第4話……刃
「……お父さん……」
奈緒が苦しそうに、寝言を呟いた。
瞼からは一筋の涙が零れ落ちる。
「……お父……さん……」
奈緒の寝言で、真一は目を覚ました。
真一は、時刻を確認したくて、側に置いていた懐中電灯を点けようとした。
しかし、眠っている奈緒を起こしてはいけない。
真一は、懐中電灯の前に丸めた座布団を置いて、光が広がらないよう工夫した。
薄く漏れる光で、時計を確認する真一。
目にした時刻は、五時半。
もう早朝だ。
真一は疲れた顔で、壁にもたれた。
チラリと奈緒を見る。
微かに、寝息が聴こえる。
真一は正面に、顔を向けた。
目の前には、二人が入ってきたドア。
土砂の重みで、折れ曲がったままだ。
弱い光の中、真一はドアの辺りを、ぼんやりと見つめた。
おや? と真一は思った。
ドアの隙間から、金色に光るものが見えるのだ。
真一は、そっと近づいた。
それは何かの留め具だった。
少し土を掻き分けると、紫のエナメル生地の一部が見えた。
あっ……。
真一は、声が出そうになった。
それは、奈緒が肩に掛けていた、ショルダーバッグだった。
真一が、寝ている奈緒を見やる。
よし、彼女が起きた時に渡そう。
きっと喜ぶだろう。
そう考えた真一は、ドアの隙間からバッグを抜き取ろうとした。
一気に引っこ抜いては、土が崩れてくるかも知れない。
真一は慎重に、土を掻き分けた。
数分後、見事に奈緒のバッグを取り出す事に成功した。
しかし、喜びは束の間だった。
真一は違和感を感じた。
バッグから黒くて固い、細長い物が、数センチ突き出ていた。
なにやら胸騒ぎがする。
不吉な予感を抱きながら、半開きになっているバッグを広げてみる。
——それは、包丁だった。
真一の表情が、瞬時に強張った。
恐る恐る、包丁を掴み上げてみる。
ゆうに刃渡、二十センチ以上はある肉切り包丁。
切れ味も鋭そうだ。
重厚で冷たい刃の光沢が、真一に無言の威圧感を与えてくる。
よく見ると、傷や汚れが全くなかった。
どうやら買ったばかりの新品のようだ。
なぜ、こんな物をバッグに入れているだろう?
およそ、若い女性が持ち歩く物ではない。
見つかれば、銃刀法違反にもなり兼ねない。
真一が緊張した面持ちで、あれこれ考えていると、傾けたバッグから何かが落ちた。
その際に音がしたが、奈緒に起きる気配はなかった。
真一は、そっと落下物を拾った。
真っ黒に汚れた、銅製の物体だった。
L字の形をしたそれは、そのままLの形にして置くと、縦に三十センチ、横に二十センチ程だ。
何かの部品だろうか?
真一には結局、それが何か分からなかった。
だが、しかし。
やはり問題は包丁だ。
真一は今一度、部屋の奥で眠る奈緒を見た。
奈緒がまた、小さく唸った。
「うう……ん……」
寝苦しそうに、奈緒の右手が畳の上を這った。
——その手が、何かを掴む。
それは『合格祈願』とプリントされた、丸くて平らな、木製キーホルダーだった。
五百円玉を、少し大きくしたくらいのサイズだ。
奈緒は、そのキーホルダーを持ち上げると、興味津々で見つめた。
「どうした、奈緒? 何を見てるんだ?」
奈緒の父、和夫の声がした。
それは、穏やかな冬の午後。
和夫と奈緒が、公園を散歩している時だった。
奈緒が、キーホルダーを拾ったのだ。
「お父さん、こんな物があったよ」
奈緒は、落ちていたキーホルダーを、和夫に差し出した。
受け取った和夫が、目を細める。
「……合格祈願? 受験生の子が、忘れて行ったのかな?」
裏には『けんた君』の名前入りだ。
観光地の土産屋などによくある、◯◯君、◯◯ちゃんといった、比較的多い名前がプリントされたキーホルダー。
そういった類の商品だ。
「けんた君が、忘れていったんだよ」と奈緒。
「ははは、そうだな」
その時、人影が二人に近づいた。
奈緒と和夫が、その人物に顔を向ける。
そこには、小柄で眼鏡をかけた少年がいた。
