4:外に出ないほうがいい理由
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
電話が鳴っている。取らなきゃと思っているうちに音が止んでしまった。
折り返すの面倒だな……
緊急であればもう一度電話が鳴るだろうからと微睡んでいると、話し声が耳に入った。誰だ?
「――あはっ、残念だったね。弓弦ちゃんはまだ眠っているよ。予期せず僕を呼び出してしまったから、身体に負担がかかっているんだろうね」
誰と話しているんだろう。この様子だと兄だろうか。
通話相手の声は聞こえそうで聞こえない塩梅だ。音の高さから察するには男性っぽいが。
会話は続く。
「……ああ、うん。僕は常に一緒だし、休暇中に全快できると思うよ。……うん、うん……だいじょうぶ大丈夫。そんなことはさせないから。うっかり消滅するのも勘弁してほしいし」
冗談めかして神様さんは笑う。ずいぶんと親しげなテンションだな。
「……ふふ。相変わらず心配性だね」
急に声色が変わった。声は低く、シリアスな雰囲気。その声に背筋がゾクっっとする。
「前車の轍は踏まないよ。ちゃんと彼女の意志で行動させるから。……ふふ。そんなに僕のことが信用できないなら、君が弓弦ちゃんを監視すればいいんじゃないかな」
挑発するように告げる。
……相変わらず? 轍は踏まないって、前にも同じことが?
回らない頭でぐるぐる考えていると、神様さんは声を立てて笑った。
「あははは。まあ、やれるだけのことはやっていこうよ、お互いに、ね。……うん、うん。じゃあ、またあとで」
ベッドに座って通話をしていた彼と、彼の布団の中で様子を窺っていた私の目が合ってしまった。なんか気まずい。
「ありゃ、起こしちゃったかな」
彼は何食わぬ顔で通話を切ってスマホをベッドに置いた。
「誰と話をしていたんです?」
「梓くんだよ」
チラッと時計を見やる。兄から電話がかかってくるにしてはいささか早い時間だ。
「なんの用事だったんですかね?」
「それはわからないけど、僕が出たから驚いていたよ」
「私はあなたが普通にスマホを使いこなしていることに驚きでしたけど」
「それはまあ……直感で?」
「直感……」
なんとなく現代知識に疎いんじゃないかと思っていたが、そういうものでもないらしい。よくよく思い返せば、この部屋にあるものは私が説明せずとも問題なく使えている。風呂にしても食事にしても、困っている様子はなかった。
「とにかく、他人の電話に勝手に出ないでください」
「梓くんの名前が表示されていたから、ついからかいたくなっちゃったんだよねえ。次は気をつけるよ」
「そうしてください」
ベッドに転がされたスマホを手に取って履歴を見る。確かに兄からの電話だったようだ。少ししたらメッセージでも送って何の用事だったのか聞いておこう。
「もう起きる? ゆっくり寝ていてもいいとは思うんだ。僕のお布団、気持ちがいいでしょ?」
時刻は八時前。充分に朝寝坊をしていると言える時間帯だ。だが、兄が電話をかけてくるには早い時間だなと思う。これからどこかに出掛けるつもりなのだろうか。
私は適当に頷いた。
「ええ。すごく寝心地がよかったです。夢も覚えていないくらいぐっすり眠れましたし」
「ほんと、ぐっすりだったねえ。僕が悪戯しても無反応だったから諦めて眠ることにしたよ」
悪戯?
