欲望の神さま拾いました〜ひととき物語〜

一花カナウ・ただふみ

1年目の話

すべてのはじまり

1:自称神様拾いまして。

 目が覚めるとともに目に入ってきたのは見慣れた私の部屋の天井。でも、私の視界には見慣れないモノが入り込んでいた。

 え、なんだ、これ。

 もぞもぞと動いたその陽だまりのようなふわふわの毛がのそっと持ち上がる。


「あ、やっと起きたんだね。昨日はずいぶんと荒れていたけれど、気分はどうかな?」


 端正な顔立ちの美男子がいた。

 あんまりにも綺麗な顔なので一瞬女性なのかと思ったが、広い肩幅とか発達した胸筋とかを見たら男性だとすぐに理解できた。

 って……裸?

 観察していて気がついた。

 私たちはお互いに裸である。


「えっと……」


 戸惑う私に対し、彼はにこっと穏やかそうに笑った。


「今日はお休みなんだっけ? 気分がすぐれないならお布団でゆっくりするといいよ」

「あ、あの。つかぬことをお聞きしますが」

「ん?」

「どちら様でしょう?」


 彼のショックを受けた顔がなかなかにインパクトがあって、美人もこんな顔をするんだな、なんて寝ぼけた頭で感想を述べたのだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 状況を整理しよう。



 大学を卒業して三年。八年も付き合っていた男と別れた。漠然とこの人と結婚するんだろうな、なんて思っていたのに、まさかの展開である。

 住んでいたアパートの契約更新が迫っていたので、それとなく同棲したいなあと匂わせていたところでの二股の発覚。いや、さ。仕事で忙しくしていた私も悪かったよ。若手のリモート出社がなくなってしまった影響もあって、ここぞとばかりに入った研修や重要なポジションで納期に挑んだりで仕事漬けでしたよ。

 でもさあ、向こうはその間もリモートでしょ? そんでマッチングアプリでカノジョ作って部屋にカコってんだよ。久しぶりにデートに行ったのに、ホテルに行こうって誘って来なかったから変だって思ったんだよね。旅行に誘ってもなしのつぶてでしょ。おかしいなって思ったときにはもう完全に手遅れだったってわけだ。

 連勤後の仕事帰り、ちょっと顔を見たいと思って家に立ち寄ったら女が出てきてさ。姉や妹がいないのは知ってたから確定だよね。だからかあいつ、弁解もしなかった。

 裏切り男には腹は立ったけど、ヨリを戻す気なんてさっぱり湧かなくて。別れたその足でやけ酒してさ。仕事漬けで疲れまくっていたからそれまで性欲は全く意識しなかったんだけど、こうなっちゃうとどうにもムラっときてさ――



 ――そこまではよく覚えている。

 泥酔していると理解して、それでも店から最寄りの駅までは自分で歩いていって、電車に乗ってアパートのそばの駅まで帰ってきて。タクシー使いたかったのに捕まらなくて渋々歩くことにして。

 いや、あの駅からこのアパートまでの道のりでこんな美形は拾わないだろ。どこをどうしたらそうなるんだ?

 いやいや、落ちていて拾う機会に恵まれたとしても、ノコノコついてきたりしないだろうし、お持ち帰りしちゃっても私が目覚めるまで律儀に待ったりしないだろう。私の鞄とかその辺に転がってるし、現金を適当に拝借して部屋を出ていくのが関の山だ。

 というか、彼の持ち物とか服とかどこにあるんだ?

