3:私の日常らしきこと/君が望むならなんでも

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 怖い夢を見た。暗い夜道を歩いていたら、背後から何者かに襲われる夢。その感触のあまりの生々しさに、私は悲鳴を上げる。


「弓弦ちゃん」


 はっと目が覚めた。ひどい汗だ。

 心配そうに私の顔を覗く影。彼を見て、私は心の底から安堵した。


「……神様さん」

「うなされていたから、声をかけちゃった。お水、用意しようか?」


 返事をする前に離れようとした彼を引っ張って引き寄せる。そのままぎゅうっと背後から抱きしめた。


「どうしたの?」

「行かないでください」

「うん、わかった」


 彼は私の手に自身の手を重ねて優しく撫でてくれる。あたたかい。


「振り回してごめんなさい。今だけでいいの」

「……昨夜の君も、僕にそう言ったんだよ」


 腰に回していた私の手を解くと、私をあっさりとベッドに押し倒した。困惑する私を見下ろして、何かを探るようにじっと目を覗いている。


「ふふ。その様子だと、思い出したわけじゃないんだね。どうして忘れてしまったんだろうねえ。でも、無理に思い出さなくてもいいんじゃないかな」


 優しく微笑んで、落ち着くようにと頭を撫でてくれる。親しくもない人にそんなことをされたら気持ちが悪くて仕方がないのだけど、彼なら許せてしまう。この優しさに縋ってしまいたくなるのは、彼の特性によるものなのだろうか。


「昨夜、なにがあったのか知っている範囲で教えてほしいのですが」

「どういうふうに君が乱れたのかなら説明できるよ」


 彼の手が私の顎をそっと持ち上げて、目がスッと細められた。誘う表情はドキッとする。


「実践込みで」

「そういうのはいらないんですが」


 私が即答して睨むと、彼はぱちぱちと目を瞬かせた。


「ありゃ、残念」

「冗談で誤魔化さないで、知らないなら知らないと言ってほしいです」

「冷静さを取り戻してきたようで安心したよ」


 顔が近づいてくる。キスされそうな距離まで来て慌てて私が顔を横に向けると、彼は私の首にチュッと口づけをした。耳元で囁く。


「たぶん、僕が知っていることは君が求めていることとは違うだろうからね。答えないでおくよ」

「……実践抜きで、私がどうしていたのかについては説明する気があるんですか?」

「それは……ちょっと無理かなあ。思い出したら興奮してしまうと思うんだよね。理性で止められそうにないや」


 明るく笑いながら返してきたが、一瞬ゾクっとするような色香が漂ってきたのでこの言葉は事実なのだろう。彼の中で葛藤があったのだと思う。

 やぶ蛇にならないように気をつけよう。


「あーまあ、なんというか、だいぶ激しかったんじゃないかとは思っているので、答え合わせはやめておきます……」

「実践込みで答え合わせをしたくなったら遠慮なく言ってね。僕、頑張るよ」


 私が襲われたのではなく私が襲った可能性が出てきたし、この身体に残っている疲労感と筋肉痛が物語っていることを直視したほうがいいような気はする。ムラムラしていたことだけははっきりと覚えているのだ。


「ふふふ。君は僕に感謝していいと思うよ」

「どういう意味です?」

「僕は君に後悔なんかさせないからさ」


 想像よりも真面目な声色に、私は首を傾げる。

 彼には私に言わないほうがいいと思っていることがあるのだろう。昨夜なにがあったのか、少なくとも私よりは知っている。

 どうして思い出せないかなあ。


「そろそろ起きる? さっき君が食事の注文に使っていた端末、ブルブル震えていたから見たほうがいいんじゃないかな」

「ん?」


 私の上から退いて、彼は穏やかに告げる。戯れ合う時間は終わりにするようだ。

 って、スマホ!