さっと血の気がひく。
「何したんですか」
「マッサージ?」
「疑問形で返すな」
私が非難すると、彼はあっけらかんと笑った。全く反省していない。
「ふふ。怒らないでよ」
彼の手が私に伸びて頬に触れる。さわさわと撫でてくるので、私は彼の手を軽く払った。
「気安く触らないで」
「嫌じゃないくせに。――まあ、顔色がよくなってきたから安心したよ。疲れが溜まっている顔をしていたから、梓くんも気に掛けていたみたい」
「十八連勤してたら顔色だって悪くなりますよ」
栄養ドリンクの差し入れがなかったことを思うと、それほど心配しているとは思えなかったが。
「二日酔いが原因じゃないんだ?」
「私、お酒には強いんで」
「君と一緒に飲みたいなあ、お酒」
「嫌ですよ」
私が冷たく返すと、彼は目をぱちくりさせてとても不思議そうな顔をした。
「どうして? お酒、好きなんでしょう?」
「好きですけど、しばらくは禁酒したいので」
「記憶が跳んじゃったからかい?」
私は首を横に振る。記憶が跳んでしまった理由は別にあるような気がするのだ。
さっきの会話も、やっぱり引っかかるし。
私は彼に探られる前に言葉を続ける。
「違いますよ。単純に飲み過ぎたからです。過労状態で飲む量ではなかったと反省したので、肝臓を労わるためにも一週間は禁酒しようかと」
よくよく考えると、連勤中に栄養ドリンクにお世話になりまくっていたわけで、肝臓への負担は甚大だったのではないかと思い至る。禁酒は妥当だ。
彼は冷やかすように笑った。
「わあ、真面目だねえ。じゃあ、禁酒期間が明けたら、一緒に飲もうよ」
「アニキが同席してもいいなら、考えておきます」
「ふふふ。前向きに検討してよ?」
「神様相手に約束はしない主義です」
「それは確かに賢明な判断だ」
残念そうに肩をすくめる。これでこの話はおしまいだ。
「朝ごはん、準備しようか? 出すだけになるけど」
「自分でやりますよ。神様さんは一緒に食べます?」
「うん。同席しても構わないなら」
「了解です」
私が返事をすると、彼は指をパチンと鳴らして布団を片付けた。ほんと、便利だな、それ。
「朝ごはんのあと、何をするか決めようね。部屋から出られそうにないけどさ」
「そうですね……惰眠を貪るのも勿体無いですし」
天気は晴れ。外に出られないのはちょっともったいない気がする。
「男女が密室ですることと言ったら一つしかないよ!」
「はいはい」
隙あらばそういう方向に話を持っていこうとするなあ。
私は適当にあしらいながら、朝食の準備に取り掛かるのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
朝食を片付けていると、インターフォンが鳴った。いきなり部屋の前のほうが鳴り響いたのでびっくりして画面を覗くと、警察官風の男女が並んでいる。ちらりと彼を見やって居留守にしようかとも考えたものの、なんの用事なのか気になったので出ることにする。
インターフォン越しに話をうかがうに、一昨日の深夜に起きた傷害事件についての情報提供を求める話と犯人が行方知れずなので外出時には不審者に注意するようにとの案内であった。
ドアを開ける必要はないとのことで話を終えれば彼らは去ってしまう。このアパートの部屋を一軒一軒回っているらしかった。
「一昨日の夜か……」
パトカーの音がうるさいと思ったら、つまりは犯人が逃走中なので警戒しているということらしい。迷惑な話だ。
「物騒だねえ」
黙ってやり取りをうかがっていた彼が話しかけてきた。
「そうですね。外が賑やかな理由がわかってスッキリです」
私が話をしている間に片付けは終わらせてくれたらしい。ダイニングテーブルはちゃんと拭き掃除が終わり、台拭きはいつもの場所に干されている。指示せずともそこまでやれてしまうなんてありがたい。
「お片付けありがとうございます」
「僕も食べているわけだし、当然でしょ」
本当に大したことではないと思っているらしかった。なんでもないようににこりと微笑む。
私は首をわずかに傾げた。
「どうですかね、当然だと思っていない人も多いような。それに、他人にさせるのを嫌う人もいるから、作業を率先してやるってのにも抵抗がある場合があると思うんですよねえ」
うちの母が後者のタイプであり、引き受けてやるからには母とまったく同じようにしないと小言が飛んでくる。それがキツいから家を出たようなところさえあるのだ。
私は思い出してウンザリしながら返した。
「君は僕がやることに対して嫌がっていたり困ったりしている様子はないからね。できそうなことは任せてよ」
「助かります」
いつまでこのサービスが続くのかはわからないと考えつつ、ヘトヘトになっている今だけでも手を貸してもらおうと心に誓う。彼に甘えることに対して精神的な抵抗はあるものの、これだけ実績を重ねられたら断る方が野暮というものだ。
「ところで、一昨日の夜ってことは私、泥酔して帰宅したタイミングですよね」
