第5話……怒
……はっ。
奈緒が、目を覚ました。
辺りは真っ暗だ。
ここは、何処?
夢か現実か理解が出来ずに、ひたすら記憶を辿る。
——そうだ、土砂に埋もれた家にいるんだっけ。
荻野真一とかいう、変な男と共に。
奈緒の意識が、ハッキリとした。
それと同時に、受け入れざるを得ないこの状況に溜息が出た。
……ぽとり。
不意に、水滴が頬を伝い、膝に落ちた。
汗だと思った奈緒は、顔に触れてみる。
それは涙だった。
きっと、父親の夢を見たからだろう。
十年前の、あの夜の事を。
奈緒は、しばらく感傷に浸った後、手の甲で涙を拭った。
「……起きてますか?」
暗闇の中から、男の声がした。
真一だ。
奈緒は鼻をすすった後「今、何時?」と訊いた。
懐中電灯を点けて、時計を確認する真一。
「もうすぐ、朝六時ですね。外はもう明るくなってるでしょう」
「……あぁ……そう」
奈緒は、懐中電灯の眩しさに目を細めながら答えた。
そんな奈緒の顔色をうかがいながら、真一がコホンと咳をする。
「あの、実は……」
真一は、やや緊張した面持ちで奈緒に近づいた。
「奈緒さんのバッグが、見つかりました」
「えっ?」
「ドアの隙間にあったので、引っ張りだしたんです」
「マジで? 見せて!」
真一がバッグを奈緒に見せる。
しかし、奈緒に返そうとはしなかった。
「ねえ、返してよ」
真一は険しい顔をして、奈緒に問いかけた。
「どうして、包丁が入っているんですか?」
奈緒はギクリとした。
「……中、見たの?」
「ええ」
奈緒が、チッと舌打ちをした。
「どうして若い女性が、刃物なんか持ち歩いているんですか?」
奈緒は黙ったまま、気まずそうに一点を見つめた。
真一が、話を続ける。
「それで、もしかしたらなんですけど……。奈緒さん、ここに来た時、岡さんの家を訪ねてましたよね?」
目を背ける奈緒の眉が、ピクリと動いた。
「はるばる岡さんに会いに来た……というよりも、岡はどこだ! といった、恨みのようなものを感じましたよ」
奈緒は心の中で呟いた。
——こいつ、天然で呑気で愉快なアホだと思ってたら、意外と鋭い。
奈緒は一刻も早く、バッグを取り戻したくなった。
しかめっ面で、真一に近づく。
「なに言ってんの? 意味わかんない。料理するから、包丁買っただけじゃん! 早く返してよ!」
奈緒がバッグを取ろうと、手を伸ばした。
だが真一は、奪われまいと背中に隠す。
カチンときた奈緒。
「返せっつってんだろ、ドロボー!」
「じゃあ、教えて下さいよ。そしたら返しますから」
「何それ! 教師のくせに汚いね……」
奈緒は不貞腐れた顔で、腕組みをした。
適当な嘘をつこうかとも考えた。
しかし、真一は意外と鋭い。
それにこれ以上、無駄な口論は避けたい。
疲れるだけだ。
とうとう奈緒は、観念しように口を開いた。
それは奈緒が今まで、誰にも打ち明けてこなかった、衝撃の過去だった。
十年前、火事により父親が亡くなった事。
それは放火であり、犯人は岡賢太だという事。
十年経った今、偶然にも岡賢太の所在を知った事。
話を聞き終えた真一は、驚きを隠せなかった。
あまりにも壮絶な内容だったからだ。
岡賢太。
彼は真一より六歳年上だ。
かつて真一が小さかった頃、岡賢太は近所に住むお兄さんという存在だった。
だが、六つも離れていると、一緒に遊ぶ事はなかった。
つまり、それほど親しい関係ではない。
話をした事も、殆どなかった。
そういえば半年くらい前、岡賢太が都会から帰ってきて、こっちで働き出したと、母が言っていたのを真一は思い出した。
やがて、真一が重い口を開く。
「でも、本当にあの人が放火なんか……もしも違ってたら、どうするんですか?」
「ちゃんと聞き出すから」
奈緒が無表情で答える。
「そんな事、喋らないですよ」
「大丈夫。何が何でも、どんな事をしてでも、絶対に聞き出すから」
奈緒は眼光鋭く、キッパリと言い放った。
真一は、奈緒の並々ならぬ強い意志を感じた。
「じゃ……じゃあ、賢太さんが犯行を認めたとします。その時は、包丁で……って事ですか?」
やや、くぐもった声で聞く真一。
奈緒は何も答えず、ゆっくりと頷いた。
蒸し暑い部屋なのに、真一は寒気を感じた。
心なしか、息苦しさも感じる。
「……でも」
長い沈黙の後、再び真一が口を開いた。
「それは、警察に任せたらいいじゃないですか。何も奈緒さんが、手を下す事はないでしょう。次は、奈緒さんが犯罪者になるんですよ?」
「……」
奈緒は目を閉じ、眉間に縦皺を作った。
握りしめた拳に力が入る。
「奈緒さんの気持ちは分かりますけど、だからと言って、人の命を奪ってはいけませんよ。たとえ、どんな理由があるにせよ。きっと、お父さんも、そんな復讐なんか望んでいません。思い止まって下さい」
