2:君はむなしいと思っていたの?

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 家の鍵をかけて振り向くと、彼は紙袋の中身をダイニングテーブルに並べていた。


「作戦会議は終わったのかい?」


 彼はこちらを見ずに尋ねた。私は彼の隣に並ぶ。


「状況報告だけですよ。アニキは一般人ですから」

「その口ぶりだと、君のまわりには一般人じゃない人間もいるってことかな」


 シリアスな口調で告げた彼は、私を探るように見据えた。

 私は肩をすくめる。


「そうですね。あなたに張り合えるかはわかりませんが」

「僕は争いごとはしたくないなあ」


 にこっと笑うが、口元は笑っているように感じない。威圧。ゾクっとする。


「私から手を引けば済む話ですよ」

「君が僕に堕ちてくれれば問題ないんじゃない?」


 誘惑するような視線。私は彼から咄嗟に目を逸らした。


「やっぱり神様じゃなくて悪魔の類じゃないですか」

「君がそう思うなら、それでいいよ。この地域でいう神様って、畏怖される存在の総称みたいなところがあるし」

「畏れられていたんですか?」

「その辺のこともうっすらとしちゃっているからなんとも言えないかな」


 はぐらかされたような気持ちになったが、あまり触れてもいい内容でもない気がして口をつぐむ。彼の正体を探るのは食事を済ませてからにしよう。


「ところで、ざっと見たところ二人前あるような気がするんだけど、二食分ってことかい?」

「一人で食べられないこともないですけど、私だけ食事をするのは気が引けたので形だけでも、と。無理して食べなくていいですよ。オヤツにしますから」


 そう答えると、彼はなるほどと頷いて椅子の前に並べていたバケットサンドとコーヒーフロートの一人前を椅子の反対側に置いた。


「もう一脚、椅子はあるので出しますね」

「自分で出すよ。さっき見かけたから」


 掃除の際に見つけていたのだろう。彼は私が説明せずともパントリーから折り畳み椅子を取り出し自分で組み立てた。服を出すみたいに椅子も出すんじゃないかと期待した自分が恥ずかしい。


「じっと見つめてるけどどうかしたかい? なにか間違ってた?」


 ふふ、と妖しく笑うので私は慌てて首を横に振って着席した。ついつい見すぎてしまったと反省する。


「ああ、いえ。すごく自然に椅子を出されたので」

「前の男は君が用意しないと椅子も出せない男だったのかな」

「出せなくはないですけど、私がもてなすことが多かったので」


 彼は不思議そうな顔をして私の正面に着席した。

 元カレことケイスケもこの部屋を訪ねてくることがしばしばあったので、二人で食べられるように家具を配置している。だが、当然のように彼に正面に座られると、なんとなく気まずい。そこしか座れないから位置は正しいのだけど。


「ふぅん。僕は神様を名乗っているけど、自分のことは自分でしたい神様なんだよ」

「別に、神様が誰かの手を借りることを常によしとしているとは思っていないです。神様かどうかというより、あなたみたいなイケメンがそういう庶民じみたことをしていることに違和感を覚えるといいますか……」


 私がモニョモニョと返すと、彼はあはっと屈託なく笑った。


「なんだ。見た目の話かあ。君の言ういけめんだって、自分のことは自分ですると思うよ。人間なんだからさ」

「それはまあ、そうでしょうけど。イメージの話です、イメージの」


 そう答えて、私はごまかすように手を合わせていただきますをした。彼も真似をするように手を合わせていただきますを言う。なんか面白い。


「僕も食べていいのかい?」

「苦手なものとか禁忌がないならどうぞ。ちなみに、肉に見えるのは大豆なので殺生はしていないです」

「それって僕に気をつかってる?」

「いえ。流行りなのと、私の好みですね。人気のお店の一番メニューなんですよ、このバケットサンド」


 簡単に説明して、私は大きな口で頬張った。たっぷりの野菜と大豆から作られた擬似肉、パリパリのバケットが口に入ると、それらを引き立てるドレッシングの味が広がる。美味しい。