 彼の言う震える端末はどう考えてもスマホである。彼の表現から予想するに、なにか連絡が来ている。急ぎだったり重要だったりしないといいけど。

 私はむくりと起き上がるとスマホを探す。記憶にないが充電器に繋いであった。

 画面を表示。充電は終わっている。通知が何件か入っていた。最後の連絡は三十分前らしい。


「ありがと、仕事の連絡が来てるわ」


 内容を確認して、クローゼットから貸与されているノートパソコンを引っ張り出す。バッテリー切れで作業が中断されると困るので電源コードも一緒に取り出してダイニングに向かった。簡単な作業で終わるとも限らないので、長期戦に備えてテーブルで作業だ。


「画面は覗かないでくださいね」

「うん。でも、そばにいてもいいかい?」

「話しかけないでいてくれるなら」


 ダイニングテーブルにノートパソコンをセッティングしてカタカタとキーボードを叩く。私の正面に彼は座った。

 静かに見守ってくれている。視線はちょっと気になるものの、集中してしまえばどうということはない。私はふぅと息をつきながら作業を進めていく。

 昨夜に納品したリリース物のファイルに不備があったというので、その確認作業である。バージョンが古いらしいということはすぐにわかったが、最新版がどこにあるのかわからない。探すよりも修正したほうが早そうだということで、上長に確認をした上で私が手直しをしていくことになった。

 キーボードを叩く音が部屋に響く。時折、外を救急車両が通る音がした。


「――よし、終わった!」


 カーテンの外が薄暗い。日暮れの時間となったらしかった。

 作業時間は一時間に満たないくらいだろう。上長に確認をお願いして、私は大きく伸びをした。


「すごい集中力だねえ。お疲れ様」


 声をかけられてびっくりした。作業を始める前と同じ場所に彼が座っていた。ニコッと笑ってくれる。


「ずっとそこにいたんですか?」

「うん。ずっと君を見てた」


 なぜか楽しそうだ。


「退屈だったんじゃないですか?」

「待つのは得意だからね。君が眠っている間も、ずっと隣で君を見守っていたよ」

「おおう……それはそれで恥ずかしいですが」


 神様だというだけあって、時間の感じ方が人間とは違うのかもしれない。それはそれとして、監視されていたのかと思うと恥ずかしいのだけども。


「ところで君のお仕事は書くお仕事なのかい?」


 私は首を横に振った。


「プログラマーなんです。小規模な企業で使うツールを作っているんですよ」


 その説明ではピンと来なかったのだろう。彼は首を傾げた後で、その長い指先をパソコンと、その隣に置いてあるスマホを指し示した。


「君が使っているその箱や端末で使うようなものかな?」

「そうですね。企業向けなので、一般の人はあまり見ないと思いますが」

「ふぅん」


 仕事の内容に興味があっただけのようだ。具体的な仕事の話を外部の人間にするものでもないので、私はここで話を切り上げることにする。

 ちょうどスマホに『お疲れ様』のメッセージが表示されたので、片付けをして問題ないだろう。私はノートパソコンを畳んで電源コードをまとめ、撤収を始めた。


「もうちょっとしたらアニキが夕食を持ってくると思いますが、それまでなにをしますか?」

「うーん、そうだなあ」


 この家にはテレビはない。話題の番組はスマホで視聴するので必要がないのだ。なお、私が一人で時間をつぶすときはスマホで遊ぶ。

 少し悩むそぶりをした後に、彼は私を見てニコッと笑った。


「まあ、僕のことは気にせず、いつも通りに過ごしてくれて構わないよ」

「じゃあ、今月のクエストが片付いてないんで、隣で見てます?」


 真正面から監視されるのも居心地が悪いので提案すると、おそらく私の告げた単語がなにを指すのかピンとこなかったのだろう、何が始まるのだろうと不思議そうな表情を浮かべてコクリと彼は頷くのだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 アプリを起動した瞬間、ホワイトデーをもらい損ねていたことを思い出したが、まあいいかと大きく息を吐き出した。

 いいや、ゲームで雰囲気を味わえればよしとしよう。

 ベッドに座ってお気に入りのスマホゲームを始める。俳優を育成するゲームだ。しばらくログインすらしていなかったから、私の推しのキャラクターが「しばらく顔を見ていなかったから心配したよ」などと言ってくる。いやはや、申し訳ない。


