第3話……父
例えるなら、光も音も届かない、深い洞窟。
地上から切り離された、別世界。
そんな場所に、二人の男女が閉じ込められて、もうどれくらい経つだろうか。
真一が、消していた懐中電灯を点ける。
無機質に、無感情に、一秒ずつを刻む時計。
それを手に取り、確認する真一。
時刻は夕方、五時過ぎだった。
おもむろに、真一が立ち上がる。
横になっていた奈緒が、チラリと見上げた。
真一は壁に耳を当て、外の様子を伺った。
微かな物音も聴き逃さないよう、目を閉じ耳に集中した。
だが、何も聴こえない。
あんなにうるさかった、蝉の鳴き声さえしない。
それほど深く、土砂に埋もれてしまったのだろうか。
真一は顎を触りながら、考えを巡らせた。
「……んん?」
ある不安が、沸き起こる。
「もしかしたら……でも、どうだろう……?」と、くぐもった声で独り言を呟いた。
横になっていた奈緒が、半身を起こす。
「なに一人で、ブツブツ言ってんの?」
「あ、いや、もしかしたら僕達、酸欠で死んじゃうのかもと思って……」
奈緒が、大きく目を見開いた。
「えっ、何で?」
「土砂に埋もれて、密閉されているからですよ。この部屋の広さだと、もって一日……? でも天井に隙間がありますから、屋根裏の酸素も合わせると、二日……?」
「うそ、マジで?」
奈緒は不安そうに、壁や天井を見る。
「もし息苦しくなってきたら、その可能性は高いですねぇ」
「なにそれ! 私達、超ピンチじゃん!」
「はい。なので、早く救助が来てくれると有難い……」
言い終える前に、真一のお腹が、グゥと鳴った。
「はあ……でも今は、空気よりも、食べ物が欲しいです」
真一は、バナナの皮を全部、食べてしまった事に後悔した。
貴重な食糧。
少しずつ、大事に食べれば良かった。
そんな真一とは対照的に、奈緒の方には、そこまで空腹感は無かった。
もともと少食な上、コーンポタージュの缶には粒が入っている。
僅かだが、食事が取れていたのだ。
真一は何かないだろうかと、薄暗い部屋を、キョロキョロと見回した。
奈緒の側にあるティッシュ箱に、目が止まる。
ティッシュに、醤油をかけて食べようか。
いや、お腹が痛くなりそうだ。
真一が悩んでいると、不意にある映画を思い出した。
「そう言えば……こんな映画がありましたね」
奈緒は返事をしない。
だが真一の発言には、耳を傾けていた。
「実話を元にした映画なんですけど、雪山に飛行機が墜落して、生存者がずっと救助を待っている話です」
すると真一は、不気味な笑みを浮かべて、奈緒を見つめた。
「その人達、食べる物が何もないのに、どうやって生き残ったと思います?」
「知らないよ……鳥でも捕まえたんじゃないの?」
真一はニヤニヤしながら、かぶりを振った。
「飛行機が墜落した時、亡くなった人もいますよねぇ……」
だから何、と言いかけた奈緒が、ハッとして言葉を飲み込んだ。
「……え、まさか」
「そのまさかです。亡くなった人を……いたっ!」
奈緒が、テッシュ箱を真一に投げつけた。
「聴きたくない、気持ち悪い!」
「いやいや、この状況ですからね。ふと、その映画を思い出して……」
すると奈緒が、今一度、ハッとした。
「……え? ちょっと待って! あんた、まさか」
「はい?」と真一。
「まさか、私を殺して食べる気?」
「いやいや、そんな事するわけ……」
奈緒は落ちていたボールペンを拾い上げた。
握りしめると、先端を真一を向けて威嚇する。
「近づいたら刺すよ! 両目つぶすから!」
「いや、大丈夫ですって」
真一が一歩踏み出すと、奈緒は右手に持ったボールペンを振り回した。
「来んなって! サイコ野郎!」
「うわっ、危ない!」
怖くなった真一は、部屋の入り口付近へ撤退した。
しばらくの間、奈緒はボールペンを強く握りしめ、真一を睨み続けた。
