分に優しくしてもらえました」


 いろいろ思い出してしまって恥ずかしくなる。モジモジすると彼は私の頭を優しく撫でた。


「物足りない?」

「まさか」

「もっと欲しいって考えているような気がしたから」


 彼の発言に、私は首を横に振る。


「わ、私はですね、あなたの回復に必要なことをしただけで、他意はないの!」

「そう? 気持ちよくなりたいなら努めるよ」


 彼の手が私の肌を滑る。ゾクゾクとしてしまって、うまく逃げられない。


「ふふ。素直だ」

「その顔、ダメ」

「こうやって迫ると君が興奮するってことは学んだよ」

「ひぇ」


 可愛くない悲鳴が出た。降参である。

 あえて見ないように目をぎゅっと瞑ると、彼は明るく笑った。


「あはは。君の負担になるといけないから、続きはまたあとでにしようね。おかげさまで僕は元気だよ」

「そ、それはたいへん結構なことでございますねえ」

「ん? 続きはしないって拒否されると思ったんだけど、その返しは前向きに検討してるって捉えて良い?」


 先に起き上がった彼は私を見下ろしてにこっと笑った。


「続きは未定です。ですけど、私をからかう気力が湧く程度に回復したんだと思ったら、安心してしまって」


 捲れた毛布を胸元まで引き寄せて、私は返事をする。


「僕の心配なんてしなくていいのに。意外と寂しがりやさんなんだね」

「本性は寂しがりやではないと思いますよ」


 ふうと大きく息を吐き出して、私は言葉を続ける。


「でも、状況を思い出してください。長年付き合ってきた恋人と別れて傷心だってのに、命の危機を免れた直後なんですよ。人肌が恋しくなってもおかしくないって、そう分析したのはあなたじゃないですか」

「そうだけどさ、こうして肌を合わせて用済みになったら追い出そうとすると思ったんだよねえ」


 しみじみと告げられるとなんか引っかかる。私は首を傾げた。


「……追い出されたくなったんです?」


 私が指摘すると、彼は目をまんまるくして意外そうな顔をした。


「ああ、なるほどなるほど。僕は君から離れる口実を探しているのかあ」

「えっと……無理にお引き留めすることはできないと思っているので、その、ちゃんとお別れの挨拶をしてくださるならご自由にどうぞ。無言の無断で出て行かれると、また暴走すると思うので、できればやめていただきたいんですが」


 そうだった。

 彼は私が拾って連れ帰ってきてしまった自称神様である。彼が私への興味関心を失ったり、契約が満了すれば縁は切れる。それでこのお付き合いは解消だ。

 私の言葉に、彼はうーんと小さく唸った。しばし悩んだ後に、私の頭を優しく撫でる。


「まだ出て行く予定はないよ。消えてしまうようなこともない。だから安心して」

「そうですか」


 安心してと言われると不安になるものだが、嘘はついていないのだろう。

 私が頷くと彼は口角を上げる。にやり。


「それに、体を差し出す必要もないよ。君を満足させることはやぶさかではないけどね」

「手っ取り早い方法なのかなと思いまして」


 さまざまな方法はあるのだろうと考えられるが、残念ながら私には知識と技術がない。私から力を得るためにまぐわいをしたのだと彼から説明されたのでそうしたわけで。


「生気の摂取には僕に夢中になってもらえればいい。手段としてまぐわうのは、君からの注目を簡単に集められるから都合がいいんだよねえ。術として意識を集中できるようになれれば、まぐわう必要もないんだけど」