「あ!」


 私の横にピッタリくっついて画面を覗き込んでいた彼が小さな声を上げる。


「どうかしました?」

「この子だよね、抱かれたかった相手」


 返事をしにくい質問だな。私は苦笑して曖昧に頷いておく。

 私が妄想に励んでいたときに彼を拾ったわけで、思考を読まれていてもおかしくはない。正直なところ他人の思考を読むなよと言いたいし、こういう妄想に励んでいたときに遭遇してしまい申し訳なかったなとも思う。複雑。


「外見、似せたつもりだったんだけど、並ぶとやっぱり違うかあ」


 残念そうに彼が言うので、私は画面と彼を並べてみる。雰囲気はかなり近いんじゃなかろうか。でも、このキャラクターのコスプレイヤーさんと彼を比べたら、彼のほうが生々しい気がする。良くも悪くも。


「そうですね。甘崎(かんざき)くんと傾向は一緒だと思いますけど、神様さんのほうがもう少し男感が強いですね」

「男……感……?」


 なんだそれはと言いたげな表情で目をパチパチさせている。ごめんなさいね、うまい言葉が捻り出せなくて。

 私は説明を続ける。


「甘崎くんって可愛いとか愛らしい感じの弟系キャラなんですけど、神様さんは顔立ちが美人系なんですよ。大人な感じ、でしょうか。あと、身体つきが男性らしくて厚みがあるような気がします。甘崎くんは華奢なんですよね」


 熱の入った言い方になってしまって気持ちが悪かったかもしれない。私が反省していると、彼は口の端をにぃっと上げた。


「ふぅん……なんか表現が助平だねえ」

「うるさいです」


 放っといてもらおうか。

 私はゲームに戻る。先々週から始まったホワイトデーの季節イベントをこなしていなかったので、とにかくこれは終わらせておかないといけない。新規ボイスを聴き逃してしまうのは避けたいところだ。

 よし、稼いだ残業代を突っ込んで、サクッと終わらせてしまおう。


「……隣に僕がいるのに、こういうもので遊ぶんだねえ?」

「男女交際を楽しむゲームではないので、そういう言い方はしてほしくないですね」

「僕からしたら似たようなものだよ。君がそういうことを求めているってわかるから」


 私は手を止めた。彼を見る。彼は退屈そうな顔をしていた。


「求めていても叶うことがないから安心してゲームできるし、妄想できるんですよ。癒されるんです」

「……うーん。よくわからないや。邪魔して悪かったよ。もう黙って見ているから、頑張って」


 彼は私が怒っていると思ったらしかった。少ししょんぼりとした様子で、私に手を振る。


「クリアの方法はわかったので、お待ちくださいね」


 必要なアイテムを集めるミニゲームで課金してさっさと先に進む。条件をひとつひとつクリアしていけば、あっさりと目的を達成することができた。


「よっし。終わった!」


 うっかり削除しないようにロックをかけて、ゲームを終わりにする。スマホを置くと彼と向き合った。


「応援ありがとうございました。サクッと終わらせましたよ」


 私が声をかけると、彼は困惑するような顔をした。


「一人で楽しく遊んでいたんじゃないのかい?」

「ゲームの要素自体はあまり興味がなかったので、お金で解決することにしました。欲しかったものは手に入ったので問題ないです」

「それはげぇむってものの本質から外れる楽しみ方じゃないかと思うんだけど。良かったの?」

「ゲームのどこで楽しむかは人それぞれですし、どの部分で楽しんでいようともある程度はお金で解決できるようになっているものです。私の場合、甘崎くんの台詞に興味があって集めているわけで、ミニゲームのクリア条件がお金でラクになるのであれば、お金で解決する方法を取って時間を節約しています。社会人は忙しいですからね」

「説明されても、僕にはわからない感覚だよ」


 彼は肩をすくめてそう答えた。

 時間の感覚の違いなのかなあ。

 少しがっかりしたものの、説明が徒労に終わったとは思えなかった。理解しようと歩み寄ってみた上で、わからないことをわからないと言える間柄ならいい関係のような気がした。何でもかんでも相手に合わせる必要はないのだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 そんなやり取りをしたところで、インターフォンが鳴った。画面を見れば兄がいる。ちょうどいいタイミングだ。

