第6話……光
ズォォォォォォォ……!
絶え間なく、土砂は部屋の中に雪崩れ込んだ。
奈緒が目を閉じる。
死を覚悟したのだ。
ズォォォォォォ……ォ……。
パラパラパラ……。
……。
……。
音が止んだ。
土砂の侵入が、止まったのだ。
奈緒は、ゆっくりと顔を上げた。
酸素濃度が薄くなっていたはずなのに、なぜか息苦しさが解消していた。
夢から覚めたように、意識がハッキリする。
——あれ? 何だろ、あの光?
ふと、小さな光が見つけた。
土砂が入ってきた、窓枠の向こうだ。
奈緒は窓枠に近づいた。
何か得体の知れない物が、窓を塞いでいる。
凝視すると、それは大きな板だった。
これが、土砂の侵入を止めたのだ。
ここで奈緒は、部屋の中に堆積している土砂に目がいった。
むあっとした土の匂いに、咳が出そうになる。
——ん? あれっ?
あの男が……いない。
もしかして……ここに、埋まってる?
その刹那。
「うわあぁぁぁ!」と、大声を出して、真一が土の中から飛び出してきた。
「キャアァァ!」
奈緒は肝を冷やし、震え上がった。
真一は四つん這いになり、ゴホゴホと咳き込んだ。
「……あ、あんた、生きてたの?」
奈緒は、恐る恐る真一の顔を覗いた。
奈緒の声に、真一が顔を上げる。
頭に乗っていた土が、バラバラと落ちた。
「え? あ、ああ……奈緒さんですか? 僕、生きてますよね? なんか急に、息が出来なくなって……」
混乱していた真一だが、しばらくすると、落ち着きを取り戻した。
そして「おや?」と、不思議そうな声を出した。
懐中電灯は、土に埋まっているのに、奈緒の姿が見えるのだ。
真一は、光に気づいた。
「あれ? 光……?」
さらに真一は、土砂を堰き止めている板にも気付いた。
「え? 何ですかこれ、板? 板ですよね?」
「これが、土砂を止めたみたいだよ」と奈緒。
「あぁ、なるほど。そういう事……」
言いかけて「あぁーーーっ!」と、真一が叫んだ。
奈緒は、思わず両耳を押さえた。
「だから、急に大声出さないでって、何回言えば分かんの!」
「これ、小屋だ!」
「小屋……?」
「僕のお爺さんが、山の上に建てた小屋があるんですよ! それです、間違いないです!」
「へえ〜」
「……しかし、あの小屋がここまで来るとは。やはり土砂災害の規模は、かなり大きそうですね」
真一が思いを巡らせていると、奈緒が再び光を見上げた。
「小屋はいいとしてさ、あの光。あれ、外の光?」
窓枠と板の間に、テニスボール一個分くらいの大きさの空洞があった。
空洞は斜め上へと向かっている。
光は、その先にあった。
「そうですよ! 外の光ですよ! きっと、そうだ、間違いない! 地上に繋がっている穴ですよ!」
そう結論づけると、真一の表情に明るさが宿った。
崩れ落ちてきた小屋は、土砂を堰き止めただけではなかった。
土砂の中に空洞を作り、外の光をも、もたらせてくれたのだ。
「ここを掘って、外に出れないかな?」
奈緒が空洞を指差す。
嬉しそうにしていた真一の顔が曇った。
「うーん……この板を退かしたら、また土砂が落ちてきますよね」
「じゃあ、どうすんの? 穴に向かって叫ぶ?」
「そうですね! 外の人が気付くかもしれないですね!」
真一は、すぅと息を吸い込んだ。
「えっ、ちょっと……」
真一の様子を見て、奈緒が距離を取った。
「だーれーかー! いませんかー! すいませーん! ここにいますよー! 閉じ込められてまーす!」
真一は、声を振り絞って、空洞の向こうへと何度も叫んだ。
すると突然、辺りがフッと暗くなった。
あの小さな穴が、黒い影で塞がれたのだ。
「えっ? 何、何?」
うろたえる奈緒。
光を遮る影は、左右に揺れた。
「……か……いますか……?」
男性の声がした。
外から穴に向かって、呼びかけている様だ。
「やった! 気付いてくれた!」
真一が、ガッツポーズで飛び上がった。
奈緒も驚きの後、笑顔が溢れた。
真一は、空洞へと口を近づけた。
「はーい! います、います! ここにいますよ! 閉じ込められてまーす! 助けて下さーい!」
すると男性の気配が、フッと消えた。
「あれ?」
聴こえなかったのだろうか?