警察官が話していたことを思い返す。咄嗟には記憶を遡れなかったので、なにか思い出したようなら連絡をしますとだけ伝えておいたが。
私の確認の言葉に、彼は素直に頷いた。
「そうなるね」
「神様さんは何かご存知じゃありませんか?」
「不審者を見ていないかってことかい?」
彼の問いに、私は頷いた。
「私、最寄り駅からここに帰ってくるまでの記憶が曖昧なんです。タクシーが捕まらなくて歩いて帰ることにしたのは覚えているんですけどね」
どこで神様さんを拾ったのかも記憶がない。お気に入りのショルダーバッグは傷がついているし、御守りは失くしているしで、あの夜が散々だったことはうかがい知れるのだけども。
「神様さんはどこで私に拾われたんです?」
「うーん。僕もそれは良く覚えていないんだよねえ」
意外な返答だった。
「唐突に君が話しかけてきて、その君は泥酔していてフラフラでさ。このまま放っておくのはよくないと思って付き添うことにしたんだよね」
「ん? 思っていたくだりと違うんですが」
「そう? で。どうして君がそんなに酔っているのかを聞いたら、付き合っていた相手と別れて寂しいって口説かれて、一晩だけそばにいてほしいって頼まれたんだけど」
おっと、そういう展開なら想像通りと言えなくもないぞ。
「一晩の約束が二晩も居座っていらっしゃいますが」
「そこは些細なことだよ」
「些細じゃないです」
素早く切り返すと、彼は笑った。
「いいじゃない。外は物騒なんだし、男が家にいたほうが都合がいいと思うよ?」
「得体の知れない相手と軟禁生活になっておいて、身の安全が保障されているとはとても思えませんが?」
「もう僕たちはまぐわった後だし、嫌なことはしないよ」
「ま、まぐわっ……」
いや、事実ではある。
私は熱くなった顔を両手で覆って隠した。
「ちゃんと同意はもらったよ? 誘ってきたのは弓弦ちゃんだけど、自暴自棄になっているのも感じられたから、本当に望んでいることなのかは何度もきいたからね」
「その点は疑っていないです……」
連れ帰った相手に無理矢理襲われたわけではないと、そこは記憶が曖昧でも信じられた。自分は被害者であると彼が言い出さなかったことが救いのようにさえ思えて、頭が痛い。
大きく息を吐き出して、私は彼を見た。
「一昨日のことで何か気になることがあれば共有お願いします。犯人が捕まってくれないと、外出できないですからね」
「妖関係を御守りで弾くとしても、人間相手には無効だろうからねえ」
まったくその通りである。この休暇中に解決してほしい。
「まあ、僕がいる間は僕に任せてよ。警護もするからさ」
「警護については不安はないんですが、あなた、すごく目立つと思うんですよ。一緒に歩くのはちょっと……」
「問題ないと思うけどなあ。ま、どうしても外に出なきゃいけなくなったときには期待して」
「そうですね」
このまま会話を続けても不毛なので、私はスマホを手に取って連絡がないか確認する。兄から連絡が来ていてもおかしくないのに、未だなにもない。
「神様さん、私、ちょっとスマホいじってきます。こちらで待っていてください」
「またげぇむかい?」
「ええ」
兄に連絡をしたらデイリーをこなすためにゲームをしようと思っていたので嘘ではない。
「あれは浮気をされてる気分になるからなあ」
「浮気じゃないですし、そもそもあなたとはそういう関係ではないです」
私はそう返して寝室に引っ込んだのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
スマホで兄にメッセージを送る。少し待ったが既読にならない。時刻を確認して、私はため息をついた。
仕事中、かなあ。
十時前だ。今日も店は開いているはずなので、開店準備に入っていてもおかしくはない。だが、昨夜の様子からすると今日は店にはいないような気がした。
さっきの電話、なんだったんだろ。
なんの目的で電話をかけてきたのかも気になったが、神様さんと何を話していたのかも気になるところだ。朝食をとりつつ彼から私が聞き出そうにも、うまい具合にはぐらかしてくるのでちっとも情報は得られなかった。
一昨日の深夜に何があったのかも気がかりである。私はスマホで情報収集をすることにした。この周辺で起きた事件がなんなのか、知っておく必要がある。
検索をしてみると、さっき警察官風の男女が話していた内容が出てきた。事件が起きた場所は駅から私の家までの道のりの途中であり、これで間違いなさそうだ。
「……なになに」
犯行時刻は日付が変わった零時過ぎ。帰宅途中の男性が何者かに斬りつけられ、犯人は逃走中とのこと。斬りつけられた男性は軽傷で命に別状なし。犯人に面識はないそうだ。
物騒なのはそうだよねえ。刃物を持ち歩いているんだし。
私は他の記事も参照しながらふむふむと頷く。その時間、私がそこに居合わせた可能性は高い。なにか見たのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