 解錠して上がってきてもらうと、もう一度インターフォンが鳴った。


「無事か?」

「開口一番にそれもどうかと思うんだけど」


 ドアを開けて、玄関に兄を通すとドアを閉めた。なにやら荷物が多い。


「得体の知れないヤツと一緒にいるんだ、心配ぐらいするだろ」


 そう告げると、様子をうかがっていた神様さんを兄は一瞥する。まあ、アニキの心配はごもっともではあるけど。

 幼い頃、私の体質によって兄にはたくさん心配をかけさせてしまったし、迷惑を被ったこともたくさんあったはずだ。今は無害そうな様子でも、豹変することは十分にあり得るのだから警戒するのは自然のことだ。


「ふふふ。愛されているんだねえ」

「神様さんは茶化さないでください」


 仲良くはなれそうにない。互いに問題を起こさなければよしとしよう。


「ところで、荷物がたくさんあるのね?」


 兄が提げているのは複数のエコバッグである。これとは別に、背中には宅配用のリュックサックを背負っているので、荷物だらけである。


「ああ、まあいろいろあってな」

「ほかに配達でもあるの?」


 それなりの人気店なので、配達先がたくさんあっても驚かないのだが、兄は首を横に振った。


「どうせお前の冷蔵庫は空っぽなんだろ? 食糧をつっこんでおいたほうがいいと思って差し入れだ」

「っても、この量、籠城するレベルだよね? 冷蔵庫に入るとは思うけど」


 受け取ったエコバッグの中身は冷凍食品だったり袋詰めのサラダだったりする。もう一袋にはカップ麺やパックごはんにレトルトパック、お菓子といった常温保存可能なもの。さらにもう一袋には大きいペットボトル飲料が三本入っている。二人分の食糧だとしても、二、三日は余裕で保つだろう量だ。

 というか、よく持って運べるな。力持ちと思える体型ではあるけど。


「しばらく外には出ないほうがいいと思ってな」

「ん? お守り、手配できなかったの?」

「そっちはまあ、そういうことではあるんだが」


 外が騒がしくなる。パトカーのサイレンの音だろう、大きな音を立てて近くの道を通り過ぎた。


「この辺も物騒だからな、弓弦は出ないほうがいい」

「昼間は問題ないんじゃない?」

「いや、必要がないなら家にいろ」


 そんなに治安が悪かっただろうか。私は首を傾げる。


「退屈だけど」

「動画でも漁ってろよ。必要ならプロジェクターを貸す」

「よし、それで手を打つわ」

「じゃあ明日の夜に運ぶよ」


 私は会話をしながら受け取った荷物を冷蔵庫に詰め込んだ。しばらく料理をしなくてもいいぐらい食べるものはある。


「父さんと連絡がつかない感じ?」

「今離島にいるから、早くて帰宅が明後日だってさ」

「離島……って、なんでそんなところに」


 父はときどき妙な場所に出かけて行くが、よりにもよって今回はすぐに戻れそうにない場所とは。ツイていない。


「呼ばれたから、行くしかなかったらしい」

「どこの離島よ」

「詳しくは言えないって」


 私は頭を抱えた。


「じゃあ、それまではこの状態のままですか……」

「そうなるな。で、弓弦はいつまで休めるんだ?」


 お守りがないから外出できない。仕事も例外ではなかった。


「あと四日間かな。代休が溜まっちゃってるから、自宅待機なの。作業の必要があればリモートでサービス残業ね」

「お前の仕事は大変だな……」

「アニキだって忙しいじゃん」

「忙しさの種類が違うからな」


 私が差し入れをしまい終えるのを待つと、兄は今日の夕食をリュックサックから取り出した。


「で、今日の夕食は特製ドリアだ。温かいうちに召し上がれ。で、こっちがポテトサラダで、デザートのベイクドチーズケーキ。紅茶のパックをつけておくから、自分で適当に飲んでくれ」


