6:あの夜に跳ぶ

◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 視界が戻ってくる。薄暗く感じるけれど、街灯が周囲を照らしているから歩くには問題がない。

 というか、この景色は。

 この夜道には覚えがある。最寄り駅から一本奥に入る道だ。私の通勤経路である。


『ちゃんと入れたみたいだね』


 声が頭の中に響いている。周囲を見渡そうとしてみて、身体が自由に動かないことに気づいた。

 ともすれば、見える景色が私の意志とは別に動き出す。視界はカメラぶれがひどい感じで酔いそうだ。


『神様さん?』


 声は出せなかったが、心で話しかけるようにしてみる。


『ふふ。はじめは慣れないと思うけど、夢みたいなものだと思って耐えてよ』

『私の記憶を再生している感じですか?』

『うん。視覚聴覚触覚を追体験しているところだねえ』

『なるほど』


 つまりは、私が体験したことであれば確認可能だということだろうか。


『おそらく、この調子で帰宅していけば、どこかで僕を拾うことになると思うよ』

『それはそうでしょうね』


 事件に巻き込まれなくとも、確実に神様さんを拾うイベントは発生するはずだ。この記憶の雰囲気だと、あの日の夜であることはほぼ間違いない。泥酔してフラフラになりながらこの道を歩いたのはこの日だけなのだ。

 にしても、視界不良もいいところだな……

 歩道の幅いっぱいに右へ左へと移動している。鼻をすすりながら歩く様はなんとも言えない姿だっただろう。周囲に人影がほとんどないのが幸いというかなんというか。

 とか思っていたらつまずいた。右側を下にして転倒する。

 痛い。

 なるほど、腕に残っていた打撲痕はこれが原因だな。鞄もこれで擦ったっぽい。納得ができてなにより。

 起き上がって、スプリングコートをパタパタと叩く。踏んだり蹴ったりである。

 大きなため息をついて前進。ゆっくりと、でも確実に進む。一つ角を折れたところで、正面に仁王立ちする影が一つ。

 シルエットは男性にしては小柄、女性であれば大きめである。ロングコートで体型はわかりにくいが、太ってはいないと思う。瞬時に性別がわからなかったのは、フードを被っていたからだ。


「なんでアンタ、真っ直ぐ家に帰んないのよ!」


 私を見つけるなり、その影は声をかけてきた。女の声だ。私よりは高音で、年齢は同い年か少し若そうな印象である。

 まさか私に声をかけてきたとは思わなくて、無視して歩みを進める。


「ちょっ、無視とかありえないんですけど!」


 隣を通り過ぎようとしたところでガシッと肩を掴まれた。

 誰だ、この女。

 暗がりということもあって視界が悪い。

 目が合った。


「人違いでは?」


 私の声は枯れている。散々泣いて荒れた後なのだからそういうものだろう。


「人違いなものですか! ケイスケの家からわざわざ急いで追いかけて来たってのに、なんであたしの方が先にアンタの家に着いてんのよ! マジあり得ない!」

「ケイ……スケ……?」


 別れた男の名前など、アイツは幼馴染でもあったけど、もうどうでもいい。

 私は軽く彼女の手を払って家路を急ぐことにする。

 そう。この女、ケイスケの家の居候である。なんでこんな場所にいるんだ?


「ケイスケとはお別れしましたんで。私、帰ります」

「それじゃ困るのよ!」


 腕を引っ張られた。なにが目的だ?


「私は困りませんので。どうぞお幸せに」


 もう関わり合いたくないし、顔も見たくない。そのつもりで腕を振り切ろうと試みる。だが、彼女はしぶとくくっついたままだ。

 なんだ、ヨリを戻せ、誤解だからって展開か? 誤解だとしても、もう未練とかないし、誤解されるようなことをしでかす男とは縁を切りたいんだが。


「ちょっ、なにが目的なのよ! 同棲してヤることヤってんでしょ! 私はもう関係ないじゃん! 離せ!」


 さっさと家に入って甘崎くんに癒される予定があるのだ。放っておいていただきたい。


「アンタにはここで消えてもらわないといけないのよ!」


 どういう意味だ?