さらに時間が経過した。
夜、八時過ぎ。
相変わらず、救助が来る気配はない。
「寝てますか?」と、暗闇の中で真一の声がした。
「……寝てない」
奈緒が答えると、懐中電灯がパッと付いた。
眩しそうに、目を細める奈緒。
「何?」
真一は、申し訳なさそうな顔をしている。
「ちょっと、言いにくいんですけど……」
モジモジする真一。
「だから、何?」
「……おしっこ」
途端に、奈緒の表情が凍りついた。
「……嘘でしょ?」
「あの……隅っこの方で……」
奈緒に背を向けて、何やらモソモソしだした。
「ちょ、ちょっと、やめてっ! 我慢してっ!」
「む、無理ですよ!」
真一は部屋の隅に転がる透明のコップを、素早く拾った。
「じゃ、じゃあ、このコップの中に……」
「マジかよ、コイツ……!」
奈緒は引きつった顔で、後退りした。
しかし、その辺にされるくらいなら、コップの方が方がマシかもしれない。
そう思った奈緒は、我慢する事にした。
「じゃあ、絶対に溢さないで! あと、袋とかで包んで、私の見えない所に置いてよ!」
「は、はひぃ……」
膀胱、破裂寸前まで追い込まれた真一は、情けない声を出した。
奈緒は背を向けて、両耳を塞いだ。
排尿音を、聴きたくなかったからだ。
しばらくして、奈緒が片目だけ開けて真一を見た。
「……終わった?」
真一は「はい、バッチリです!」と、清々しい顔で、コップを持ち上げた。
「だから、見せんなって!」
「あっ、すみません」
真一が、急いでコップをビニール袋で包み、物陰に隠した。
「あの……もう……そろそろ寝ますか?」
真一の声は、尻すぼみに小さくなっていく。
奈緒が、嫌悪感に満ちた目で睨んでいるからだ。
「か……懐中電灯、消します……よ?」
真一は、その目に怯えながら、懐中電灯をそっと消した。
辺りが暗闇に包まれると、疲弊した二人は、静かに眠りに落ちていくのだった。
◇ ◇ ◇
奈緒は夢を見た。
遠い日の記憶だ——
「お父さーん、ただいまー!」
学校から家に帰った奈緒が、快活な声を上げた。
「奈緒か、おかえり」
優しそうな、男性の声が出迎えた。
父親の、白石和夫だ。
コトン、コトンと杖をつき、廊下の向こうからやってくる。
彼は右脚に障害があり、歩行の補助として、杖を使用していた。
「お父さん、夜ご飯、なーにー?」
「今日は奈緒の大好きな、オムライスだぞ」
「わーい、やったぁ! ねぇねぇ、ケチャップは私がかけるからね!」
「ははは、またケチャップで、絵を描くつもりだろ?」
その後、二人はリビングのソファに腰掛けた。
ランドセルを側に置いた奈緒が「あれっ?」と声を出した。
和夫の後方に、目を奪われる奈緒。
今朝まではなかった額が、壁に掛けられていたのだ。
額の中には、奈緒が描いた絵が入っている。
その絵は、三人の人物が描かれていた。
奈緒と父親、そして頭の上に輪っかのある母親だ。
奈緒を真ん中にして、三人が手を繋いで、笑っている。
学校の授業で『家族』をテーマに、奈緒が描いたものだ。
和夫は誇らしげに、絵を眺めた。
「奈緒の絵を飾ろうと思って、今朝、額縁を買ってきたんだよ。それにしても、奈緒は絵が上手だな。とても小学三年生の絵とは思えないよ」
「うん、先生も絵も才能があるって、褒めてくれたよ」
「ははは、良かったな。奈緒は将来、画家になれるかもな」
奈緒は、父子家庭だった。
奈緒が小さかった頃、母が亡くなったのだ。
それは交通事故だった。
奈緒達、三人が乗る車に、居眠り運転の大型トラックがぶつかってきたのだ。
助手席の母は亡くなり、運転席にいた和夫も大怪我をした。
その時、後部座席のチャイルドシートにいた奈緒は、幸運にも軽傷で済んだ。
事故後、右足が麻痺した和夫は、杖をつくようになった。
だが仕事自体に、支障はなかった。
彼は、そこそこ売れている小説家だった。