 メニュー表にないものだ。私はテンションが上がった。


「おおー、豪華! お金はいくら?」

「特別料金、だな」


 兄の言う特別料金というのは、実質タダである。だがそう甘えるわけにはいかない。


「落ち着いたらちゃんと払うから、差し入れのレシートも回しておいてね。なんなら人件費も入れておいてよ」

「なんだなんだ。お金持ちムーブ」

「残業代がたんまり入るからね。お金出せるときはちゃんと出すわよ。大人なんだし」

「んじゃ、そうするわ」


 そう答えて、兄は部屋の奥で腕を組んで見守っている神様さんをじっと見やった。


「何か話でもあるのかな?」

「オレは貴方と仲良くする気持ちはないが、必要以上に干渉するつもりもない。オレが見極めるに、貴方は無害な存在だと判断した。その評価を覆すようなことはしてほしくないと願っている」

「うん、賢明だねえ、梓くん」


 神様さんはニコニコと上機嫌そうに微笑んだ。ただ、兄の名前を呼ぶときは何か意味をこめているようにも感じられたが。


「じゃあ、弓弦。何かあったら気兼ねなく連絡を寄越せ。何かしら対応するから」


 大袈裟だなあと思いつつも、心配性な兄の言葉である。私は素直に頷いた。

 兄が出て行くと、私の背後に彼が近づいてきた。


「僕をしっかり牽制してから帰るなんて、出来のいい兄だねえ」

「これまでにいろいろありすぎたんですよ」


 食器棚からスプーンとフォークを取り出す。そこでふと彼を見た。


「夕食はどうしますか? 二人分用意してくれたみたいなんですが」

「ありがたくいただいておこうかな。君と同じものを食べるのは楽しいんだ」

「味覚ってあるんですか?」


 食べたいというので、彼の分のスプーンとフォークも取り出してテーブルに置く。紅茶のためにお湯を沸かそうと思ってコンロを見たら既に薬缶がセットされていた。彼がやってくれたらしい。


「人間と同じかどうかはわからないけど、美味しいか口に合わないかはわかるかな。ちなみに、味に関係なくお酒は好きだよ」


 上機嫌な様子で彼は笑った。お酒が好きなのは本当なのだろうと思う。


「神様さんはそういう感じなんですね」

「あと、弓弦ちゃんも美味しいと思ってる」

「私は食べ物じゃないです。それに昨夜の私を美味しいと感じていたのであれば、それは私が泥酔していたからでしょうね……」


 自分用と来客用のマグカップを二つ取り出した。お湯を注げば抽出できるように準備する。


「確かに、昨夜の君からはお酒のにおいがしたねえ。ずいぶんとたくさん飲んでいた」

「飲みたい気分だったんです」


 ケイスケの部屋から出てきた女の顔を思い出して、すぐに頭を振って記憶を消去した。もう二度と顔を合わせるのものか。


「今夜は飲まないのかい?」


 食べる準備をしながら、彼が尋ねてくる。私の不安定な感情を察したのかもしれない。


「飲みません。そもそも家で呑み潰れちゃうといけないから、アルコール類は置いていないですしね」


 その返事に、彼はふむと唸った。


「差し入れの中にもお酒はなかったみたいだね」

「アニキは私が家で一人飲みをしないことを知っているから持ち込まないんですよ」

「今日は僕がいるのに」

「いるから、余計にじゃないですかね」

「ああ、なるほど」


 お湯が沸いてマグカップに注ぐ。薬缶をコンロに戻すと、私たちはブランチのときと同じ場所にそれぞれ座った。手を合わせていただきますをする。


「――では早速」


 ドリアをスプーンですくって口に運ぶ。温かい湯気が食欲をそそる。


「美味しい!」


 底に入っているのはバターライスだろうか。ホワイトソースと混ざるとなお美味しい。少し冷めてはいるものの、食べやすい温度とも言えた。私は猫舌だ。


「ふぅん。興味深いな」


 彼もよく味わって食べているようだ。大きなひと口が豪快ではあるけども、それがまたすごく美味しそうに見えた。


「レギュラーメニューにならないかなあ。あとでアニキに感想を送っておかなきゃ」

「珍しい食べ物なのかい?」


 私がはしゃいだからだろう。彼が不思議そうに首を傾げた。


「注文できる料理の一覧にはなかったので、アニキのいるお店で食べることを考えたら珍しいです。ただし、ファミレスや冷凍食品にもある料理ではあるので、特別珍しい品物ではないですよ」

「そういうものなのか」


 なるほどとばかりにしみじみと頷いている。そんなに美味しかったのだろうか。


「気に入ったなら、アニキに伝えておきますけど」

「君がとっても幸せそうだから興味を持っただけだよ。僕も作れるのかな?」


 作れるのかな、だと?