「おおう……」


 術か。覚えておいたほうが、外出時に何かあったときに備えられるよね。

 真面目に検討していると、彼は色気を感じさせる笑みを浮かべた。舌先で自身の唇を湿らせる。


「とはいえ、僕は君とまぐわうのは好きだよ。君の乱れた可愛い姿をたくさん見られるから、役得だよねえ」

「な、何思い出し笑いしてるんですかっ、変態ですよ!」


 彼の発言に釣られてこっちも熱くなってしまう。


「ん? 具体的に言って欲しいなら、あれとかこれとか詳細を教えるけど?」

「そ、そういう羞恥プレイを求めたわけじゃないです!」


 今にも語り出しそうだったので、枕を彼に押し付けてやった。彼は明るく笑う。


「あはっ、元気でなにより。どのくらい霊力を奪ってもいいのか、加減が難しいからね。取りすぎちゃうと体に支障が出るだろうし、たくさん残しすぎても他の面倒な連中に勘づかれて厄介だし」


 枕を元の位置に戻しながら、彼は答えた。


「……さっき私を抱いたのって、私の処置も必要だったからなんです?」

「必要ってほどではなかったよ。でも、したほうがよさそうではあったからね。ああ、でもね、僕が君を欲しく思ったのは、君がとっても乗り気だったからであって、処置とか自分の回復とかは二の次さ。効果は副次的」

「ええ……」


 その言い方は気に食わないのだが、意図的に嘘をつけない彼ではあるので、おおむね真実なのだろう。解せぬ。


「細かいことを気にするのはよくないよ。大らかに生きよう!」

「いや、気にしたほうがいいと思いますよ」


 さておき。

 あまり思い出したくないことではあるが、私の前に泥棒猫が現れたらしいことと、渦中の通り魔に出会ってしまったらしいことを確認したところである。

 あの記憶が真実だとしたら、泥棒猫はあそこで事件が起こることを知っていたことになる。手引きしたのが彼女だと考えることもできるが……どうしたものだろう。


「弓弦ちゃん、眉間に皺が寄ってるよ?」


 寝転んだままの私の眉間に指先を当てて撫でてくる。私は膨れた。


「いいですか、神様さん。そもそもはあの日の夜に何があったのかを確認するためだったんですからね。得られた情報を検討しないと意味がないじゃないですか」

「僕はもう少し余韻に浸っていてもいいと思うんだけどな」


 余韻……

 私は快楽に引っ張られそうになる意識を現実に引き戻す。


「充分休みましたよ」

「嫌なことを積極的に思い出す必要はないよ。僕たちに出来ることは限られているんだし」


 出来ることが限られているからこそ、やれることはやっておきたい性分なのだが。

 私は家から出なくても協力できそうなことを考えて、手をポンっと合わせた。


「あ。犯人の人相を警察に伝えないと!」

「説明できるほど覚えているのかい? 君はしゃがんでいたから、相手の背丈もよくわからないでしょう?」

「それは……そうですけど」


 確かに顔は見たがはっきり見えたわけではない。街灯が頭上にある都合で逆光なのだ。男であることは声からも想像できたが、それ以外の細部が答えられるかと言えばぼんやりとしている。


「でもですね、あの女に聞くといいって警察に伝えることはできるんじゃないですかね。犯行時に近くにいた人物には違いないわけで」

「連絡先、知っているのかい?」

「それは……」


 ケイスケに頼めばいいと言おうとして口をつぐむ。電話に出たくなくてスマホの電源を落としているくらいなのに、あの泥棒猫の居場所を教えろと電話をすることが果たしてできるだろうか。

 黙り込んでしまった私を、彼は小さく笑った。


「無理しない無理しない。君は君自身を癒すことだけ考えて」


 優しく頭を撫でられるととろんとしてしまう。気怠さが眠気を呼ぶらしい。


「シャワー先に浴びる?」

「そうですね……」


 このまま眠ってしまったら夜眠れなくなってしまう。私はゆっくり上半身を起こして伸びをした。


「お言葉に甘えて先にシャワーを浴びます」


 シャワーを浴びたらスッキリするだろう。考えをまとめるのはそのあとだ。

 そっとベッドから降りると彼の視線が気になった。


「……あの?」


 じっと見られている。肌を舐めるような視線にゾクリとして彼を見ると、険しい表情からふんわりしたものに変わる。


「僕好みだなあって思って」


 好みなのは嘘ではないのだろうけれど、そこがメインじゃないことは明白だ。


「何かついていたりします?」

「君にとって困るようなものは憑いてないよ。僕の加護を君にたっぷり注いだからね」

「加護……」

「婉曲表現じゃないよ?」


 ニコニコしながら冗談めかして彼が言うので、私は追及を諦めた。


「一応、神様さんのことは信用しているので、それで納得しておきます。シャワー、行ってきますね」

「行ってらっしゃい」


 彼が手をひらひらと振るので、私は浴室に向かった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 考えないといけないことはたくさんある。

