5:都合のいい怪異

◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 神様さんが本を持って部屋を出てからスマホゲームを始めたのだが、日課をこなしてすぐに終わらせた。

 ごめんな、甘崎くん。気が乗らないわ……

 アニキからの返信待ちにちょうどいいかと思ったものの、三十分もかからない日課のイベントをこなす間に返事はなかった。既読にもならないあたり、仕事が忙しいのかも知れない。

 それか、何かの作業中で手が離せないか……何をしているんだろう。

 十一時をすぎたばかりで昼食にするにはまだ早いが、別段何をするわけでもない。ちょっと彼の様子を窺ってみよう。

 スマホを充電器に繋いで、私は部屋を出る。

 ダイニングテーブルに神様さんはいた。本を読んでいる。


「おや、げぇむはもういいのかい?」


 私が見ていることにすぐに気づいて、彼は本をパタンと閉じてこちらを見た。


「限定イベントは走り切っているので、そんなに時間は要らないんですよ。それに、長時間連続でプレイしないといけないような設計にはもともとなっていないんです。こういうゲームは毎日ちょっとずつ飽きずに続けられる工夫が大事なので」

「ふぅん」


 彼はにんまりしている。なんだろう。


「……どうかしました?」

「甘崎くんよりも僕のほうに興味が向いているみたいに感じられたから、嬉しいなあって」

「やきもち焼いたのはそっちなのに、そういう言い方しますかっ?」


 彼の指摘はなんか小っ恥ずかしい。一般的な意味合いなら間違いなくゲームよりも彼に興味が向いている状態だが、親密になりたくて様子を見に戻ったつもりはないのだ。

 私があわあわしていると、彼は頬を小さく膨らませる。


「やっぱりやましいげぇむじゃないか」

「恋愛ゲームじゃないですってば」


 いつまでもくだらないやり取りをしているのは不毛だ。私は咳払いをして切り替えることにする。


「その本、面白いですか?」

「物語としては面白いと思ってるよ」

「そうなんですか」


 なんとなく意外だった。暇つぶしで目を通しているのだと思っていたので、内容をちゃんと理解しようとしているとは考えなかったのだ。


「弓弦ちゃんも好きなんでしょう、このお話」


 私の反応を見て、彼は首を傾げた。


「まあ、好きではありますね。ひとり暮らしをするときに一緒に持ってきたんですから」

「憧れた?」

「まさか」


 私は肩をすくめる。


「彼らにとってはそれが幸せなのでしょうし、物語としてはハッピーエンドだと思いますよ。でも、私は人間以外と結ばれることは望まない。大変なのが分かりきっているんですよ。物語としてドラマチックで胸が躍る展開が待ち受けていると捉えることはできますが……作劇の都合だなあって考えちゃうんですよねえ」


 私の返答に、彼は頬杖をついた。


「君はいつだって安全圏にいたいんだね。退屈じゃないのかい?」

「毎日が忙しすぎるからこそ、安全圏で心落ち着けたいんですよ」


 日常を普通にこなすのに精一杯なのだ。これ以上の厄介ごとは御免である。

 やれやれといった様子で返せば、彼はふっと優しく笑った。


「じゃあ、これから先は安泰でいいねえ」

「どういう意味です?」

「僕が君を一生守るからだよ」


 一生?

 私は笑顔を引き攣らせた。


「いやいや、冗談」

「神様は冗談を言わないんじゃないかな」

「あなたは自称じゃないですか」

「あはは、それはそうかもしれないね。僕自身の名前も忘れてしまっているくらいだし」


 そう笑い飛ばすが、じっと見つめてくる視線が熱っぽくて、なんとなく甘い。胸がドキドキする。


「そうだ。僕に名前をつけてみるかい?」


 私は瞬時に首と手を横に振った。


「不用意に怪異に名前をつけてはいけないって教わっているので」


 危ない危ない。勢いで名付けをするところだった。

 怪異というものは名前をつけるなどの定義を行うと強力になる。きちんと命名を行えば対策をしやすくなるものだが、私のような専門家でもない人間が不用意に行えば碌なことにならない――父がそう口を酸っぱく言っていたのを思い出す。