高校生くらいだ。
左頬には大きなホクロがあり、奈緒はそれが気になった。
「すいません……それ僕のです」
少年が、和夫の持つキーホルダーを指差した。
「おっと、持ち主ですか。これは失礼」
和夫がキーホルダーを、少年に手渡した。
「どうも……」と、小さく頭を下げる少年。
「……大学受験ですか?」と、和夫が訊く。
話しかけられるとは思っていなかった少年は、少し戸惑った顔をした。
「あ……はい」
「それ、買ったんですか? 御利益があると良いですね」
和夫は、優しく微笑んだ。
その笑みを見て、少年は緊張の糸を緩めた。
「いや……実は、どうしても行きたかった大学に落ちちゃって……浪人決定です。このキーホルダー、母親が買ってくれたんですけど、御利益なかったみたいですね。でも、せっかくなので持ってるんです」
「ほう、そうでしたか。次は受かると良いですね。頑張って下さいね」
「……どうも、ありがとうございます」
少年は照れ臭そうに会釈をすると、行ってしまった。
少年の背中を見送ると、和夫は奈緒の肩に手を置いた。
「落とし物も、無事に持ち主に戻った事だし、そろそろ帰ろうか」
「うん」
白石家が火事になったのはに、その日の夜だった。
——火事から、三日後。
奈緒は病院にいた。
二度にわたり、刑事が訪ねて来たが、医師は追い返した。
まだ奈緒に話を聞くのは、早いと判断したのだ。
なぜなら、奈緒の精神的ショックは相当なもので、あろう事か声が出なくなってしまったのだ。
そして、二日が経った。
その間も、刑事は何度も訪ねて来た。
痺れを切らした刑事が強く出ると、医師は少しの時間だけ、という条件付きで面会を認めた。
刑事は二人いた。
年配の刑事と、若い刑事だった。
二人は笑顔を作り、なるべく優しく奈緒に接した。
機嫌を取るためのケーキも、用意していた。
夜は寝れる? ご飯は食べれてる? などの話をした後、本題に入った。
刑事の話は、こうだ。
今回の火事は、放火だという事。
何者かが隣の空き家に、火を放ったのだ。
その後、急に北風が強まり、白石家にも火が移ったしまったとの事だ。
「……それでね、奈緒ちゃん。犯人も慌てていたらしくて、物を落として行ったんだよ。えっと……この二つなんだけど、何か思いす事はないかな?」
そう言って、年配の刑事はポケットから、証拠品入れの透明な袋を二つ取り出した。
何かガラスのような破片と、キーホルダーが、それぞれの袋に入っていた。
手渡された物を確認する奈緒。
すると奈緒は、目を大きく開いた。
キーホルダーに、見覚えがあったからだ。
真っ黒に焦げているが、その大きさと形。
公園で出会った高校生の物だ。
その袋を持つ奈緒の手が、汗ばんでいく。
「それ気になるの? それはね、合格祈願のキーホルダーなんだ。でも、全国で流通している物だからね。これだけで犯人を見つけるのは難しいんだよ。まあ、受験をひかえた若い人物だとは想像するけどね。あと犯人は、おそらく眼鏡をしているね。このガラスの破片みたいな物は、割れた眼鏡の一部なんだ。もしかしたら、犯人は転んだのかも知れないね。さて、どうだい、奈緒ちゃん。誰か思い当たる人はいるかい?」
——けんた!
奈緒は叫んだ。
絶叫した。
しかし、奈緒は声を出せない。
代わりに、ヒューヒューと息が漏れるだけだった。
——けんた!
けんただよ!
あの人が怪しいよ!
突然、刑事の腕にしがみつき、必死で何か訴える奈緒。
驚いた医師と看護師が、奈緒の腕を掴んだ。
「奈緒ちゃん、どうしたの? 落ち着いて!」
突然、暴れ出した奈緒に、困惑する刑事達。
「きっと、火事の事を思い出して、パニックになってるんですよ! 申し訳ないですけど、今日はお帰り下さい!」
医師に背中を押され、刑事達は退室を余儀なくされた。
廊下に締め出された二人の刑事は、お互いの顔を見合わせた後、仕方なくその場を後にした。
——待って!