 あの日の夜にまつわるあれやこれやはややこしいことになっている。一つ一つを切り分けて片付けていきたいところだ。

 そのためにはケイスケとやり取りをする必要がありそうで頭が痛い。感情に任せて電話を切ってしまったことを悔やむものの、あの状況で冷静にやり取りができたなんてちっとも思えなくて、詰んだなあと頭を抱えた。

 浴室の鏡に映る自分は見慣れた姿で、これといった違和感はない。朝に気づいた打撲痕はもうほとんど消えたようだった。

 背中側も問題ない。肌がツヤツヤしてきたような気がするが、理由については深く考えないようにしよう。

 体を洗っているとき、インターフォンが鳴ったことに気がついた。誰か訪ねてきたようだが、こうも泡だらけではすぐには出られそうにない。


「弓弦ちゃん?」


 浴室のドアが叩かれた。細く開けると、部屋着に着替えた彼が立っている。


「インターフォン鳴りましたよね。誰だったんです?」

「梓くん」

「アニキですか」


 まあ、プロジェクターを貸してくれることになっていたし、夜には訪ねるって話になっていたよね。

 予定に狂いはないはずだが、彼がおろおろしているのが気になる。


「何か問題でも?」

「すごく怒ってる」

「ん?」


 怒っている?

 なにかやらかしただろうか。外出するなと言われたから引きこもっていたのに。


「弓弦ちゃん、どのくらいで準備できる?」

「五分以上かかりそうですが」


 髪を洗い始めたところなのだ。綺麗にすすぐことを考えると、そんなに早くは終わらない。


「むむ……。梓くん、上ってきているみたいだから、僕が対応するってことでいいかい?」

「ええ、まあ、問題ないかと」

「わかった。場を繋いでおく」


 神妙な顔をして頷くのが面白い。私は笑ってお願いをした。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 まもなく、二度目のインターフォンが鳴った。つづいて、ドアを開ける気配がある。神様さんが応対しているのだろう。

 大丈夫そうね?

 彼は私を優先している節があるから、任せておいて問題はないはずだ。私は彼を信用している。ただ、朝の電話のやりとりのことがある。ほったらかしというわけにはいかない。

 すごく怒ってる、なんて報告するからどうなるかと思ったわ……

 顔を合わせるなり怒鳴り合うような展開にはならなかったようなので、そこはひとまず安堵した。さっさと髪をすすいで風呂を出よう。

 ……っと、待てよ。着替えを用意しなかったよね?

 髪をすすぎ終えて髪を拭いているときに気づいた。浴室に入るときはすでに全裸だったので、身につけていた服すらない。このタイミングで誰かが訪ねてくるなんてことを想定していなかったのだ。

 しまったな。アニキの前にすっぽんぽんは流石にまずいし、神様さんに服を取ってきてもらうのも微妙な気が。いや、神様さんは私の衣類がどこにしまってあるのかを把握しているからその点については問題ないんだけど、その様子をアニキに見られるというか聞かれるというかそういうのが大変よろしくない。

 だとしてもなあ……

 部屋の間取りの都合上、風呂場から寝室までを身を隠して移動することは不可能なのだ。どうにかして、服を調達する必要がある。

 現状を打開する妙案は浮かばなかったが、髪を拭いて体も拭き終えてしまった。浴室に届く音声からは非常事態ということはなさそうである。慌てて出て行く必要はないとはいえ、長湯ともいかない。私はバスタオルを体に巻き付けて、そっと脱衣所に出る。脱衣所の先はダイニングキッチンになっているので、そこに二人がいるはずだ。