 惜しかったなあとボソリと告げて、彼は明るく笑った。


「便宜的に神様さんって君は呼んでくれるけど、それは問題ないのかな?」

「広義的にはよろしくないでしょうけれど、あなた自身が神様だと名乗ったのでギリギリ?」

「なるほどなるほど」


 うんうんと頷く。その様子に、私は疑問を抱いた。


「そういえば、繰り返し言葉は平気なんですね」

「申す申す、とか?」

「電話でやる『もしもし』ですね」


 相手が人間であることを確認するために繰り返し言葉を使う例として電話口での「もしもし」がある。妖怪の類いは繰り返しを含む言葉を言えないそうだ。


「ふふ。その辺はなんてことないかな」


 どういう系統の存在なんだろう。やはり神様に近い何かなのだろうか。私のおかげで顕現したとか言っていたけど。


「僕について知りたいことがあったらなんでも聞いてくれていいよ。といっても、僕自身の存在は曖昧だから答えられることは少ないと思うけどね」


 上機嫌にニコニコしながら彼は告げる。ゲームをしないで構ってくれることがよほど嬉しいらしい。


「そうですね……って、急に話を振られても、何を聞いたらいいのかなんてすぐには思い浮かばないんですが」

「ふむ……じゃあ、僕が君に質問してもいいかい?」


 少々がっかりした様子で話を振られる。私は肩をすくめた。


「あまり自分のことをベラベラ喋るのは得策だと思えないんですよねえ……」


 なお、神様さんが本気を出すと私の思考は読み放題なわけで、隠すも何もないのだけど。

 すると彼はニコニコと友好的な表情を見せた。


「警戒心が強いのはいいことだけど、僕と君は契りを交わした仲なのだし、もう少し気を緩めてもいいんじゃないかな」

「これ以上深い仲にはなりたくないんですよ」

「一晩限りの仲でいいって?」

「まあ、そういうことですね」


 眉間に皺が寄っている自信がある。平凡な日常を愛しているのであって非日常は遠慮願いたい。彼と関わり合うのはこれっきりで結構だ。

 真面目に返すと、ショックを受けたという顔をされた。でも、どこか演技っぽい。


「あのですね、すごくすごく真剣にこの事態を考えているんですよ」


 この場をやり過ごしたくて思いつきを口にしたわけではない。

 私は彼をちゃんと見据えた。


「あなたに私の守護をお願いするのはやぶさかではないんです。あなたが私に危害を与えるような存在ではないと、どういうわけか信用してはいるので。アニキも同意見ですし」

「だったら」

「それはたんに、あなたが私にとって都合のいい怪異だということにすぎません。そもそもどの程度の力を発揮できるのかは未知数です」


 食い気味に乗り出した彼を、私は片手を軽く上げて止める。


「ゆえに、その力を私が独占していいものなのかは慎重に吟味する必要があると思うんですよ。こういうことには代償も付き物ですし」


 都合のいい怪異ほど気をつけたほうがいい。どこかに落とし穴があるものだ。とりわけ、代償がなんなのかとか、副次的に起こる事象のあるなしとか、注意すべきところはいくらでもあるだろう。

 私の牽制を受けていた彼は、目をぱちぱちと瞬かせたのちに首を横にこてんと倒した。


「代償は君の生気をたっぷりもらっているから、気にしないでいいよ?」

「……え」

「生気とか霊力とか呼ばれてるものをまぐわいで摂取しちゃったから、しばらく大丈夫」


 言い直してくれなくて大丈夫です。

 意味が通じなかったと思われたようだが、私が言葉を詰まらせたのはそういう理由じゃない。

 頭痛がする。


「ええっと……マジっすか……」

「無理矢理奪ったんじゃないよ。あのとき君が動揺していた影響で、抑えられていた生気が暴発状態になっていてね。それに当てられて僕が呼び出されるに至ったし、もっとよからぬものも君に近づいていたのに気づいたから、応急処置として余剰分を受け取ったんだ」

「ああ、それで「僕にもっと感謝してもいいと思う」っておっしゃったんですか」


 彼が取った行動の是非は傍に置くとして。

 状況がなんとなくわかった。肉体も精神もボロボロになっていたことで、思いがけず怪異を引き寄せる事態が生じていたということだろう。


「今の君は不安定だから、僕に癒されておいてよ。なんでも協力するよ?」


 彼は穏やかに笑う。アイドルのピンナップみたいな絵面だ。

 くっ……顔は好みなんだよな……

 状況に慣れてきたのかストレスでおかしくなってきたのか、彼の誘惑に心が揺らぎそうになる。

 強い意志を持って、私!