 盗み見るように床とかテーブル周りに目をやるけれど、私のスーツとか下着は散乱しているが彼の荷物らしきものはない。

 まだ春を感じられるようになったばかりの三月。こんな美青年が素っ裸で徘徊していたとしたら通報案件だと思う。ひん剥かれて落ちていたのだとしても、だ。

 私が警戒しているのに気づいたのだろう。彼はベッドからおりてこちらを向いた。半開きになっていたカーテンから差す陽射しがいい仕事をしている。


「忘れてしまったみたいだから、もう一回自己紹介からするね」

「まずは服を着てください」

「ああ……そうだね」


 それもそうだと彼は頷くと、ポンっと両手を合わせる。すると彼の裸体にふわっと布が被さった。被さったかと思えば、それは羽織袴に変わる。

 私は両目を擦った。夢か。

 もう一度彼を見ると、和装の美男子がそこにいた。ふんわりとした金髪が似合わなそうなところだけども、なんかいい感じに見えるのだからイケメン補正は素晴らしいな。


「驚いてくれた?」

「そりゃあ、もう。夢かと思ったくらいには」


 ほっぺたを抓(つね)ってみるがすごく痛いし、この体の倦怠感はまさにハッスルしちゃったときのアレな感じで、現実だと思える。

 幸い、二日酔いにはならなかったようだ。私はお酒にめっぽう強い。


「僕を拾ってくれた時も君はそう言っていたね。君の夢では僕みたいな男の子に抱かれていたのかい?」

「いや、ないですね。彼氏がいましたし」


 即答。

 淫夢に縁がなかったわけではないが、なぜか相手は今や元カレとなったあの男だけだった。想像力の敗北なのかもしれない。

 私の返事に、彼は目を瞬かせた。


「そうなんだ」

「別れたので今はフリーですよ」

「それはよかった。争いごとは好きじゃないんだ」


 心底ありがたがっている様子で、彼はにこっと微笑んだ。


「まあ、イケメンだと、そういうの、面倒ですよね」

「いけめん? かどうかは関係ないかな。僕は僕が関係を結びたいと思った相手にしか姿を見せないし」

「……天然さんか」

「ん?」

「あ、独り言です」


 関わり合ってはいけないタイプの何かを拾ってきてしまった気がする。もう一度寝直したほうがいいかもしれない。

 よくよく思い返してみると、犬猫以外のおおよそ生物といえるかわからんものを連れて帰ってしまうような子どもではあった。父がそういうのに真っ先に気づいて祓ってくれたので大事に至ることはなかったのだけども。

 独り暮らしをするようになってからは毎年お札を送ってもらっていたわけだが、新年に受け取ったお札を正しい位置に供えるのを怠っていたことに今更気づいた。

 これは……やばいな。

 今日は休暇だ。十八連勤後の久しぶりのまともな休暇。五日間は休める。

 よし、実家に帰ろう。


「え、実家に帰るの?」


 彼がものすごく驚いた顔をしている。君は表情が豊かだね。


「んんん?」

「ごめん、思考読んだらびっくりしちゃった」

「んんんんん?」


 にこっとされたが、心中穏やかではない。自己紹介が途中のように思うが、一体何者なんだろう。


「僕は神様なんだ。信仰が途絶えちゃって力は弱体化しているけど、君のお陰でこうして姿も取り戻せた。君の好みに合わせて顕現しているんだけどどうかな」


 そう告げて、その場でくるりとまわって見せてくれた。

 が、私の好みだろうとそうでなかろうと関係はない。私は片手を小さくあげて拒否のジェスチャーをした。


「神様? 宗教の勧誘はお断りしてます。ウチ、割とアレな家なんで近づかないほうがいいですよ?」

「ふふ。昨夜と同じ反応だ」


 妖艶な笑み。それが私に迫ってくる。私の顔を覗くようにして彼は言葉を続けた。


「むしろ僕を連れて実家に帰ったら、喜んでくれると思うけど」


 どんな自信だ。

 私は頭を抱えた。


「二日酔いの頭痛かい? 水を運ぶね」


 違う、そうじゃないと止めるまでもなく、神様だと名乗った彼は水を取りに台所に向かってしまった。




 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 いつまでも素っ裸なのはどうだろうと思い、起き上がってキョロキョロとする。昨日着ていた服は洗濯カゴに突っ込むとして、とりあえず部屋着を身につけよう。

 ふだん仕事に出る前に部屋着のスウェットを脱いでベッドの上に置きっぱなしにしているのだが、今は当然ながらそこにはない。ベッドの足元を覗くと落ちてぐしゃぐしゃになっているのが目に入った。私は部屋着のセットを拾い上げてサクッと着る。

 にしても、散らかってるよな……

 家では風呂に入って寝るだけの生活を続けていた。数日に一回、入浴中に下着類を自動洗濯乾燥機に突っ込んでどうにか衛生状態を維持してきたわけだが、それ以外はまあだいぶひどい。家で食事をすると洗い物とかゴミ捨てとかの煩わしさがあるから、潔く全部外食にしたのは大正解だっただろう。

 よくこの家に男を引っ張り込もうと思ったな、私……

 シーツと枕カバーは洗濯した方がよさそうだな、と思ったところで彼が戻ってきた。


「水道水でいいのかな?」


 グラスの半分まで水を汲んで持ってきてくれた。時間がかかったのは、おそらく飲み物を探してくれたからだろう。


「お茶も切らしてましたからね。水道水しかないです」

「冷蔵庫の中を物色させてもらったけど、何もないよね。朝ごはんは食べない主義? それとも減量中なのかい? 僕は今の君の身体はもう少し肉付きがよくてもいいくらいだと思うけど」