「ふふふ」

「な、なんですか」

「すごく幸せそうな顔をしてるから」


 柔らかく微笑まれるとちょっと照れくさい。なんだ、この感情。


「お腹が空いていたんです。好物なんですよ」

「そうなんだろうなあって思った。お兄さんのことも大好きなんだね」


 私は食べる手を止めて彼を睨む。

 彼は朗らかな表情をしていて、何かを企んでいるような気配はない。だが、相手は神様だ。油断ならない。


「アニキに手を出さないでくださいよ?」

「しないよ。君を悲しませるのは本望じゃないからね」

「それならいいんですけど」


 単純な感想だったのだろうか。そう考えるのは早計な気はしたが、まずは腹ごしらえだと割り切ることにする。

 彼も見ているのに飽きたのだろう。おもむろにバケットサンドを手に取って、大きな口で頬張った。バケットからバリっといい音がする。


「んー。なるほど、こういうのが君の好みなんだね。食べにくいけど」

「多少パン屑がこぼれますけど、落ちるくらいバリバリなのが美味しいんですよ」

「そっかぁ。ふふ。君のことが少し知れて嬉しいな」


 彼は嬉しそうに笑って、バケットサンドをもう一口食べた。バケットからはみ出した具材をうまい具合に押し込んで落とさずに食べている。器用だ。

 美味しそうに食べるなあ。

 見ていて気持ちがいい。一緒に食べるなら、私が好きなものに興味を持ってくれる人がいいと思う。どうも彼は人間じゃないらしいが。

 私は胸があたたかくなるのを感じながら、バケットサンドを夢中で食べた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 バケットサンドをペロッと食べ終えて、私はコーヒーフロートのバニラアイスをつつく。ここのバニラアイスは甘味は控えめながらとっても濃厚で、コーヒーに溶かして飲んでも美味しいし、もちろんそのまま食べても美味しい。疲れているときは必ず頼む品だ。なお、ふだんコーヒーを飲むならブラック派である。

 付属の木製スプーンでほどほどに溶けたアイスをすくってパクっと一口。ひんやり美味しい。求めていたいつもの味に安堵する。注文して正解だ。


「ねえ、弓弦ちゃん?」

「はい?」


 馴れ馴れしい呼びかけだな、と思いつつも彼を見る。頬杖をついていた彼は私を優しい眼差しで見つめていた。


「僕にあーんってしてほしいなあ」

「アイスを、でしょうか?」


 私が尋ねるとうんうんと頷く。私は彼の顔とその近くにあるコーヒーフロートを見て、首を傾げた。


「ご自分の、ありますよね?」

「してほしいんだよ」


 そう答えて頬杖をつくのをやめると自身の唇を指先でツンツンとさした。


「弓弦ちゃんに、ね?」

「何言ってるんですか。恋人じゃあるまいし」


 私は真面目に答えて、自分のバニラアイスを口に運ぶ。するとあからさまに悲しそうな顔をされた。

 君は表情豊かだな。そんな顔をされても私はやらないよ。

 無視して、私は残ったバニラアイスをコーヒーに溶かした。


「アイスを食べるなら、急いだほうがいいですよ」

「むむ……致し方ない」


 納得しかねるといった様子で彼はアイスを食べ始めた。

 木製スプーンでアイスを口に入れてすぐに、彼は目をぱちぱちとして私を見る。そしてふふっと笑った。口に合ったようでなによりである。

 私と同じように数口をアイスとして味わったのち、コーヒーに溶かして飲み始める。それも美味しかったらしく、機嫌よさそうにしていた。

 さっきのお願いはなんだったんだ……?