「それって、神様さん的にメリットはあるんですか?」

「見返りに何を期待しているのかってことかい?」

「はい」


 私が頷けば、彼はニコッと笑う。


「君と仲良くなれればそれで充分なんだけどな」

「仲良く……」


 引っかかる部分を繰り返すと、彼は苦笑した。


「意味深にいうのはいただけないなあ。性的な意味合いを強調されたようで心外だよ」

「含んでいることを否定はしないんですね」

「うん。食事の前に軽く運動したいって誘われたら、即時に協力できるくらいには」


 任せてとばかりに親指を立てられた。

 うわぁ……


「ひどい契約をさせられたものですね……」


 それを覚えていない自分も大概だと思うけれど。申し訳ない。


「そう? 君が気持ちよさそうにしているのを見るのは最高だったよ。ほかの人が見ないだろう可愛い姿をたくさん見られるのは優越感も得られるし。特別な儀式をしているようで、僕としては願ったり叶ったりなのに」


 文句を言ってやりたいのに何も言い返せない。私は口をパクパクさせたあと、ぷいっと横を向いた。


「ふふ。思い出しちゃった?」

「恥ずかしくなっただけです」

「照れてる君もそそられるねえ」

「……黙っててください」


 特別な儀式をしているようだったと告げたが、ような、ではなくまさに儀式だったのだろう。

 私は大きく息を吐き出して冷蔵庫に向かう。


「はぁ……さてと、昼食にしましょう。ちょっと早いですけど、軽めにし――」

「弓弦ちゃん」


 背後を向けた瞬間に抱きしめられた。充分に離れていたはずなのに。

 驚きすぎて動けない私の耳に彼は唇を寄せる。


「少し思い出せたことがあるんだ」

「思い出せたこと?」

「僕は君の小さな頃を知っている」

「え?」

「あの本の内容も僕は知ってる」


 つまり、私と神様さんは幼い頃から縁があるってこと?

 私は小さく頭を横に振る。


「……そんな出まかせで私を誘惑しようっていうんですか?」

「僕は意図的に嘘はつけないよ」


 私を抱き締める力が強くなる。

 あの日の夜のことを身体が思い出した。ゾクゾクする。


「……離れて」


 彼の指先が私を優しくなぞる。身体が震える。服の上からじゃなくて、直に触れてほしい。焦れている。体温が上がる。堪らない。


「弓弦ちゃんも思い出してほしいな、僕との思い出を」

「そ、そういうことをされたら、思い出すどころの……ッ、話じゃなくなっちゃうんですがっ」

「一昨日の夜のことも思い出してよ。僕と交わした契約と一緒に」


 心拍数が明らかに上がっている。

 腕を振り解こうともがいて、腕がやっと離れたと思ったらぐるりと体の向きが変わった。

 冷蔵庫と彼に挟まれる。いわゆる壁ドン状態。困惑したまま見上げていると、流れるように口づけをされた。


「ん……」


 触れるだけからついばまれて、深い口づけに変わる。食べられているみたいな口づけに意識がふわふわとしてくる。


「ふふ……その気になってくれた?」


 私は顔を横に向けた。見つめ返したら頷いてしまいそうで、咄嗟の行動にしては上出来だったと思う。

 鼓動が聞かれてしまいそうなくらいドキドキいっている。全力疾走後でもこんなに激しい動悸は感じたことがないくらいだ。


「なっていたとしても、あなたとはダメなの」

「思い出せないから?」


 私は頷く。

 彼はふぅと息を吐いた。


「……いいよ。仕方がないよね。僕が無理に迫ることで、君の状態を悪化させるわけにはいかないからさ」


 残念そうに彼は告げて、私から充分な距離をとる。


「でもね、弓弦ちゃん、覚えておいて。僕は君を生かすためなら手段を選ばないよ。どんな手を使ってでも君を生かす。口吸いもまぐわいも、僕は君に必要だと思えばそうするから」