「……」
奈緒は、鼻息を荒くした。
怒りが込み上げているのだ。
抑えきれない激しい衝動が、沸き起こる。
「辛い想いをしましたけど、それは神様の試練だったんですよ。奈緒さんなら、乗り越えられますよ。もう復讐なんて考えるのはやめましょう。賢太さんの事は、警察に話しましょう。もし事実だったら、ちゃんと罰してくれますから。それより、これからの奈緒さんの人生を……」
「うるさいっ!」
奈緒の怒鳴り声に、真一が一瞬、仰け反った。
煙が出るほど顔を赤くした奈緒が、真一に近づく。
「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! だまれ、この野郎!」
「な、奈緒さん、落ち着いて……」
「あんたに何がわかんのっ! あんたには、今も両親がいるんでしょ! 私は、たった一人しかいない、大切な家族を目の前で奪われたんだよ! 住む家も、家具も、何もかもを灰にされたんだよ! 家族の写真だって一枚も残ってない! あるのは、その時着ていたパジャマだけ!」
烈火の如く、怒り狂う奈緒。
その剣幕に真一は怯えた。
「何が神様の試練だよ、ふざけないでよっ! 神様が小さな女の子に、そんな酷い事をするの! 何もかもを奪って、寒空の下に放り出すの? そんな神様なんか……そんな神様なんか……ボコボコにぶん殴ってやる!」
奈緒は、両手を振り乱し、真一の背中を叩き始めた。
「い、痛い痛い!」
「あいつがぁ、あいつがぁ、私から全てを奪ったんだ! だから私も、あいつから全てを奪う! 何が悪いの! 当然でしょ! あんたは黙っててよ、ボケ! カス! クソ野郎! ◯×△野郎! あんたなんかに、私の気持ちが分かるわけないでしょ……あんたなんかに……あんたなんかに……うっ……うっ……うううううううう」
奈緒は、その場に泣き崩れた。
「奈緒さん、大丈夫ですか?」
真一が、奈緒の背中に手を置いた。
「触んな、変態!」
真一の手を払って、奈緒は立ち上がった。
そして、棚に並ぶビデオテープを掴むと、次々に真一へと投げつけた。
「わっ!」
真一が、身を屈めた。
ビデオテープは、真一の足や、後ろの壁に当たっては畳の上に転がった。
「ちょ、ちょっと、奈緒さん! 危ない!」
極度の興奮状態にある奈緒は、立ちくらみがした。
奈緒の視界が、グルグルと回り始めた。
薄暗い部屋がスピードを上げ、回転する。
もはや、奈緒は立っていられなくなった。
……実はこの時、酸素濃度も減少していた。
昨日、真一が心配していた通り、土砂に埋もれているため部屋の酸素が減少していたのだ。
それにより、奈緒は怒りによる興奮状態に加え、息苦しさにも襲われていた。
ドサッ!
とうとう奈緒は、倒れてしまった。
天井を見つめる奈緒は、ハッ、ハッと息を切らし、痙攣した。
「奈緒さん……奈……さん……」
真一が、奈緒の上半身を抱き上げた。
奈緒には真一の顔が、ぼやけて見えた。
「奈……さ……」
真一の声も遠く、こもっている。
気絶しかけた奈緒だったが、それでも真一の手を振り払った。
「……だから……触んなっつってんの!」
奈緒は、散らばるビデオテープを拾うと、最後の力を振り絞って、真一へと投げつけた。
真一が思わず身を屈めると、ビデオテープは窓ガラスに当たってしまう。
バシッ!
大きな音がした。
真一が窓ガラスに注意を向ける。
なんと、窓ガラスに大きな亀裂が入っていた。
さらに、ミシッと軋んだ音まで聴こえた。
「た、大変だ!」
真一は急いで、窓ガラスを両手で押さえた。
窓ガラスの向こう側には、土砂が隙間なく敷き詰められている。
もしも割れてしまったら、部屋に大量の土砂が雪崩れ込んで来るだろう。
そうなれば、二人は生き埋めになってしまう。
奈緒は虚ろな目で、窓ガラスを押さえる真一の背中を見つめた。
意識もうろうとしている奈緒には、何が起きているのか、理解出来ない。
ミシッ……と、また嫌な音がした。
窓ガラスの亀裂が増えていく。
真一は焦った。
「うわっ、もう駄目だ……!」
ガシャーン!
ついに割れてしまった。
真一は雪崩れ込んだ土砂に、押し潰されてしまう。
ズドォォォォオオ……!
物凄い重低音と共に、土砂が部屋へ侵入する。
真一の姿は、もう見えない。
一瞬にして、生き埋めになったのだ。
懐中電灯も土砂に埋もれ、部屋は真っ暗になった。
部屋の奥にいる奈緒の元にも、土砂は容赦なく迫って行った。
混濁した意識の中、奈緒は思った。
……あ……私……死んじゃう。
つづく……
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