 そう告げて、服の下にある私の胸やお腹のあたりを無遠慮に見つめてくる。


「ダイエットをしているわけじゃないですよ。ここ三週間近く、家には寝るためだけに帰っていたんで。食事は外で済ませているんです」


 そう答えて、彼からグラスを受け取って水をありがたくいただいた。たくさん汗をかいていたから、二日酔いの頭痛には悩まされていなかったけれどとても助かる。


「なるほどねえ」

「シャワー浴びたら買い物に行きますけど、自称神様さんはいつお帰りになります?」

「うん?」


 きょとんとされてしまった。ちょっと悲しそうにも見える。


「ほら、私、ちゃんと目が覚めましたし、心配もないでしょう? 神様だって帰る場所があるでしょうから、もうご帰宅いただくべきかな、と」


 帰宅という表現が正確なのか悩むところだが、ほかに的確な言葉が咄嗟に出なかったのでよしとしよう。


「あー……それはそうか」

「どちらの神様なのか存じ上げず申し訳ないですが、あなたを私が独占していいわけではないですからね。ちゃんとお返ししないと怖いじゃないですか」


 コイツを外に出したら、実家から送ってもらったお札をしっかりセットしよう。

 私はベッド近くの棚の上に散らばっているものを寄せてスペースを作り、コップをねじ込むように置いた。


「なにか手順があるとかお供え物が必要だとかあるなら、連れてきてしまったのは私なのである程度は協力しますよ」


 彼を見て譲歩と協力の意思があることを伝えていると、彼は無言で近づいてくる。離れようとした私はベッドに引っかかってストンと座った。近い。


「僕は君のそばに残るよ」


 妖しく笑うなり私を押し倒した。強く押されたわけでもないのにあっさり倒れてしまったし、そのまま腕を拘束されてしまって私は驚いた。


「え、あの!」

「君のことが気に入ったんだ。それに、君とは縁ができてしまったからねえ、そう簡単には離れられないよ?」


 せめて昨夜の記憶が戻ってくればいいのに。気に入られる要素がさっぱりわからん。

 身の危険を感じて刺激しないように言葉を慎重に選ぶ。


「ええっと……気に入ったって、この身体が、ですかね?」

「それもそうだけど」


 それはそうなのか。

 私が苦笑すると、彼は私の首筋に顔を近づけてペロッと舐めた。

 昨夜の感覚が呼び起こされたのだろう、彼の行動に驚いただけでなく身体が甘く痺れて声が漏れた。


「ちょっ……」


 いい匂いだ。これは花――梅の花の香りに似ている。彼が本当にどこぞの神様なのだとしたら、その境内には梅があるのだろうと思った。


「君、自分が特殊な体質だってこと、理解していないでしょ?」

「普通の子どもとは違うんだろうなって思ってましたけど。友だちには見えないものが見えてることが多かったですし」

「だったら」


 耳元で囁くのをやめて、彼は私と見つめ合った。ニコッと笑ったかと思えば、口元だけすっと笑みが消えた。怖い。


「その辺で見かけたナニカに願い事をするのは得策ではなかったねえ」


 口を塞がれた。彼の唇で。

 この感覚……

 深い口づけに酔わされる。昨夜、間違いなく彼とこんな口づけをした。身体が熱い。


「なっ、わ、私」


 少しだけ思い出した。

 帰り道、性衝動を持て余していた私は妄想していた。デスマで放置していたスマホゲームの推しとイチャイチャするところを。アイドルにも推しはいるのだが、生身の男とそういうことをするところは想像することさえ気持ちが悪くて、二次元キャラならなんとか楽しめた。そのまま眠ればいくらかスッキリするかななんて思っていたわけで。


「僕は契約を交わしたつもりだから、そこはよろしく頼むよ、弓弦(ゆづる)ちゃん」

「名前……」


 表札には名字のみ出してある。部屋に転がっている鞄を漁れば身分証は取り出せるだろうから調べることは容易ではあるが、彼に名前を知られているとは思わなかった。

 ……いや、夜も名前を呼ばれたような?