 そういう契約なのだな、と思い知る。キスもセックスも、愛情ゆえの行為ではない。

 目が合ったときに困ったような顔のまま笑うから、ままならないことなのだと余計に伝わってきてしまって胸が苦しかった。


「まあ、できるだけ許可はとるように頑張るよ。嫌がるところを見たいわけじゃないからね」


 どういう対応が正解なのかわからない。彼が何者なのか知れたら、受け入れることができるのだろうか。

 迷う程度には心が揺れている。警戒し続けることが負担になっているのだろう。言われるままに受け入れてしまったら楽になれるんじゃないかと考え始めているに違いない。


「……そうですね。許可はとってください」


 気まずい。唇を乱暴に拭ったところで、スマホが鳴り出した。私は寝室に向かう。

 スマホから充電ケーブルを引っこ抜いて、私は画面を見ずに電話に出た。


「もしもし?」

「……弓弦?」


 声を聞いて、さっと血の気がひいた。

 この声、この発音は兄のものじゃない。


「……ケイスケ」

「ああ、よかった。何度も電話してるのに繋がらなくてさ。着信拒否されてるのかと思った」


 ケイスケは何を言っているんだろう。向こうは動揺を隠すように笑っているが、私は着信拒否設定はしていないはずだし、そもそも履歴に彼の電話番号は残っていなかったはずである。

 私は冷静を装う。


「今更何のよう? 私、ヨリを戻すつもりなんてないけど」


 想定していたよりもずっと冷ややかな声が出た。


「でも、俺、弓弦に説明していないし、謝ってもいないだろ?」

「説明して謝罪したらケジメをつけたってことになるとでも? 馬鹿にしないで!」

「黙っていたのは悪かったよ。話すつもりではいたんだ」

「ふざけんな!」


 私はスマホを壁に投げつけるすんでのところで思いとどまり、電話を切った。すぐにスマホが震えたので、私は電源を落としてやる。


「話すことなんてなにもないわよ」


 ケイスケは誤解だとは言わなかった。それだけで証拠は充分だ。

 私はベッドの上に膝を抱えて座り、そのままパタンと横になった。

 頭の中がぐるぐるする。

 ケイスケがしたことは非難されるような裏切り行為だ。おそらく、私が友人知人に触れ回れば、みんなきっと私に味方をしてケイスケを責めることだろう。

 でも、こうなったことで私は気づいてしまった。ケイスケと私の関係は恋人と言えるような関係を築けていなかったことに。私のごっこ遊びに、ケイスケは付き合ってくれていただけなのだ。

 だから、このままなかったことにしてしまえばいい。説明なんてしないで、ケジメをつけたフリなんてしないで、そのまま放置して、うやむやにしてしまいたい。


「アニキは……ケイスケと話したのかな……」


 私の預かり知らぬところで婚約者にされていたケイスケは、アニキのお叱言をくらっているのかもしれないが、そんなの知ったことではない。もう終わったこととして処理してほしい。


「……弓弦ちゃん?」


 部屋の入り口で神様さんがこちらの様子を窺っている。部屋に入ってこないのは何故だろう。


「なんですか?」

「電話、梓くんからじゃなかったんだね」

「そうですね」


 私が電話を待っていた相手が誰なのか、彼はわかっていたようだ。まあ、私宛の電話を勝手に取って切ってしまったのだから、もう一度かかってくることを期待していたのだろうとは思うが。