真一と奈緒は、不安になった。
ほどなくして、再び影が現れた。
今度は何人かいるようだ。
しきりに影が動き回り、話し声もした。
どうやら作業をしているようだ。
こちら側へ、パラパラと砂や小石が落ちてきた。
すると向こうの穴が大きくなった。
サッカーボールくらいの大きさだろうか。
穴に、ヘルメットをした男性の顔が現れた。
作業員だ。
「大丈夫ですか?」
今度は、ハッキリとした声が聴こえた。
真一は歓喜した。
思わず手を振った。
「はーい! はーい!」
「そこに、何人いますか?」
「二人です。僕ともう一人、女性がいます」
「具合は、どうですか?」
作業員がそう言った時、奈緒が真一のシャツを引っ張った。
昨夜のうちに、コーンポタージュを飲み干した奈緒が、小声で真一に訴える。
「水、水っ!」
真一は奈緒の訴えに頷くと、作業員に向かって大きな声を出した。
「すいませーん! 水! 水を下さーい! 水をお願いしまーす!」
「ちょっと、待ってて下さい!」
しばらくすると、穴から長い棒の様なものが入ってきた。
真一は、それが何か分からなかった。
だが間近まで来ると、棒の先にペットボトル二つが、固定されているのに気付いた。
「……み、水だっ!」
真一は、ペットボトルに巻き付いたガムテープをバリバリと剥がす。
そして、五百ミリリットルのペットボトル、二つを手にした。
その瞬間、側にいた奈緒が、真一の手からペットボトルを奪い取った。
蓋をねじ開け、一気に喉に流し込む奈緒。
ガブリ……ゴブリ……。
新鮮な水が、五臓六腑に染み渡る。
干からびていた身体が、一瞬で潤った。
まさに、全身の細胞が踊るように蘇った。
……美味しい。
あまりにも、美味し過ぎる。
この世に、こんな美味しい物があったのだろうか。
奈緒は気付かないうちに、涙を流していた。
生き返った——
まさに、その一言に尽きる。
奈緒は、ペットボトルの水を一気に飲み干すと「ぷはあ……」と、深い息を出した。
真一も同様だった。
特に脱水症気味だった真一は、急に水分が補給され、軽い眩暈がした。
再び、男性の声がする。
「もう少し、そこで待っていて下さいね! すぐ助けに行きますから!」
真一は涙ぐみながら、叫んだ。
「あ、ありがとうございますっ!」
どうやら機械は使えないらしい。
作業員達は大きなスコップを使って、慎重に穴を広げている。
ザクッ……ザクッ……。
土砂と、壊れた小屋の壁板などを、ひたすら取り除いた。
やがて、作業員達の努力のおかげで、地上から部屋へと大きな空洞が完成した。
大きさは一般的なマンホールくらいだろうか。
地上からは斜めになっているため、作業員はロープを身体に取り付けて、滑り降りてきた。
真一と奈緒しかいなかった部屋に、ついに第三者が降り立った。
「お待たせしました」と、作業員が言った。
体格の良い、日に焼けた中年男性だった。
彼は二人を見た後、さりげなく部屋を見渡した。
雪崩れ込んだ土砂を見て、少し驚いた顔をする。
だが、それについては言及せず、穴から出る準備を始めた。
「では、女性の方から、先に引き上げますね!」
真一は「はい、よろしくお願いします!」と、返事をした。
奈緒はバッグを拾うと、不安げな顔で作業員に近づいた。
救命ベルトを、しっかりと身体に巻かれた後、作業員の腕に抱えられた。
二人を引き上げるのは、外にいる十人を超える作業員達だ。
彼らは綱引きのように、ロープを引っ張った。
ズリズリ、ズリズリ……。
ゆっくりと、空洞を登っていく二人。
ズリズリ、ズリズリ……。
地上の光が、奈緒の目前へと迫る。
それは、あまりにも眩しかった。
奈緒は目を開けていられなくなった。
やがて作業員と共に、地上へと顔を出す奈緒。
風が、ヒュウと首筋を駆け抜けた。