 それはさておき、神様に名前を握られるのはよろしくない気がする。

 私が焦ったことに気をよくしたのか、彼は言葉を続けた。


「ふふふ。可愛い名前だよね。倉梯(くらはし)弓弦。神様の加護をたっぷり得られそうで」

「自称神様というだけで、あなた、本性は悪魔じゃないですか……」

「ふふふ。そう思うかい?」


 父さん、私、人生最大の厄介な拾い物をしてしまったようです。

 後悔しているところで、腹の虫が盛大に叫んだ。重い空気をブチ破るめっちゃ響くいい音である。

 彼は目をまんまるくしたあとに腹を抱えて笑い出した。


「あはは。元気そうでなによりだねえ。たくさん運動したからかなあ」

「意味深な言い方しないでください……」

「本当のことじゃないか。気持ちがよかったんでしょう? すごく可愛かったよ」

「わかりました。勝手に言ってください」


 戦意消失で彼が退いてくれたので、私はベッドを出て風呂に向かうことにした。まずは汗を流さないと外に食べには出られない。


「身を清めるのかい? 僕も一緒に入りたいな」

「狭いので二人は無理です。すぐに出ますから、次どうぞ」

「残念。君の身体を清めるのを手伝いたかったなあ」


 どこまで本気で言っているのかよくわからない。まともに取り合っていたら先に進まないので、ため息だけついて浴室に入ったのだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 今は彼がお風呂中である。人の身を得ている状態なので、身を清めることはしたほうがいいらしい。

 しかしまあ、なんかすごいことになってるな……

 お風呂に入って気がついたのだが、体のあちこちにキスマークが残っていた。なにか呪いでもかけられているんじゃないかと疑うくらいあちこちに痕があって、私は憂鬱になる。肌を見せるような相手はもういないので気にする必要はないにせよ、昨夜の記憶が朧げなので頭が痛い。

 痕を隠せるような露出が低い服を選んで身につけていると、彼がひょこっと顔を出した。さっき私が使ったタオルを彼は借りている。


「外に食べにいくんだっけ?」

「そうですよ。外食するか買って帰るかしないと、カップ麺すらこの家にはないので」

「今ここで大きな災害が起きたらまずいんじゃないかい?」

「避難所はこの裏の体育館なので問題ないですよ」

「そうなんだ」


 彼はタオルで全身を拭くと、手をポンっと合わせて服に着替えた。それ、すごく便利だな。

 さっきの和装ではなく、清潔感のあるちょっとだけオシャレな感じのシャツとスラックス姿に、私はちょっと惚れた。和装も好みではあるのだが、彼の髪色やふんわりした癖毛を思うとこちらの方がピッタリくる。格好いい。


「君に合わせるなら、服はこんな感じかな。どう?」

「すっごく素敵ですけど、すごく目立つような気が。ナンパされたりスカウトされそうな感じです」

「うーん。それは面倒だけど、人払いすれば大丈夫かな。君のお陰でいろいろできるし、問題ないよ」


 彼はにこっと笑った。可愛く見えるのは服が変わったからだけだろうか。


「くっついて来るつもりなんですね」

「君のことをもっと知りたいしね」


 当然のように一緒に外出をするつもりらしい彼にツッコミを入れると、ニコニコされた。敵意はないし、私を知りたいという言葉にも嘘はないように見えた。


「神様さんは食べられないものってあります? 私、行きつけの店に行くつもりでいるんですが、メニューに偏りがあるので」

「僕は水かお酒があれば充分かな。あとは、君がいればいい」


 君がいればいい、のあとにぺろっと唇を舐める。その仕草にドキリとした。

 記憶がとぶくらいのことをしたってことか……いちいち変な反応をするなよ、私。

 はあ、と大きくため息をつく。あまりしょうもないやり取りをするのはやめようと誓い、放置されたままだった鞄を手に取った。


「……あれ?」


 職場に持って行っているショルダーバッグに傷がついている。お気に入りのピンクの鞄だったのに、結構目立つ擦り傷だ。そのこと自体にはもちろんショックだったものの、その中に入れていたはずの御守りが見当たらない。


「どうかしたのかい?」


 私があからさまに焦っているので、彼も気になったらしい。私の手元を覗いて心配してくれる。


「御守りが見当たらなくて」


 実家から送ってもらっているのはお札だけではなく御守りもだった。外出時には出来るだけ身につけているようにと言われた梅の花があしらわれた白っぽい御守り。鞄を替えるなら御守りを移動させないといけないと思ったのに、いつもの場所にないのだった。