 ダイニングキッチンと脱衣所を隔てるドアに顔を静かに寄せる。

 聞き耳を立てると二人の会話がはっきりとした。


「――この状況を受け入れろっていうことの方が無理があるだろ」


 その言葉に続くのはアニキの深い深いため息。

 神様さんの笑う声がする。


「でもこれが現実なんだよねえ」

「その合いの手は不要だ」


 不満な気持ちを隠さない兄の声に、私は心の中で同意した。現実だと言われたところで、すんなり受け入れられる状況ではない。


「君がどんな手を使おうとも、もう後戻りはできないってことさ」


 諦めて流されろと言いたげな口調で神様さんが諭す。

 私の見えないところでアニキがなにをしているのか知らないが、アニキなりに尽力しているのはわかる。いろいろ申し訳ない。


「先延ばしにできただけ、上等だろ。オレは一般人なんだよ」

「梓くんはとても優秀な一般人だよ」


 アニキの特大のため息。お疲れのようである。


「優秀だろうと、オレはどうせ蚊帳の外だろ。どんなに努力したところで、そっち側にはいけないじゃないか」


 愚痴に対し、神様さんはふむと唸る。


「君にしては後ろ向きな言葉だねえ」

「非力な自分に打ちのめされているんだよ」


 移動する足音。カタンと何かがぶつかる音。たぶん、ダイニングテーブルか椅子に何かがぶつかったのだろう。


「ふうん。弓弦ちゃんの代わりになりたかったかい?」

「いや。代わりにはならないな。オレじゃ背負えない。だが、少しでもオレがあいつの荷物を背負えたらって、思ってはいる」


 沈黙。

 たぶん、神様さんがじっと兄の目を覗き込んでいるところなのだろう。彼はそうやって心を覗こうとする癖があるから。

 彼のそういう態度に、兄はじっと見つめ返すだろうことも想像にたやすい。兄は相手が人間であれ怪異であれ、いつだって真っ正面に立ち向かう。自分が弱いことを認めた上で、それでも今できることを全力でやることを選ぶ人なのだ。


「――ふふ。君は賢い」


 神様さんが退いたらしかった。満足げな声。お気に召したようだ。


「そっちはどうするつもりなんだ? オレを駒にするなら、そう言えよ。命は賭けられないが、協力はする」


 アニキの発言はちょっと意外だった。神様さんとの共闘を選ぶのか。

 となると、アニキもアニキでなにか情報を掴んできたのかな?

 会話の頭から聞いていたわけではないから、どんな情報を共有したのかわからない。ただ進展があったらしいことは察せられる。

 神様さんは小さく唸る。


「そうだねえ。なにやら意図せず面倒なことになってしまったようだから、一つ一つ潰させてもらうよ。そろそろ、速報が出ると思う」


 速報とは?