その瞬間、奈緒は地上の新鮮な空気を吸い込んだ。
まさに、魂が浄化されるような気分だった。
大きな感動さえ覚えた。
地上に膝をつくと、ゆっくりと立ち上がる奈緒。
ようやく足の裏が、畳以外のものを踏みしめた瞬間だった。
奈緒は、大地の匂いを吸い込みながら、辺りを見渡した。
広大な青空、白い雲、山の緑、その鮮やかさに涙が滲んだ。
それと同時に、音の多さに若干、耳が痛くなった。
蝉の音、鳥の鳴き声、ヘリの音、車の音、作業員達の足音、話し声。
それらが混ざり合い、鼓膜を刺激する。
「大丈夫ですか?」
作業員が、奈緒のベルトを外しながら問う。
奈緒は無言で、二、三度、頷いた。
すると、一人の若い作業員が奈緒に近づき、バスタオルを掛けてくれた。
レディース用の、白い長靴も用意してくれた。
「さあ、こちらへ」
案内してくれたのは災害現場から、少し離れた場所に設置された、大きなテントだ。
それは、災害対策本部として使われていた。
テントの下には、長机とパイプ椅子がいくつも置かれている。
また、机の上には沢山の物資があった。
案内してくれた作業員に促され、奈緒はパイプ椅子の一つに腰掛けた。
目の前には、ペットボトルの水や緑茶、おにぎり、サンドイッチなどがある。
ご自由にどうぞ、と言う事なので、奈緒は緑茶のペットボトルに手を伸ばした。
食べ物には見向きもしなかった。
食欲がなかったのだ。
「しばらく、ここで休んでいて下さいね」
そう言い残し、若い作業員は真一がいる現場へと戻って行った。
奈緒は、自分が救出された場所を眺めた。
物凄い土砂の量だった。
昨日、ここへ来た時とは違う景色だった。
よく助かったと、しみじみ思った。
「はあぁぁ……」
奈緒は、魂が抜けるような溜息をついた。
どっと疲れが押し寄せたのだ。
疲労困憊の奈緒が、長机に両肘をつき、頭を抱える。
周りに人はいなかった。
朝早いからだろう。
ぼんやりと一点を見つめていると、ふと人の気配を感じた。
奈緒は、チラリと横目で見る。
上下とも、黒っぽい服を着た小柄な男性だ。
近くの住民だろうか。
彼は、奈緒のいるテントの近くで足を止めた。
顔の前でひさしを作り、土砂崩れの風景を眺めている。
「うわぁ、すごいなぁ……」と、囁いている。
奈緒は、彼の顔を見た。
——あれ?
男性は眼鏡をかけている。
右頬には、大きなホクロ。
奈緒の表情が、少しずつ強張っていく。
——この男……。
奈緒は、ゆっくりと立ち上がり、男へと歩を進めた。
奈緒が近づくと、男は怪訝な顔をした。
それもそのはず。
奈緒は、バスタオルを羽織っている。
髪も乱れていて、まるで風呂上がりのようだった。
男は、奈緒が救出された事を知らない。
土砂災害を一目見たくて、たった今、この場所に着いたばかりだ。
奈緒は、険しい目つきで、男の顔を直視した。
「……岡賢太さん……ですか?」
男の口から「えっ?」と、声になりきらない息が漏れた。
目を細め、奈緒の顔に注目する。
この人は誰だろう?
男は、そんな顔をした。
過去の記憶を辿るが、どうしても思い出せない。
そもそも、こんな美人、会ったら忘れるわけない。
男は、僅かに首を捻った後、やっと口を開いた。
「は、はい……そうですけど……すいません、どちら様でしたっけ?」
一瞬、奈緒が震えた。
直後に、ジワジワと全身が熱くなるのを感じた。
黒い憎悪の炎が、奈緒の心を燃やし始めたのだ。
——やっと……やっと会えた……。
お父さんを殺した男。
私の全てを、奪い取った男。
奈緒は、呟くように声を出した。
「放火……」
「えっ?」
「放火……したよね?」
「ホーカ?」
岡賢太が、眉間に皺を寄せた。
奈緒の口調は一変し、ハッキリとした声を出した。
「大学を落ちた腹いせに、火をつけたよね!」
——!