「おかしいな。普段は絶対に開けないポケットに入れているから落とすはずがないのに」


 ショルダーバッグのあらゆるポケットを覗いてみるものの、やはり見つからないのだった。


「それはないと困るものなのかい?」

「持ち歩いていないと、あなたみたいなものに魅入られちゃうんですよ。面倒じゃないですか」

「じゃあ、僕がいるからなくても大丈夫じゃないかな」

「増えたら碌なことにならないでしょ」

「僕は独占欲の強い神様だから、他のものを寄せ付けたりさせないよ」


 その発言に私は手を止めて彼を見やった。


「それはそれでちょっと……」

「ありゃ」


 彼なりの励ましのつもりだったらしい。彼は苦笑した。


「むむ……こうなったら出前でも頼みますか」


 ショルダーバッグから取り出したスマホを見る。すぐに返信が必要になるような通知はなかった。


「一歩も外に出ないつもりなのかい?」

「私の行きつけの店、出前もしてるんでとりあえずそれでしのごうかと」


 私はスマホの時計を見やる。十時前。昼食の混雑時間帯に被らなければ、きっと届けてくれるだろう。行きつけの店というだけあって常連なわけで、それ以外の理由でも私のわがままをある程度は聞いてもらえる見込みがあった。


「君がそれでいいなら、僕は構わないよ」


 私が一時しのぎだと強調したからか、彼は素直に応じてくれた。その上で、彼は部屋全体を見て肩をすくめる。


「でも、それならそれで少し掃除をしたほうがいいかもしれないね」

「出前を待っている間に掃除と洗濯を済ませますよ」

「僕も手伝うね」

「無理のない範囲で、よろしくお願いします」

「任せて」


 なんで神様が家の片付けを手伝うのか意味不明ではあるが、部屋が散らかっていてベッドの上以外に座る場所もままならない状況なのは事実だ。手伝いたいという彼の気持ちはありがたく利用させてもらおう。


「じゃあ、まずはサクッと出前を頼んじゃいますね。ちょっとお待ちください」


 私はスマホを操作してメッセージアプリを立ち上げる。ちょこっと事情を書いて状況を説明しつつ、私はブランチの注文を送ったのだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 シーツや枕カバーを含めた洗濯物を適当に自動洗濯乾燥機に放り込み、床に放置されたあれやこれやを決められた位置に戻していく。物盗りに入られたと嘘をついても、この様子ならそうだねって頷かれそうな惨状であった。せめて洗濯物はちゃんとクローゼットに片付けるべきだったと反省する。


「――掃除機とか雑巾とかないの?」

「フロアモップが洗濯機の横あたりにあるかと」

「ああ、これかな」


 そう返事があって、目的のフロアモップを持ってキッチンに戻ってきた。

 彼は三角巾に割烹着姿のお掃除スタイルになっている。どうも形から入るタイプのようだ。これはこれで妙に似合う。イケメンはいいなあ。

 替えのシートを取り出してフロアモップにセットして渡すと、彼は片付いた床を磨きはじめた。指示しなくても的確に綺麗になっていく。ありがたい。


「風呂上がりに掃除になって申し訳ないです」

「掃除を提案したのは僕だからね。汚れたらまた清めればいいじゃない?」


 楽しそうにしながら言うので、私は片付けの手を止めて彼を見上げた。


「……スケベなこと、考えてます?」

「下心はあるよー」


 正直者である。冗談で言っているのではなく、隙あらばねじ込んでやるという気迫があった。迂闊なことは言えない。


「それに、そういうこと、好きなんでしょ?」

「特別に好きというわけじゃないですよ……。あなたを拾ってしまったとき、そういう気分だったってだけで……」


 適度に発散する余裕があったらまだマシだったのだろう。仕事に夢中で過労状態だった上に彼氏の裏切りが発覚してあちこちのネジが吹っ飛んでいた。そういうときこそ、気を引き締めるべきだったのに。

 お酒の失敗はしたことがないつもりだったんだけどな……

 後悔先に立たず。今後はお酒を控えよう。


「そうなのかい?」


 じっとこちらを見る目が何かを探ってくる。綺麗な金色の瞳だ。見つめていたら魅入られそうな気になるのは、神様という属性によるものなのだろうか。


「性欲は解消されたので、しばらくは大丈夫です。お気遣いなく」


 見つめ合っていると内側を暴かれてしまいそうで、私は先に目を逸らした。片付けを再開する。


「僕はまだまだいけるよ?」

「誘うならもう少し工夫してほしいですが」

「ふふふ。僕が本気出したら、きっとご飯どころじゃなくなっちゃうよ」


 上機嫌なテンションの声。こういう会話だけでも満たされるようだ。彼は張り切ってモップがけをしてくれる。


「まあ……そうですねえ」


 適当にあしらって、私は床から荷物が消えたのを確認する。不要なチラシは後で紙袋に突っ込んでゴミ捨て場に持って行こう。ダイレクトメールも緊急性の高いものはないことを確認できたので、分別して処分だ。