主に仕事は、自宅の書斎で行っている。
これは、足の不自由な和夫にとって、不幸中の幸いと言えよう。
そんな彼の執筆活動は、いつも締め切りに追われる日々で大変だった。
それでも和夫は、奈緒と過ごす時間を何よりも大切にした。
母親のいない淋しさを埋めるべく、たっぷりと愛情を注ぐよう、心がけたのだ。
そんな仲睦まじい父娘に、突然の悲劇が訪れる。
昭和から平成へと元号が変わった、1989年、一月の事だった。
深夜、二階の自室で眠っていた奈緒は、ある異変に気付き目を覚ました。
目をこすりながら見たカーテンが、妙に明るい。
ほのかに、焦げ臭い匂いもした。
「奈緒ぉぉぉ!」
突然、父親の大きな声がした。
驚いた奈緒がベッドから飛び起きた。
すぐに部屋のドアを開ける。
その瞬間、奈緒は咳き込んだ。
モクモクと、煙が立ち込めていたのだ。
奈緒は、パジャマの袖で口元を押さえながら、灯りの点いた階段へと向かった。
その灯りも、煙のせいで薄暗い。
得体の知れない恐怖に怯えながら、奈緒は階段の下を覗いた。
杖を脇に抱えた和夫が、手すりを使いながら、必死に登ってくる。
「お父さん、どうしたの?」
不安そうに、奈緒が声をかけた。
「奈緒! 火事だ、火事!」
「えっ!」
「もう一階は駄目だ! 二階の窓から、外へ逃げるんだ!」
和夫は、奈緒の部屋に入った。
その瞬間、ガシャーン! と窓ガラスが割れた。
火の熱に、窓ガラスが耐えられなくなったのだ。
途端に、火はカーテンへと燃え移った。
「うわっ、だめだ!」
和夫は、他の部屋も確認したが、火の勢いは激しく、中に入れなかった。
切羽詰まった状況に、戸惑う和夫。
唯一、南側に位置する個室のトイレだけが、燃えていなかった。
「こっちだ! 奈緒!」
和夫が、奈緒の小さな手を引っ張った。
個室に入ると、ドアを閉める。
和夫は、便座の上に位置する小窓から、外を覗いた。
遠くから、消防車のサイレンが聴こえた。
続いて、激しく回転する赤色灯も見えた。
やがて家の前に、何台もの消防車が到着する。
和夫は、小窓のガラス戸を外すと、そこから外に顔を出した。
「消防士の方! こっち、こっち!」
車から降り、消火活動をしようとした消防士が、二階から叫ぶ和夫に気付いた。
和夫を指差し、周りの消防士に話しかけている。
和夫は、再び叫んだ。
「女の子がいるんです! この子を、お願いします!」
消防士の一人が、和夫に声をかけた。
「そこで待っていて下さーい! すぐに行きます! 煙は吸わない様に!」
するとハシゴ車が動き出した。
この小窓へと、ハシゴを伸ばすのだろう。
和夫は「よかった……」と小声を漏らし、手の甲で汗を拭った。
そして和夫は、奈緒の両肩に手を置いた。
慰めるように、優しく言い聞かせる。
「奈緒、今から消防士さんがハシゴで、ここに来るからな。この窓から出るんだよ。いいね?」
「う……うん」
奈緒は、憂いを含んだ瞳で、父親を見上げた。
そんな奈緒の頭を優しく撫でると、和夫は外を確認した。
伸びたハシゴの先端部にある、四角いバスケットに、一人の消防士が乗っている。
和夫は叫んだ。
「この子を、お願いします!」
そう言って和夫は、奈緒を持ち上げた。
便座の後ろにあるタンクへ、奈緒の両足を乗せる。
次に、お尻を押して、小窓から奈緒を外へ出そうとした。
小窓から頭を出した奈緒は、心配そうな顔で振り向いた。
「お父さんは?」
和夫は、とっさに笑顔を作った。
「奈緒が出た後に、お父さんも行くから」
その時、消防士が小窓へと辿り着いた。
「ほら、君、もっと手を伸ばして!」
奈緒は言われるがまま、両手を伸ばし、消防士の腕を掴んだ。
消防士は、奈緒の両脇を抱えると、ひょいと持ち上げた。
そして奈緒は、消防士のいるバスケットへと降り立った。
——あれ?