 神様さんがなにを期待しているのか、私にはいまひとつわからない。傷心の私を慰めるためだとしたら申し訳ないが、私は恋人たちがするような甘える行為には興味がないのだ。


「――昨夜も思ったけどさ」


 食べ終わったので片付けをしていると、不意に彼が言う。私は作業の手を止めずに返事をした。


「なんでしょう?」

「君は誰かに甘えたり頼ったりするのが下手だよね」

「そうですか? 自分のピンチにアニキを呼びましたよ、私」

「それはそうするように言われているから、でしょ? 自分の手に負えない超常現象に遭遇したら、身内を頼るように躾けられているから、条件反射でそうしているだけさ」


 指摘されて、私はうーんと唸る。よくわからない。

 ダイニングテーブルを拭き終えて、シンクで台拭きを洗う。いつものように定位置に広げて干すと、ちょうど自動洗濯乾燥機が終わりのアラームを鳴らした。


「僕がやろうか?」


 自動洗濯乾燥機のある脱衣所の方をちらりと見やって、彼が問う。中にはシーツや枕カバーも入っている。それらを頼むのは悪くないが気が引けた。


「いえ、私がやりますよ。あなたは座っていてください」

「でも、疲れているんでしょ? ちゃんと休んだほうがいいと思うんだけどな」


 食後で満腹になったとはいえ、身体が過労状態であることは間違いない。連勤による疲労に、昨夜の疲労もしっかり蓄積されている。

 私が身体を動かしながらも返答に悩んでいたからだろう。彼はさっと立ち上がって先回りをしてきた。私のほうを向いて、安心させるように笑う。


「頼ってくれていいんだよ」

「借りを作りたくないんですよ」


 げんなりしながら正直に告げて避けようとすれば、彼は私を抱き締めて行く手を阻んだ。


「ちょっ。片付けたら休むつもりですから。ね?」


 私はもがくがびくともしない。そんなに強く拘束されているわけではないにもかかわらず、だ。

 これ、相手が男性の姿だからとか、神様だからとかじゃないな……

 疲れが溜まりすぎて力が出ないのだと実力行使をされて理解した。私は抵抗を止める。すると優しく頭を撫でられた。くすぐったい。


「ふふ。いいこいいこ。僕に甘やかされていればいいんだよ」

「これ以上生活力がなくなったら、婚期を逃しそうなんですけど」

「いいんじゃない? 僕がいるんだから」


 なるほど、そうくるのか。

 私は言葉を選び直す。


「んー。婚期を逃すっていうのは方便でしてね、結婚なんて実際は興味ないですよ。誰かと一緒に残りの人生を送れたらいいってくらいのニュアンスなので。でもですね、あなたとはないです」

「どうして?」

「どうしてって、当然じゃないですか?」


 どんな表情でいるのだろうと見上げると、彼は心底不思議といった顔で私を見ていた。長い睫毛を上下させて目をぱちぱちっとさせた後に口を開く。


「なにが当然なのかな。僕が人間じゃないから? 見た目も中身も、君の好みから大きく外れてはいないと思うんだけどな。あと、身体の相性もいいよ?」

「私には都合がいいということは認めましょう」

「うん。素直な子は大好きだよ」


 私を抱き締める力が増した。私はそうじゃないとばかりに彼の腰をとんとんと叩く。


「あなたはそれでいいんですか?」

「うん?」

「私に合わせてくれることはありがたいですし、嬉しいです。めっちゃ助かっています。でも、あなたはそれでいいんですか? むなしくないですか?」

「君はむなしいと思っていたの?」


 最初のやり取りのときの明るい口調ではなく、低く刺さる声色による言葉に私は頭を殴られたような感覚に陥った。

 私は……むなしかったの?

 自問自答。俯いた私は頭を横に振った。


「違う。違います」

「じゃあ、今は僕を頼って。甘やかされておきなよ。君が僕を呼び覚ましてくれたんだ。そのお礼くらいはさせて」


 もう一度見上げた私の額にチュッと口づけをして、私を解放した。私は自分の額に手を当てる。熱い。


「寝具は僕に任せて。弓弦ちゃんは衣類を片付けること。その辺に置きっぱなしにしたら駄目だよ」


 自動洗濯乾燥機の扉を開けて彼は指示してくる。部屋に散乱していた衣類の惨状を知られているだけあって、駄目だよ、の言葉がキツい。


「わかってますよぉ」


 小さく膨れて、私は彼に従ったのだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 溜まっていた洗濯物を畳んでクローゼットの中の引き出しにしまう。これで片付けと掃除はおおむね終わったはずだ。