 揉み合いをしているうちに、私の身体は羽交い締めにされていた。身動きが取れない。相手のほうが少し背が高いらしいからか、どうにもならなかった。


「な、ちょ、変態!」


 誰も人が通らない。終電だったらもう少し人がいた可能性があるが、残念ながら終電ではないし、週末ですらないのである。こんな夜更けに歩いている人間は少数派だ。


「変態とか言うな」

「離せ、変態!」

「変態じゃない!」


 不毛なやり取りだな。

 しかし、この景色――この建物の様子、さっきも見たような。


『……スキップとかないの?』

『跳ばすことはできないかなあ』

『そっかあ』


 ずっと揉みあっている。時刻は不明。もう少ししたら、次の上りか下りかの電車に乗っていた人が通りかかるような気がする。

 あ。胃がムカムカしてきたぞ。

 呑みまくって泥酔して帰宅中だ。こんなふうに揉みくちゃにされたら吐き気も湧く。


「は、吐きそう……」

「はぁ? 待って、吐くとか、待ちなさいよ」

「無理……もう、げぶっ」


 ……見てるのもキツイな?


「ちっ、もうすぐだってのに」


 顔が近いから、彼女の声がはっきり聞こえた。当時の自分は吐き気をもよおしていたから聞いている場合じゃなかっただろうけども。

 腕が緩んで地べたに私は落ちる。げえげえ言ってはいるが、吐いてはいない。胃液が上がって喉の奥が灼かれている感じはするけども。


「まあ、いいわ。ここで足止めさえできれば」


 捨て台詞だろうか。何事かを告げて、彼女は駅の方へと走り去る。なんだと言うのだろう、あの子は。

 ぜえぜえしながら動きが取れずにいると、悲鳴が上がる。さっきの彼女の声のような気がするし、そうではないのかもしれないが、とにかく女の悲鳴だ。

 私は呼吸を整えて顔を上げる。何者かが駅方面からこちらに走ってきた。シルエットはさっきの彼女とは違う。

 男性らしい。全力で向かってくる。


『あ』


 思い出した。この記憶は間違いなく私のもので。

 このあと私は。


「くっそ」


 地べたにいた私のそばにはショルダーバッグが転がっている。そのショルダーバッグに走ってきた男が引っかかってつまずいた。


「見たな、女!」


 起き上がった男の手元、光るものがある。

 血のついた刃物だ。


「ひっ」


 とんだ厄日だ。もっともっと楽しいことをしてから一生を終えたかったのに。

 刺されることを覚悟した――そのときだ。

 眩い光が一瞬、周囲を照らす。ストロボのような点滅は、車のライトとは違うとわかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 光が止んだと思えば、そこはもう私の部屋だった。


「あれ?」


 てっきり死にそうになったところを切り抜けるシーンがやってくると身構えていたのに。

 ところで、神様さんはどこに?

 手を握られて記憶に飛ばされたのだから、意識を取り戻したら目の前に彼がいるのが道理だろう。なのに握られていたはずの手は空っぽでどこかひんやりしていて、下を見ても彼の姿はなくて。