待ってよ!
けんたって人!
あの人が、怪しいよぉぉ!
応援に駆けつけた看護師達に、両手両足を押さえつけられる奈緒。
顔を左右に振りながら、声にならない声で、叫び続けるのだった。
それから、一週間が経過した。
奈緒は、声が出せるようになった。
それなのに「けんた」の名前は、誰にも言わなかった。
なぜなら、その数日間に、心境の変化があったのだ。
奈緒は、病院の図書室にあった、裁判の本を何度も読み返した。
難しい漢字ばかりだったが、辞書を用いて、懸命に理解しようとした。
その結果、もし『けんた』が捕まった場合、裁判がどういった流れになるのかを予測してみた。
『けんた』は、まだ高校生。
火を着けたのは、無人の空き家。
明確な殺意を抱いているわけではない。
おそらく、死刑にはならないのではないか。
そもそも、指紋も採取されていない。
もし『けんた』が、犯行を認めなかった場合、起訴できないのではないか。
それならば……と、奈緒は考えた。
——警察には知らせない。
私の手で、復讐をしてやる。
それが、確実に命を奪える方法だ。
あいつが、お父さんの命を奪ったように。
今度は私が、あいつの命を奪う……。
奈緒は復讐という名の黒い炎を、密かに燃やし続けるのだった。
やがて退院した奈緒は、和夫の親に引き取られた。
時は流れ、奈緒は高校生になった。
その頃から、目に見えて素行が悪くなっていた。
濃いギャルメイクをして、夜の街で遊ぶ事が増えたのだ。
そして、1998年。
奈緒は高校を卒業すると、上京し、真っ先に渋谷センター街に向かった。
そこで、ギャル系が多く在籍するキャバクラに入店した。
そういった店では、学歴は必要なかった。
若さと、容姿の良さがあれば良い。
男の隣りに座り、酒を飲ませ話をするだけで、高額な給与を貰えた。
全ては、お金のため。
そう、奈緒には、お金が必要だったのだ。
探偵に『けんた』を探してもらうための、必要経費だ。
『けんた』に関しては、多少の手がかりはあるものの、ほぼその名前だけで探さなくてはいけない。
時間も費用も、かかるだろう。
奈緒はそう考え、貯金に励むのだった。
1999年9月。
奈緒がキャバクラで働き出して、一年以上が経過した、ある日の事だった。
奈緒は、関内若菜という同じ店で働く同い年のギャルと、昼のセンター街を歩いていた。
「私の元彼さー、マジでクソ」
何の脈絡もなしに、唐突に若菜が愚痴り始めた。
かなり苛立っているようだ。
携帯電話のアンテナを、伸ばしたり縮めたりを、繰り返している。
「私より、9コも歳上のくせにさー、マジで頼りないの」
「ふーん」と、やや興味なさげに返事をする奈緒。
「しかもさー。そいつ会社の飲み会で酔っ払って、女社員にセクハラしたの。結局それでクビ。すごすごと実家へと帰ってったわ。だっせー奴」
「マジでー」と、奈緒は呆れたように笑った。
「でさー、昨日、そいつから電話が来たの。とっくに別れてんのにさ。今さら何を言うかと思ったら、ヨリを戻そうとか寝ぼけた事言ってんの。ふざけんなボケッて言って、切ってやったわー」
「ハハッ。ダサいねー、そいつ」
奈緒は苦笑いを浮かべ、話を合わせた。
「ほんとだよ。そいつ、一見、好青年だけど女々しいんだよね。酔っ払うとウザいし。付き合わなきゃ良かった」
そう言った後、若菜は周囲を気にしながら、奈緒の耳元でヒソヒソ話をした。
(しかもさー、そいつ……ここだけの話だよ。昔、家を放火したんだって)
「えっ?」
「十年前、大学に落ちた腹いせに、空き家を燃やしたんだって。酔っ払ってた時にそう言ってた。最悪だろアイツ、犯罪者だよ」
「……十年前……?」
——ドクン。
奈緒の鼓動が、大きく跳ねた。
「……? 奈緒、どうしたの?」