「彼氏さん、かな?」

「元カレです」


 もう過去の男だ。私ははっきりと指摘した。

 彼は困ったように笑う。


「話を聞かなくてよかったのかい?」

「話すことなんてないですよ。ヨリを戻すつもりは互いにないんですから、このまま関係を解消しておしまいでいいじゃないですか」


 この話題にはもう触れたくはない。私は拒絶の意志をもって枕を彼に投げつけた。

 たいした勢いが出なかった枕はふんわりと放物線を描く。彼は素直に受け止めた。


「本当にいいのかい?」


 確認しながら、神様さんは私に近づいてくる。


「少なくとも今は、話せるような気分じゃないです。それに、電話口で済ませようだなんて、失礼じゃないですかね?」

「そういう意見は確かにあるねえ」


 枕を私に押し付けて、彼は隣に腰を下ろした。


「でも、弓弦ちゃんだって伝えないといけないことがあるんじゃないのかい? 君が傷ついたのは事実だけども、君が彼と別れを選ぶ理由も話さないといけないんじゃないかなって僕は思うよ」

「裏切ったのは向こうです。話すことはないです」

「そう?」


 私の脚を彼はそっと撫でる。


「こうして君のそばに僕がついていることと、彼氏さんのそばに見知らぬ女の子がいることは、そう違うこととも思えないんだけどなあ」


 言われてみると、そう違わないような気はしてしまう。

 いやいや。

 私は首を横に振った。


「あなたは怪異の一種です。人間じゃないですよ」

「それはそうだけど」


 答えて、彼は私に覆い被さるように身体を移動させた。私は逃げるタイミングを逃して、身動きが取れない。


「……思うんだけどさ。本気ですべてなかったことにしたいなら、僕に願えばいいんじゃないかな。このまま縁を切ることを願えば、綺麗さっぱり金輪際顔を合わすことがないようにできるよ?」

「願いませんよ。私は自分にあった出来事として記憶をして、糧にして生きていきます。余計なことはしないでください」

「君がツラそうにしている姿は見ていられないんだよ」


 唇が触れ合いそうになる。顔を背けたら無防備な首を吸われた。あまりの心地よさについ甘い声が漏れ出す。


「つ、ツラいのは今だけですから。折り合いをつけるまでの間だけなんで」


 流されてしまいそうだ。逃げたくてもがけば、ただの身じろぎにしかならなかった。

 彼が耳元に唇を寄せる。


「それもわかってはいるつもりだよ」

「だったら」

「君が不安定になる要因のすべてを、僕は取り除きたいんだ」


 顔の向きを変えられて、深く口づけられる。呼吸ができないくらいの口吸い。


「ん、やっ」

「今の僕なら君に触れられるからさ、少しでも嫌なことを忘れられるように直接働きかけることができる。ねえ、僕を利用してよ。人間にするようにでいいから」

「それは――」


 拒む言葉を告げる前に、ぐぅと大きな腹の音が鳴った。シリアスな空気がぶち壊しである。

 彼は仕方がないと言いたげに笑って、私の上から退いた。


「昼食にしようか。ちゃんと食べてからのほうがいいよね」


 私の返事を待たずに、彼は部屋を出ていってしまった。

 胸がドキドキしている。ときめいているということを認めないわけにはいかないだろう。


「……ずるいよなあ」


 その言葉は神様さんに向けたものでもあり、私自身に向けたものでもあった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 アニキが置いていってくれた食べ物を適当に選んで食べる。なにを口にしても味がしなかった。


「――弓弦ちゃん?」

「ひゃいっ!」


 空腹を満たすためだけに昼食をとって、その片付けを無心でやっていたら神様さんがひょいっと顔を覗き込んできた。びっくりした。距離が近いぞ。

 裏返った声を出してしまって恥ずかしい。ご近所さんにまで響き渡っていないといいけど。

 作業を終えた私は、濡れていた手をタオルで拭く。


「な、なんですか、いきなり」

「いきなりじゃないよ。何度も声をかけたのに心ここに在らずだったからさ」

「ああ、それはごめんなさい。無視していたわけじゃないんですよ」


 本当に聞こえていなかった。彼がここにいるという気配は感じていたが、声をかけられているとは思わなかったのだ。

 彼は眉尻を下げた。


「疲れているときにいろいろなことが同時多発的に起きたから仕方がないのかもしれないけど、僕は心配だよ」

「あはは……大丈夫ではないですよねぇ」


 自分でも変だと自覚している。通常の状態ではない。

 そもそも十八連勤なんてしたことがなかった。過労で体力が落ちていたところでとどめを刺すようにケイスケの浮気発覚である。肉体も精神も滅茶苦茶な状態で泥酔して、神様さんを拾って、近所では事件発生中で。