岡賢太の心臓が、瞬時に凍りついた。
血の気が失せ、顔が青ざめる。
「えっ……えっと……何の事ですか? あの……ちょっと、何言ってるのか分からないな……ははは」
声が震え出した。
明らかに、動揺している。
「十年前の◇◇市の放火事件、あんたでしょ?」
とうとう岡賢太の膝まで、震え出した。
「……死人が出たよね?」と奈緒。
岡賢太は、何度も首を捻った。
何の話だ? といった態度を取り続けるしかなかった。
そんな岡賢太の額から、冷や汗が流れ出したのを、奈緒は見逃さなかった。
「その死んだ人……私の、お父さんなんだけど」
——!
岡賢太は逸らしていた目を、奈緒に向けた。
黒目が泳いでいる。
奈緒は一歩、詰め寄った。
「ねえ? なんか私に言う事ないの?」
まるで、奈緒に心臓を鷲掴みされたように、岡賢太は胸が苦しくなった。
「い……いや、だから……何の話? 人違いじゃない? 君の言ってる事……全然、意味が分からない……」
「若菜に聞いたの。あんたが付き合ってた、関内若菜!」
岡賢太は、ギョッとした。
……もう、この子は全てを知っている。
もしかしたら、警察にも知らせているのでは?
そう思うと、岡賢太は立ちくらみがした。
まるで悪い夢を見ているようだった。
「い、いや……ちがう、ちがう……。燃やすつもりだったのは空き家で……冗談半分で、ちょっと火をつけたら……なんか急に、風が強くなって……」
岡賢太は、狼狽しながら後退りした。
「……今、認めたね?」
「えっ?」
「今、火をつけたの、認めたよね?」
しまった、余計な事を口走ってしまった。
岡賢太は、そんな表情をして、また一歩後ろに下がった。
「いやいやいや! し、知らない、知らないって! 適当に言っただけ! あの……ちょっと用事があるから! もう行くからね!」
岡賢太は、その場から立ち去ろうした。
「どこにも行けないよ……」
「え?」
奈緒の不気味な言葉に、岡賢太が振り向いた。
「もうあんたは、どこにも行けないって」
「はあ? 何言って……」
「だって……あんた、ここで死ぬから……」
奈緒の羽織ったバスタオルの隙間から、ギラリと光る物が、顔を出した。
岡賢太は、それを見て息が詰まった。
包丁だ。
尖った先端が、岡賢太へと一直線に向けられる。
「ちょ、ちょっと、嘘でしょ……?」
岡賢太は、さらに後退りした。
ズボッ!
「うわっ、足がっ!」
後方を確認していなかったため、岡賢太の左足が、ぬかるんだ地面にはまってしまった。
それは足首まで、深く沈み込んだ。
動けない岡賢太に向かって、奈緒が叫ぶ。
「死んで、償えぇぇぇぇ!」
鬼の形相をして、奈緒は包丁を突きつけたまま突進した。
岡賢太は、慌てふためいた。
「や、や、やめてくれ……!」
グサッ!
「うぐっ……!」と、苦痛の声が漏れた。
奈緒の持つ包丁が、腹部に突き刺ささったのだ。
やがて溢れ出した血は、包丁を握る奈緒の両手を、赤く染めていく。
きつく目を閉じていた奈緒が、ゆっくりと瞼を開いた。
「ううう……」
奈緒は唸った。
「何で……?」
奈緒の目から涙が溢れる。
涙は頬を伝い、血塗られた包丁にポトリと落ちた。
「何で……? ねえ、何で……?」
——どうして、こんな事に……?
十年越しの復讐が……どうして……?
奈緒は、復讐を果たす事が出来なかった。
なぜなら、包丁を刺した相手は岡賢太ではなく、真一だったからだ。
つづく……
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