「場所は?」と奈緒。
「さあ? △△県じゃない? アイツ、そこで生まれ育ったから。今も、そこにいるよ」
当時、奈緒も同じ△△県に住んでいた。
奈緒は寒くもないのに、ガチガチと震え出した。
「その人の名前は?」
「え?」
若菜は、怪訝な顔をした。
「……岡だけど」
「岡? 苗字じゃなくて、名前!」
思わず声を荒げる奈緒。
その様子に、若菜は困惑した。
奈緒は固唾を飲んで、次に出でくる若菜の言葉に、耳を傾けた。
やがて、若菜の唇が動いた。
「……けんた……だけど」
——けんた。
その三文字は鋭い槍となり、奈緒の心臓を突き刺した。
見えない血が溢れ出す。
奈緒は、痛みを堪えるように、しゃがみ込んだ。
過呼吸のように、息苦しくなる。
「どうしたの、奈緒?」
心配した若菜が、奈緒の顔を覗き込む。
奈緒は、息を整え顔を上げた。
「眼鏡してるよね?」と、若菜に問う。
若菜は目を丸くした。
「え? あいつを知ってんの?」
「ねえ若菜! その人、眼鏡してるよね!」
怒りを含んだ口調で、もう一度訊く奈緒。
「うん……眼鏡かけてた」
「頬っぺたに、大きなホクロもあるよね!」
奈緒がそう言うと、若菜は幽霊でも見たような顔をした。
やがて頷いた。
「……うん、ホクロがあった……」
——間違いない。
奈緒は一つ深呼吸をして、若菜に訊く。
「……その人の住所、分かる?」
「うん……。アイツ今年、年賀状送ってきたから、住所も書いてあったと思うけど……」
その後、奈緒は若菜の住むアパートまで押しかけた。
若菜は終始、戸惑っていた。
理由を訊いても、奈緒は何も話さなかった。
兎にも角にも『けんた』こと、岡賢太
おかけんた
の住所を知った奈緒は、真っ先にホームセンターに向かった。
そこで包丁を購入すると、新幹線で岡賢太のいる△△県へと向かった。
新幹線に乗っている間、奈緒は考えていた。
岡賢太の家は、かつて奈緒と和夫が暮らしていた町から、かなりの距離がある。
きっと岡賢太は、知り合いに目撃されないよう、遠い場所を選んだのだろう。
そして町を徘徊し、手頃な空き家を見つけ、憂さ晴らしのため火を放った。
そんなところだろう。
なんて身勝手な男だろうか。
奈緒は、憎悪の念を膨らませながら、拳を強く握りしめた。
数時間後、岡賢太の年賀状に書かれていた、△△県◇◇市に到着した。
しかしここで、奈緒は足止めを食らった。
突然、バケツをひっくり返したような大雨が、降り出したのだ。
奈緒は急いで、駅前に停まっていたタクシーに乗ろうとした。
だが運転手に、道が冠水していて危険なので、車が出せないと言われてしまう。
駅前から動けなくなった奈緒は、仕方なく近くの古いホテルに、一泊する事にした。
ホテルのロビーには電話帳と、地図帳が置いてあった。
奈緒は、念のため地図帳を開いて、住所から岡賢太の家を探した。
見つけると、その頁を破り取る。
さらに、ホテルマンに赤ペンを借り、地図上にある岡賢太の家を丸で囲む。
その横に『岡』とまで、付け加えた。
絶対に岡賢太を見つけるという、強い意志が込めて。
翌日、早朝。
雨が上がると奈緒はホテルを後にし、今度こそタクシーで、岡賢太の家へと向かった。
だが、岡賢太の家まであと少しのところで、進めなくなった。
大雨の影響で、川が氾濫しているのだ。
運転手は橋を渡るのは危険と判断し、遠回りになるが、迂回する事を提案した。
しかし、奈緒にしてみれば、一刻も早く岡賢太の家に辿り着きたい。
そこで奈緒はタクシーを降り、徒歩で向かう事にした。
昨日、ホテルで破り取った地図を頼りに、奈緒は岡賢太の家へと向かうのだった。
つづく……
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