 アニキが探りを入れるかと思いきや、そこには触れないようだ。


「ここを出ずに手を回せるのか?」

「むしろ、ここを動かないからこそできるんだけどね。それを潰せば、移動できるようになるから、ラクになると思うよ」

「……そうか」


 兄の返事は気乗りがしない感じだった。アニキにとっては朗報ではなさそうだ。


「ところで、お父さんは元気かい? まだ戻らないの?」

「連絡はない」


 神様さんが話題を変えてきた。アニキの返答はそっけない。

 ってか、まだ連絡がつかないのか……

 丸一日連絡がつかないくらいなら度々あったはずだが、父はなにをやっているんだろう。予定どおりではあるようだけども。


「離島に呼ばれているんだっけ」

「ああ」

「それも、今回の件と関係している」

「そうなのか?」


 話題へのアニキの食いつきがいい。父の行方と状況についてやきもきしていたからだろう。


「裏で糸を引いているヤツを引っ張り出せれば、明らかになるさ。全部仕組まれていたことだと思う」

「その言いっぷりだと、目星が付いているってことか」

「ちなみに真犯人は僕だ、という展開はないよ。向こうにとって想定外だったのが僕の存在だろうからね」


 真犯人が神様さんだったら笑えないわ。

 私は聞きながら思わず苦笑する。


「だが、貴方が弓弦のそばにずっといることは知られていたんじゃないのか? 弓弦の特性を知っている相手であれば、当然気配でわかるだろうし」


 その指摘はもっともだ。私は神様さんの返事を待つ。


「想定よりもずっと強い状態で僕が呼ばれちゃったから、慌てたんじゃないかな」

「強い?」

「この僕は不完全なんだけど、不完全な代わりに特化した部分もあるわけで。初手でやらかしちゃったんだよねえ」


 あ。

 彼の発言を聞いて、記憶に跳んだときに神様さんと会う直前で戻ってきてしまった理由を察する。あのあと、神様さんにとって何か不都合なことが起こってしまったのだ。


「何やったんだよ」


 アニキの低められた声には、わずかに畏れの感情が滲む。

 神様さんは明るく笑った。


「殺生しなかっただけ、よかったよねえ」

「あー、それ以上は聞かないでおくわ」

「ふふ。梓くんのそういう物わかりのいい人間を演じるところ、昔っからすごく好きだよ」

「好かれていることを突っぱねたりはしないが、義理の弟になるのは認めたくない」


 好感触の今なら言質が取れそうだと匂わせる感じで神様さんが褒めれば、アニキの返事はそっけなかった。神様さんはふむと唸る。


「昔からそうだよねえ。あのときの契りはずっと有効なんだから、いい加減に諦めようよ。神様っていうものは執念深いんだ……なあんてね。執念深いのは君たちと僕らの時間の流れが違うから、君らからは執念深いように見えるだけだと思うよ。僕にとっては、ほんの少し前なだけなんだから」

「へいへい、そうですかー」


 相手をしないということを表明するかのようなアニキの発言。神様さんに合わせたらのせられるだけだとわかっているからだろう。

 だとすると、アニキと神様さんは旧知の仲であるという予想が正しいことの証左になる気がした。


「僕は弓弦ちゃんを連れ去ったりしないよ。天寿をまっとうさせるために彼女のそばにいるんだから。弓弦ちゃん、梓くんのことをすごく大事にしているからね。引き離して悲しませるようなことはしないよ」


 カタンという小さな音。


「ただし、君が弓弦ちゃんを泣かせるなら、そのときは手段を選ばないけどねえ」

「いちいち脅すなよ」


 何かを払い除けたようなパシッという音。扉の陰にいるから見えないけれど、神様さんとアニキは近くにいるのだな。


「君はそのほうが言うことを聞いてくれるでしょ?」

「癪に触るなあ、その言い方」

「その割には苛立っていないじゃないか」


 神様さんの言うとおりだ。アニキは不満げな口調でありながらもイライラしている様子はない。不思議と落ち着いている。


「貴方のそれは昔っからですからねえ」

「あはは。大人になったからか、僕のあしらい方も様になってきた」


 本心を明かさないうわべの会話。腹の探り合いの色が濃い。


「記憶が不完全ってのも、どこまでが本当なんだかな」

「思い出しにくい部分があるっていうのが正確だよねえ。まあ、些細なことだよ」

「ほんと、どうだか」

「――それで弓弦ちゃん。服はそこに置いてあるから着替えて出ておいでよ」

「……はい?」


 急に話を振られてびっくりした。思わず返事をしてしまったし。

 そこにあると言われてよく確認すると、自動洗濯乾燥機の上に畳まれた部屋着が置かれているのが目に入る。


「ふふ。盗み聞きはよくないよ」

「そういうつもりはなかったんですよぉ」


 一体いつから気づいていたのだろう。さっさと着替えると、私は脱衣所からダイニングキッチンに出たのだった。


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