 私は時計を見る。まもなく十一時だ。


「そろそろ、かな?」


 インターフォンが鳴る。出前が来た。エントランスの鍵を開けて部屋まで来てもらうことにする。もう一度インターフォンが鳴って、私はカメラで相手を確認するとドアを開けた。


「ご注文ありがとうございます。特製バケットサンドとコーヒーフロートをお持ちしました……って、いや、マジなんだな」


 出前を届けてくれた青年が、私の背後にいる割烹着姿の彼を見て顔をあからさまに顰めた。


「アニキにも見えるのね……」

「人間でもなさそうだな」


 私たちは彼から見えないようにヒソヒソ話をする。神様が本気を出したらこの会話なんて筒抜けなのだろうけど。

 そう。私は出前にかこつけて助けを呼んだのだった。行きつけの店で働いている実兄を召喚することに成功した。なお、彼は異形に好かれることはないし祓うこともできない一般人寄りのステイタスだが、見分けることは可能である。たぶん、私のせい。


「どうしたらいいと思う? 御守りも失くしちゃったし、外出できないんだけど」

「御守りは取り寄せてるから、ちょっと待ってろ。夕飯の差し入れには間に合わせるから」

「さすがはアニキー!」


 頼んだ食べ物が入った紙袋を渡される。ここの特製バケットサンドは具沢山で大好きだ。パリパリのバケットが芳ばしいのも好ましい。少し甘めの特製ドレッシングが最高である。

 お腹がぐうと鳴った。


「ってか、アイツはどうしたんだ、ケイスケは」


 元カレの名前が出て、私はムッとする。


「アレとは縁が切れた。新しい女作ったから用済みなんだって」


 紙袋の上を開封して中身を確認する。いい匂い。閉じたままだと湿気でパリパリ感を損なうので、こうして換気する必要があるのだ。

 兄が小さく舌打ちをする。


「親同士が決めた許嫁なのに。オレは聞いてねえぞ」

「気まずくて言えなかったんじゃない?」

「オレから連絡しておくわ」


 兄が頭を抱えている。申し訳ない、巻き込んで。

 ん、待って? ケイスケが許嫁? 親が決めた婚約者ってこと?


「話は終わったかい?」


 混乱していると上からヒョイっと手が伸びてきて、私が抱えていた紙袋が奪われた。


「お兄さん、はじめまして。これからは僕が彼女を守るから、心配しなくていいよ」

「……いや、心配はするだろ、大事な妹なんだ。どこの馬の骨かわからんやつにやれるような神経はあいにく持ち合わせていないんでね」


 挑発しないでください、兄さん。

 ニコニコと友好的な態度の彼に、兄は噛み付くような視線を送った。

 私と違って背が高くゴツい上に目つきが悪いことで定評のある兄である。中身を知っているから私は怖くないのだが、こうして睨みを効かせると一般人はだいたいビビるものだ。


「君は……梓(あづさ)くん、かな。仲良くしようよ。争うのは好きじゃないんだ」

「それは貴方の出方次第です。妹に手を出したら許さない」

「あー、じゃあ、許されなくてもいいや」


 困ったように笑って、神様は紙袋を持って引いた。

 その言動に、兄は思案する間を開けて私を睨む。困惑も混じった視線に、私は冷や汗が止まらない。


「まさか、お前……」

「やけ酒の勢いで契ってしまったらしいです……」


 契約という意味でもあるし、肉体的な意味でも自称神様と契ってしまったのは事実だ。認めたくないけど。


「なんでまたそんなことに」

「記憶もなくてですね……」

「お前……はあ。もういい。あとは任せておけ。あまりそいつを刺激するなよ。夕飯の差し入れにもう一度訪ねてやるから」


 大きなため息とあきれた気持ちを微塵も隠さない言葉。私は苦笑するしかない。ごめんな、兄さん。


「お願いします」

「じゃあ、また後でな」


 そう告げて、もう一度神様を一瞥し、兄は家を出て行った。

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