「斬りつけられた、か」
仕事で使っていたショルダーバッグに残っていたのは擦り傷だ。おそらく、転倒したかどこかの壁にでもぶつけたかによるもの。切られたわけではない。
一昨日の夜に着ていた服はなにも考えずに洗濯機に放り込んでしまったので汚れていたかどうかまでは確認しなかった。ただ、破れたり切られたりはしていないはずだ。激しい汚損もなかっただろう。
あとは。
なにか見落としはないかと思い返していて、腕に残っていた小さな痕が目に入る。
「……まさか、ね」
自分の身体に残っていた痕。情事の痕跡もあるのだろうけども、それ以外の怪我もあったのではなかろうか。
カーテンを少し引いて、私は服を脱ぐ。下着姿になって姿見で肌を確認してみると、痕はほとんど消えていた。残っているのは右肩から右腕にかけて数カ所うっすらとあるくらいで、左側や腹部、肩などはもう綺麗なものだ。
治るの早いな。若さか。よく寝たし。
傷が残らないのはありがたいことではあるが、証拠としては今ひとつだ。泥酔していたのは間違いないので、どこかですっ転んだと考えるのが妥当な気がする。この家までは坂道になっている箇所があるので、疲れている上に泥酔していたなら転倒することは十分にあり得た。
「……犯人と遭遇していないならしていないでいいけど、さ」
スラックスを履いているときに内腿の際どいところに痕が残っているのに気がついて、私はドキッとした。ふんわりと記憶に残っていたらしく、視界にそのときの情景が被さる。
「弓弦ちゃん?」
「ひゃいっ!」
不意に彼に呼びかけられて、私はスラックスを慌てて腰まで引き上げた。まだ上半身は下着姿なので狼狽えてしまう。
彼はゆっくり私に近づいてきた。
「身体、痛むのかい?」
「あ、いえ。大丈夫です」
私は首を横に振って、シャツを探す。ベッドの上に置いていたはずなのにすぐに手に取れない。
「じゃあ、どうして脱いでいたの?」
「痕がどうなってたか気になってしまって。服を着替えたとき、まだ寝ぼけていたからちゃんと見なかったなあって」
なんで服が見当たらないんだろう。焦っているうちにすぐそばまで彼は迫っている。
「背中のほう、見てあげようか?」
「ああ、いえ。お気になさらず! もう確認できましたから」
「遠慮しなくていいよ?」
「そういう話じゃないですし、自分で確認できたので問題ないんです」
「そっかあ。残念」
ようやくシャツを掴んで、私はさっと身につけた。これはよくない。
「な、何か用事ですか?」
「本を借りようと思ったんだけど、君が脱いでいたからどうしたんだろうって」
「ああ、本、ですね」
私の入浴中に読んでいたあの本のことだろう。私が棚に手を伸ばすと、彼は私を背後からふんわりと抱きしめた。
「……神様さん、そうされると動けないんですが」
「君の裸を見たら欲情しちゃった」
耳元で囁かないでほしい。切実そうな声で言われるとゾクゾクする。
これはいけない。
振り解けないのは私も一瞬あの夜を思い出していたからだ。期待してしまった。
落ち着け、私。
「……そうなるように契約してしまったから仕方がないということにしておきますけど、それ以上はダメですよ」
「もう少し、君の深いところに触れたいよ」
彼の指先が腹部のほうに滑ってくるので、私は彼の手を捕まえた。
「ダメです」
「どうしたら、いいよって言ってくれるのかな?」
「しばらくは言わないと思いますよ」
ドキドキする。彼から香る梅の花のような香りが、その距離を意識させる。
悟らせたらいけない。心を読めるらしい彼にすべてを隠すのは無理だろうけれど、ちゃんと線は引いておかないと。
「ふふ。そういう気分になったら誘ってよ?」
「考えておきます」
「接吻したいな」
ここでキスをねだられると思わなかった。譲歩のつもりで交渉しているのか、押しきるために提案してきたのかわからない。
ただ、瞬時に突っぱねることは、今の私にはできなかった。
「……唇以外なら」
「好きだよ、弓弦ちゃん」
耳元で囁いて、彼は私に首筋に唇を寄せる。ペロリと舌で肌をなぞり、唇をつけた。
「んん……」
くすぐったさに、思わず声が漏れる。触れるだけで終わらない。
「……僕に堕とされてよ」
「お断りですよ」
私の肌に触れようとしてくる大きな手を払いのける。
「僕が人間だったら、迷わず選んでくれたかい?」
「どうでしょうかね」
「前の彼氏さんは、許していたんでしょう?」
「今は許しませんよ」
「ふふ。そうだね」
寂しそうな声色。顔が見えないからどういう心情で彼が告げたのかよくわからない。
彼の体温が離れていく。
「少し発散できた。――僕に堕とされる気がないなら、油断しないようにね」
そう囁いて、彼は本を取って部屋を出て行った。
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