 私は驚いて、食べる手を止めじっと彼を見た。


「神様さんは料理ができるんです?」

「君が喜ぶことならしてみたいよ」

「そういう基準なんですね」

「僕は尽くす神様なのさ」

「なんですか、それ」


 私は笑う。尽くしてくれているのはこれまでの態度から分かるので、私のためという名目で行動するのは好きなのだろう。

 他愛ない会話をしながらの美味しい食事の時間はあっという間に過ぎ去ったのだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 夕食を片付けて、お風呂に入る。身体が痛むのはいろいろ理由があるのだろうけど憂鬱だ。

 肌の保湿をしてから脱衣所を出ると、彼はダイニングテーブルで読書をしていた。


「おかえり」

「お風呂、入ります? お湯は溜めたままにしてありますが」

「うん。入る」


 答えて、彼は本を閉じてテーブルに置いた。

 この本は私の部屋を掃除する都合で出てきた小説である。あやかしのヒーローと不幸体質の少女の恋愛小説。なんとなく手放せなくて、一人暮らしをするにあたって実家から持ってきた小説の一つである。


「でもさ、やっぱり一緒に入ったほうが効率がいいって、僕は思うんだよねえ」

「シャワー浴びているんですから、浴室の狭さをわかっているでしょう? 大人ふたりは入れないです」

「密着していてもいいんじゃないかな」


 なおも食いついてくるので、私は冷たい視線を向ける。


「真面目な話、すごく洗いにくいです」

「僕が洗ってあげるよ?」

「そういう方向での甘やかしは興味ないので」


 ぴしゃりと返したつもりだが、彼はめげる様子がない。人差し指を立てて提案してきた。


「じゃあ、お風呂の後のマッサージで妥協しよう」

「ぐいぐいきますね……」


 私があきれて返すと、彼は愉快げに笑った。


「触れ合いたい気分なんだよ」

「返事は保留にしておきます。さっさとお風呂を済ませてください」

「はーい」


 そう答えて、彼は脱衣所に消えていった。

 私は本を手に取りペラペラと捲る。

 この作品を面白いとは思っていたが、だからといって憧れることはなかった。素敵なヒーローだけども実際に付き合うことを考えると厄介なことだらけのような気がして、素直に主人公たちを応援できなかったのだ。

 この物語はファンタジーなんだから、現実的なことを考えるのは野暮だとは思うけど……

 私にとっては現実と近い世界だ。こうはなりたくないと思いながら、私はケイスケと付き合っていた。ケイスケは普通の人間だし、時々ケンカはあったけども仲はよかった。そもそも幼馴染だったし、私の体質や家族についても理解があったから、このまま普通の人生を一緒に歩むのだと考えていた。


「……おかしいな」


 視界が歪む。涙が溢れた。

 やっぱり忘れられない。ケイスケのことは好きだった。結婚して、ずっと一緒に過ごしていけるなら彼がいいと思っていた。

 でも、ケイスケと別れてみて気づいてしまった。私の感覚はほかの人のいう恋愛や結婚とは違うのだと。

 私は、私が普通の人であり続けるためにケイスケを利用していたのだ。普通の人の普通の幸せを自分で定義して、そこに身を置くためにケイスケと付き合ってきたのだ。


「そりゃあ、フラれるよなあ……」


 乱暴に涙を拭う。

 しかも、私は知らされていなかった。ケイスケが私の親公認の婚約者であったことを。どうしてそういうことになっていたのかわからないが、そうしておかねばならない事情があったのだろう。