 私は私の思う平穏な生活を望んでいるだけなのに。

 笑ったあとに特大のため息をつく。


「電源を切りっぱなしにしているあれもそのままでいいのかい?」


 私と会話できるようになったと考えたからだろう。一度距離を取るためか、彼は所定の位置と化したダイニングテーブルの前に腰を下ろす。


「スマホは……大丈夫じゃないですかね」


 電源を入れたらケイスケから電話がかかってきそうで、それが心底嫌だった。アニキからの電話でも取れない自信がある。ならばしばらくは黙らせておくのがいい。

 それにアニキにしろケイスケにしろ、この家を知っているのだ。用事があるならここを訪ねるだろう。

 彼はスマホが置いてある寝室から窓の外に視線を移した。


「少し外に出る? 気分転換さ」

「出るのは得策じゃないってアニキが言っていたので、やめておきます。警察も訪ねてきましたしね。犯人が捕まるまでは静かにしておくのが吉かと」

「傷害事件の、か」


 腕を組んでふむと頷いた。顔色が曇っている。


「私、関係ないですよね?」


 神様さんはあの一昨日の夜のことをよく覚えていないのだと告げていた。私自身も断片さえほとんど思い出せない状態だ。

 だから、絶対に事件と無関係だという保証はない。

 不安な私に、彼は真面目な顔をする。


「犯行時刻に近くにいた可能性は高いとは思うけど、巻き込んではいないんじゃないかな」

「巻き込まれて、じゃないんですか?」


 私は小さく笑う。

 彼は首をコテンと横に倒した。


「言い間違えたわけじゃないんだけどな」

「んん?」


 彼は不思議そうな顔をしている。どういう意味だろう。

 じっと見つめていると、彼は不意に手をポンっと叩いた。


「そうだ。あの時刻、なにがあったのか覗いてみるかい?」

「覗く?」


 いきなりなにを言い出すのだ。

 私が目を瞬かせていると、彼は立ち上がった。


「犯人が捕まるまで外に出られないのは不便だし、僕の力を使って疑問点は解決してしまおう」

「そんなことが可能なんですか?」

「因果律に作用することはできないんだけど、観測することは可能だからね」

「んんんんん?」


 聞き慣れない単語が出てきたぞ。

 私がちょっと待てと片手を上げると、神様さんはニコニコした。


「過去に戻って事件をなかったことにすることはできないけれど、なにが起きていたのかについては見る手段があるってことさ。君が事件に関わっているのか無関係なのかははっきりするんじゃないかな」


 とても都合のよさそうな提案である。だが、そういうときこそ慎重になるべきだ。

 私は彼をじっと見る。


「その代償、キツイんじゃないですか?」

「負担が少ない方法をとるよ。それに、君も知りたいでしょ?」

「犯人を、ですか?」


 私が質問を質問で返せば、彼は首を横に振った。


「ううん。最寄りの駅からここに帰ってくるまでになにがあったのかってこと」

「それはまあ、知りたいですけど」


 酩酊状態の自分がどうやって帰ってきたのかについては興味はある。ショルダーバッグの傷とか行方不明になった御守りとか、おそらくなんらかの情報を得られるだろう。

 浅く頷くと、彼は私に近づいた。


「記憶っていうのはね、消えてしまうことは滅多にないんだよ。忘れてしまうことの本質は、記憶に接続できなくなるってところで」

「その考え方については納得できますけど――」

「そういうことだからさ、ちょっと君の記憶に潜ってみようか」

「はい?」


 両手をがしっと握られた。彼はニコッと笑う。


「大丈夫だいじょうぶ。危なくなったらやめるから」


 ふっと彼の唇が笑みに変わる。それを認識した瞬間、視界が暗転した。

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