 まさか、と思った。


「神様さん!」


 悲鳴に似た声が出た。ご近所迷惑になろうとも気にしている場合ではない。

 ダイニングにはいないので別の部屋かと思い寝室に向かえば、背後から声がした。


「だいじょぶ大丈夫。僕の方がちょっと刺激が強かったみたいで、意識から飛び出しちゃったんだよねえ」


 トイレから彼が出てきた。刺激が強かったと彼が説明したのが伝わる程度には青褪めた顔をしている。


「大丈夫そうには見えないんですが」


 私はすぐに駆け寄って、顔を覗く。

 彼は反射的にニコッと笑った。無理をしているのが丸わかりだ。


「神様さん。無理しないでください。真相を知るためとはいえ、それなりに負担になるような奇跡だの怪異だのを生み出したわけなんですから、大丈夫なわけがないんですよ」

「おや、僕の心配をしてくれるのかい?」


 うっすらと額に浮かぶ汗に気づいて私は手を伸ばす。


「当然じゃないですか」

「君は優しいねえ」


 彼はおとなしく私に汗を拭われて、機嫌よく振る舞った。

 触れた彼の肌はとても冷たかった。


「いいですか、神様さん。私は別に誰にでも優しいわけじゃないんですよ。私に優しくしてくれたから、その思いには報いたいなと思う程度に優しくできるだけで。私を優しいと思えるなら、それはすべてあなたが私に与えた優しさです」

「そんなことはないと思うけどな。君は小さい頃から優しいよ」

「…………」


 彼の気配が弱まっているのがわかる。記憶の刺激が強いがために緊急で飛び出してしまったことで、ちゃんと手順通りに術を終えることができなかった弊害もあるのだろう。

 こんなはずじゃなかったのにな。

 私は次の手をぐるぐる考えて黙り込む。頑張ってくれた彼に、なにかしてあげたい。


「弓弦ちゃん――」

「神様さん」


 私は彼の両肩をガシッと掴んだ。彼は目を丸くしている。そのまま少し背伸びをした。


「ゆづ……」


 唇が触れる。軽く食む。

 もっと深い口づけをしようと誘ったつもりだったけれど、彼は応じてくれなかった。

 仕方なく離れて、おねだりするように首を傾げて見せた。


「……私から、力を奪っていいよ?」


 乗ってくるだろうか。

 拙い演技なのは承知だ。私は元カレに対してもキスをおねだりするようなことはなかった。その点についてはつくづく可愛げがなかったなと思う。

 彼は上機嫌に笑った。


「ふふ。可愛いこと、僕が相手でもできるんだね」

「からかってないで、私から力を摂取すればいいじゃないですか。そもそも、私があなたに作用したからこうして存在しているんでしょ? 今回は特別です。私があなたに与えるって言ってるんですから、遠慮は無用ですよ」