 知らず知らずのうちに迷惑をかけていたんだろうな……

 ケイスケは私を好いてくれていたのだろうか。少しでも、想ってくれていたならそれでいい。私は恋愛ごっこを楽しんでいただけだったのだから。

 私、最低だな。


「弓弦ちゃん」


 声をかけられて慌てて振り向くと、そこには髪をタオルで拭いている彼が立っていた。上半身裸のままで惜しみなく美しいプロポーションを晒している。私はさっと視線を外した。


「上もちゃんと着てくださいよ!」

「このほうが君の気をひけるかなって思って」

「風邪をひきます」

「僕は人間とは違うから風邪はひかないんじゃないかな」


 肩をすくめておどけて見せてくる。そして手をポンっと叩いてパジャマの上を着用した。ほんと、便利だな。


「ふふ。僕を異性だと意識してくれていいんだよ。欲のはけ口にして構わないし」

「いやいや、それはちょっと」


 私をなんだと思っているのだ。


「僕と触れ合って、忘れたいことをすべて上書きしちゃえばいいのに。泣きたくなるくらい嫌なことなら、僕が消してあげるよ?」

「人体の機能としてストレス軽減のために涙が出ているだけなので、泣くことについてはお気になさらず。それに、同じことを繰り返さないために戒めとしたいので、記憶もそのままで。私はちゃんと折り合いをつけますよ」

「そう?」


 顔が近づいてきた。これは性的なアピールではなく、私の心を探るためのものだ。

 私はプイッと横を向いた。


「……弓弦ちゃんは強くありたいんだねえ」

「弱くありたいと思わないだけです」

「気を張っているのも大変でしょう?」


 そう告げて、彼は私をぎゅっと抱きしめた。お風呂上がりということもあってとても温かい。心が惹かれてしまいそうで、私は焦った。


「ちょ……気安く触らないでください!」


 腕を引き剥がそうとしたがうまくいかない。よりぎゅうっと強く抱き締められた。絶妙な力加減で、苦しくならないのがちょっと悔しい。


「このまま一緒に寝ようよ。嫌なことはしないよ」

「嫌なことをしたらアニキを呼びます!」

「あはは。そうすればいいよ」

「余裕ですね……」


 私は負けを認めて暴れるのをやめた。逃げないとわかったからか、彼は頭を撫でてくる。

 私はされるがままだ。心地よいから腹が立つ。すっかり絆されているのに、そんな自分を認めたくない。


「君が眠るまで抱き締めておくよ。眠ったら、僕は床に布団を出して寝ることにするから、寂しくなったら転がっておいで」


 なんで昨夜はそうしなかったのかと考えて、単純に床がなかったからだと察した。となると、彼が掃除を率先して行ったのは自分の居場所の確保のためだったのかもしれない。

 意外とちゃんと距離を保つつもりはあるんじゃん?

 私が彼の顔を見上げると、妖しい笑みを向けてきた。お風呂上がりで上気しているせいか、色気が増して感じられる。


「うん? 僕の布団に興味があるのかな?」

「ええ、まあ」


 一緒に寝ることをごり押ししてくるのかと身構えたのに、そういうときに限ってズレた言葉が返ってくる。天然でやっているのか、私の思考を読んだ上でわざとやっているのか、どっちだろう。

 私が頷くと、彼は私を解放して指をパチンと鳴らした。私のベッドの横のスペースにふかふかの布団と掛け布団が登場する。


「衣装だけじゃないんですね、喚び出せるのって」

「なんでも出せるわけじゃないさ。僕が持っている物だけ、出したり引っ込めたりできるんだよ」

「じゃあ、衣装は自前なんですね」

「そんなところ」


 そう答えて、彼はすっと自分が用意した布団に潜りこんだ。掛け布団の端を持ち上げて手招きする。


「暖かいからおいでよ」


 断って蹴飛ばしてもよかったのだけど、ふかふかのお布団の魅力には抗えない。私は葛藤したものの、結果的に布団の中にお邪魔した。見た目以上にふかふかである。


「ふふふ。よく眠れそうでしょう?」

「すごくあったかいです」


 全身を包み込む感触はベッドで眠るよりも幸福度が高い。私は小さくあくびをした。まぶたがおりてくる。


「……おやすみ、弓弦ちゃん」


 自分のベッドで寝ないと、と自分に言い聞かせているうちに私は意識を手放した。

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