「終わったかい?」

「はいお陰様で」


 私が声を聞いて振り向くと、ひょいっといきなり横抱きにされた。戸惑ったものの、暴れてしまうと周りに被害が出るのでおとなしくする。


「あの?」

「休む約束だったでしょう? 寝具の準備はばっちりだよ」


 彼は上機嫌にそう答えて、クローゼットから数歩の位置にあるベッドの上に私を横たえた。そしてなにも迷わず、彼は私の上に被さるように乗る。


「休むんですよね?」

「少し君に触れたいな」


 甘えるように彼は笑う。

 私は抵抗の意志を示すために彼の胸を押した。退いてくれ。


「休みたいんですよ、私」

「疲れるようなことは控えるよ」


 そう告げる彼の表情は完全に雄の顔で。

 逃れる時間など与えられず、流れるように口づけを受けた。


「んん……」


 触れるだけでは終わらない口づけにクラクラする。力が抜けていることを察したのか、彼は躊躇なく服の中に手を差し込んできた。


「ま、待って」

「撫でるだけさ」


 宣言のとおりに撫でるだけ。だけどもおへその辺りをさわさわと撫でられるとくすぐったくて変な声が出てしまう。恥ずかしい。


「汗ばんできたね」

「変な触りかたしないで」


 性的な意図を感じる触りかたをされると反応してしまう。私の記憶になくても、身体は覚えているのだ。


「じゃあ、もっと気分が盛り上がる様に触ろうか?」

「私は休みたいんですってば」


 身をよじるが手はすぐに追いかけてくる。そもそも一人用のベッドは狭くて逃げるにも限界があった。


「僕に任せればいいと思うよ?」


 狩りを楽しむような表情には、掃除をしたり食事をしたりしていたときの穏やかさはない。だが、不思議と怖いとは思えなくて、心が騒ぐのだから困る。

 なにか、説得する言葉を選ばないといけない。


「なんでこんなことをするんですか? 私が望んだっていうんですか?」


 早口気味に私は質問をぶつける。頷くのだろうと予想しての問いだったのだけれど、彼は首を横に振って妖しく笑った。


「僕がそうしたいから、だよ。弓弦ちゃんに触れていると、ここにいるって感じられるから」


 どことなく引っかかる言い回しだ。こういう行為が好きだから迫ってくるわけではなさそうで、理由を探りたくなった。


「私が寝ちゃったら、消えてしまう、とか、あります?」


 恐る恐る尋ねると、彼は安心させるように微笑んだ。


「それはないと思うよ。まだ契約履行中だし」

「そう、ですか」

「ふぅん? 想像したら寂しくなっちゃったかな?」


 私の変化に目敏く気づいたのだろう。彼の態度が軟化した。私はからかってくる彼に対して頬を膨らませる。


「一晩私と寝たくらいでそういう言い方しないで欲しいんですが」


 文句をつけると、彼は首を傾げた。


「君は誰とでも寝るような人ではないよね?」

「これまではそうでしたけど、これからはわかりませんよ? 今はフリーなんですから」


 強気の姿勢できっぱり返す。私が睨んでやればそれが面白かったらしい。彼は喉の奥でくつくつと笑うと、色気全開の顔を作ってきた。

 目が合う。そらすことが許されない。心臓が高鳴った。


「これから先は僕だけにしておきなよ」


 そう囁くように告げて唇を啄むような口づけをくれた。続けて確認するように色っぽい笑顔を至近距離で見せつけてくる。


「わ……私を堕としてもいいことはないんじゃないですかね」


 鼓動が早い。ドキドキが止まらない。

 彼の指先が私の唇を掠めるように触れる。


「僕にとって君はとても重要な存在だよ。それは君の力に拠るところではあるのだけれど、僕は君自身を尊重したいな。君を大事にしている人間たちと争いたくはないんだ」

「それで手始めに身体から落とすおつもりで?」


 身体が熱い。彼を求めているのが隠せない。


「人間たちがするように好かれるところから始めるつもりだったんだけど、君が僕に望んでしまったからさ」