 私が小さく膨れると、笑顔の上に困ったように眉根を寄せた。


「だから、そういうのが優しいっていうんだよ。あまり僕を信用しない方がいいんじゃない? 君のお兄さんが悲しむんじゃないかと思うけど」


 彼がアニキを梓くんと呼ばなかったあたり、私に揺さぶりをかけようという魂胆があるとみた。私は唇を尖らせる。


「こういうときにアニキを持ち出さないでください。私にだって意思はあるんです。成人していますし、アニキは過保護なんですよ」

「自分の責任で、そうするってこと?」


 意外そうな問い。私は両手を自身の腰に当てた。


「私がそうしたいからするってことです」

「……ふふ。僕は君に気に入ってもらえたんだね」


 困ったように笑ったかと思えば、彼の手が私に伸びた。髪をすくようにされたかと思えば、唇が重なる。


「ん……」


 いきなりすぎて目を閉じるのを忘れていた。深い口づけに変わるとともに目を閉じて、ゆっくりと互いを味わった。

 気持ちがいい……

 乱暴にしても怒らないのに、とても丁寧にゆっくりと舌で撫でられて蕩けてしまう。腰に力が入らなくなって、彼の手が私を支えてくれた。


「……本当に可愛い」


 唇が離れて、はくはくと唇を動かす私を熱のこもった眼差しで見つめてくる。多少は元気になったように見えて安心したけれど、私は力が入らなくて困った。

 あれれ。


「好きだよ、弓弦ちゃん」


 微笑んでいるのに、少し寂しげに感じられるのはなぜなのだろう。なにか彼は隠しているのだろうか。


「…………」


 言葉を返したいのに、唇をピクッと動かすだけで声にはならない。

 彼は微苦笑を浮かべた。


「ありゃ。喋れないくらいに蕩けてしまったかな」


 私は渾身の抵抗でプイッと横を向く。すると彼は私の首筋に口づけを落とした。


「や」

「僕がこうするってわかっていて、君は横を向くんでしょ?」


 耳元で囁かないでほしい。

 ただ、その質問の答えはイエスでもあるから、私は全身をほてらせながら顔の向きを変えずに耐えた。

 彼がくすくす笑う。


「本当に可愛いよ。そんなに頑張らなくても、君のそばから消えたりしないよ?」

「……でも」


 いなくなってしまいそうな気配を感じたのだ。何かの拍子に、私の前から何も言わずに消えてしまいそうな、そんな予感が。


「僕にいなくなって欲しかったんじゃないのかい?」

「それは……別に今すぐに、ではないので」

「そうなの?」


 確認の問いに黙っていたら、ふわっと横抱きにされた。安定感がすごい。


「ちょ」


 暴れる元気はないのでされるがままだ。出入り口は決して広くなんてないのに、器用にダイニングキッチンから寝室に運ばれてしまう。


「あのっ」


 ストンとベッドに降ろされてしまう。戸惑っている間に彼が覆い被さってきた。


「神様さん」

「君が欲しい」

「欲しいのは私の力でしょう?」

「そのほうが都合がいいなら、そう思っていればいいよ」


 ねえ寂しそうに笑わないで。

 唇が重なる。

 私は彼の背中に手を回した。

 私に触れる彼の手はとても冷たい。それは私の体がほてっているからだけではないのだろう。

 口づけをしながら器用に脱がされる。上半身はお互い裸だ。彼は私の耳に口元を近づけた。


「……君が許可をしても、触れるべきじゃないことくらい、僕はわかっているんだ」


 切ない声だ。迷っている。葛藤している。

 私は彼の背中を撫でた。私とは違う、筋肉質の肌の感触。


「抱いていいよ」


 私は促したが、彼は首を横に振る。


「怖い思いをしたから、誰かと繋がりを求めてしまうんだよ。それを知りながら乗じるのは、いけないことだ」

「そう諭して私を止めたのは、あの日の夜も、ですよね?」


 私の問いに、彼は首を縦に振って肯定した。


「そうだよ。確認はしないといけない。僕は君と契約をした。だから、君から求められたら抗えない」


 告げて、私の耳を軽く食む。

 与えられる刺激で背中がゾクゾクする。


「ん……」


 互いの肌が触れ合うと心地がいい。もっと感じていたいと願ってしまう。


「気持ちよくなれそうかな?」

「最後までシてくれないの?」

「僕に願わないで。命じちゃダメだよ」

「あなたの回復に必要な分を、ちゃんと私から奪ってよ」


 これでも精一杯言葉を選んだつもりだ。

 抱いてほしいなんて婉曲的な表現でも、挿れてほしいという直接的な表現でもない。私が彼に身体を差し出す理由を、できるだけ正確に伝えようと努力した。

 私の言葉に、彼は私の顔をじっと見て苦笑した。


「そんなことをしたら、君が君ではなくなってしまうよ」


 頭を撫でて、口づけをされる。軽く触れる優しいキス。


「そ、それは……ちょっと困る」

「ちょっとだけなのかい?」


 彼はおどけて笑った。

 私は真面目に考える。


「だって、あのとき、死んでるはずだったから、私」


 死ぬと思った。一昨日の夜、帰宅途中で刺されて人生を終えていたとしてもおかしくはない。

 でも、私は命拾いをした。五体満足な状態で今あるのは、私があらゆる事象を捻じ曲げて彼を喚んだからだ。


「死なせないよ」


 肩口から耳の下にかけて舐められる。身体が甘く震えた。そんな優しい刺激では焦れてしまうところだけれど、これはこれでたまらない。


「僕が君を助けるから」

「なんで? 義務ではないのに」

「運命だからだよ」


 深く口づけられる。話はこれでおしまいだと宣言するようなねっとりとした口づけに、私の意識は蕩けてしまう。

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