 彼は困ったように笑った。彼にとってこの事態が想定外だったのだろうことが伝わってくる。

 そんな彼を見て、あることに思い至った。


「あ……それで行動を縛られてしまっていますか?」

「多少は」

「申し訳ないです……」


 彼が私に触れたがる理由が、彼自身の衝動からではないのだとわかると心苦しい。私が彼にそうであれと願った結果が、彼のこの行動なのだ。

 しまったな……泥酔していたとはいえ……

 こういう怪異の類は強い願いに引き寄せられがちだし、それゆえに言動が特定の物事や事象に縛られる。彼の場合は私との性行為なのだろう。

 私がしょんぼりしてしまうと、彼は少々慌てた様子で私の頭を撫でた。


「気持ちのいいことは好きだよ。君が気持ちよさそうにしているのも、もっと見たいから問題ないさ」


 そういう問題ではない。これは私と彼の関係にとって大事な問題なのだ。


「ほんっと、昨夜は私、どうかしていたんですよ。記憶をなくすとか、あり得ないし。こんなこと、行きずりの相手に頼むようなことじゃないのに」

「後悔しているのかい?」

「だって、こんなの、いいわけがないじゃないですか。アニキにもあきれられちゃったし」


 勢いで見ず知らずの相手に身体を許すなんて。正常な私だったら絶対にあり得ないし、むしろ嫌悪する行動なのだ。

 取り乱し始めた私を、彼はおろおろしながら顔を覗き込んでくる。


「あれは僕が人間じゃなかったからだと思うよ?」


 私は勢いよく首を横に振って否定した。


「人間だろうとそうじゃなかろうと、私が隙を作ってしまったからこうなっちゃったんじゃないですか。気を許したら絆されそうになっちゃうし、これがあなたの能力なのだとしても、流されちゃうじゃないですか。求めちゃいけないって私、自分に言い聞かせてるのに、上手くいかないんですよ!」

「僕のこと、嫌い?」

「わからないの!」


 付き合いの長短が理由じゃない。私には彼を強く突き放したいと思えるだけの理由が見当たらないのだ。

 言い放って、私は顔を両手で覆う。


「いっそ、嫌いならよかったのに。嫌いだって、拒絶できればスッキリするのに。無理やり迫られているからだって言い切れたら、どんなによいか!」

「ごめん……泣かないでほしいな」


 彼は私の上からゆっくりと退いた。そしてベッドの端に腰を下ろす。私に背中を向けた。感情がぐちゃぐちゃになって泣き出してしまった私への配慮なのだとすぐにわかった。

 彼は私の心が読めるようだが、それでこの行動に移せるのだったら、私のことをよく理解しているのだと思う。


「快楽で全部塗りつぶす事も僕にはできるだろうけど……君が望まないならできないよ」

「昨夜の私はそれを望んでいたってことですか?」


 涙混じりの私の問いに、彼は首をゆっくり横に振った。


「違う。君の記憶が跳んでしまった原因は僕にもあるかもしれないけど、僕が意図したわけじゃない。だから、君が目覚めたときに僕のことを覚えていなくて心底驚いたんだ。動揺した」

「……そう」

「無理に迫ってごめんね。そういう気持ちになったら応じるから誘って。僕はいつでも応えるから」


 私が彼とした契約は本当に性行為なのだろうか。どこか引っかかるけれど、頭がぼうっとしてきて思考できない。


「ここで眠ったら、また忘れてしまうんですかね」

「忘れたくないと君が願うなら、君の記憶を強化するよ」

「ならば、すべて忘れてしまうことがないように。どうか、お願い」


 すごく眠い。なぜだろう。術でもかけられたのか、たんに気が緩んだからなのか。

 私が彼の背中に手を伸ばすと、すぐに彼がそれに気づいてくれて握り返してくれた。あったかい。そこに彼はいるんだ。


「うん、わかったよ。ちゃんと繋いでおく」


 彼が寂しそうに笑うのを見ながら、私は目を閉じた。

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