奈緒は小窓を見て、おかしな事に気付いた。
この窓の大きさでは、父親が出られない。
「お父さーん! どうやって出るのー?」
その時、一段と強い風が吹いた。
火の勢いが増す中、和夫が消防士に叫んだ。
「消防士さん! 早く、行って下さい!」
和夫の言葉を聞いた瞬間、奈緒の心臓は止まりそうになった。
「……お父……さん?」
消防士は、苦渋に満ちた顔をした。
和夫に、かける言葉がなかったのだ。
完全に火に包まれたこの状況で、もはや彼を救う術はない。
沢山の消防士が消火活動をしているが、消し止めるには、まだ時間がかかるだろう。
消防士は、申し訳なさを噛み締める様に、唇を強く結んで目を伏せた。
その時、和夫は目を赤くさせながら、優しく奈緒を見つめた。
「奈緒……お父さんの分も、生きろよ。幸せになれよ」
奈緒の大きな目から、涙が溢れた。
「嫌だよぅ! お父さんも一緒に、逃げようよ!」
「奈緒、無理なんだよ。この窓じゃあ、お父さん、身体が大きくて出れないんだよ!」
「嘘つき! 一緒に出るって言った! あーん、お父さーん!」
奈緒は手すりに、よじ登ろうとした。
「お父さんが残るなら、私も残る!」
「何、馬鹿な事を言ってるんだ!」
奈緒が、手すりの上に足を置くと、トイレの小窓に戻ろうとした。
慌てて、消防士が奈緒を捕まえる。
しかし、奈緒は消防士の腕の中で、狂ったように暴れた。
消防士の顔も掻きむしった。
「いたたっ!」
消防士が怯んだ隙に、再び手すりによじ登る奈緒。
なんと、小窓へと飛び移ってしまった。
奈緒は、小窓から上半身を入れて、中へ戻ろうとした。
「こ、こら、奈緒!」
慌てた和夫が、それを制した。
「嫌だぁ! 嫌だぁ! お父さんと一緒にいるぅぅぅぅ!」
和夫は奈緒が落下しないよう両腕を掴んだ。
それと同時に、中に入ろうとするのも阻止した。
燃え盛る炎の中、小窓を挟み、父娘は抱きしめ合う格好で、お互いの腕を掴んでいる。
和夫は、汗と涙を流しながら、奈緒を見つめた。
その顔色は、良くない。
疲労困憊だった。
背中に、熱も感じた。
背後にあるドアまで、火が迫ってきているのだ。
和夫は、震える唇を舐めた。
「もう駄目なんだよ……奈緒。このままだと、二人とも死んじゃうぞ……」
「……お父さんさんがいないなら、生きてても、しょうがないよぅ! 私も一緒に死ぬぅ!」
「馬鹿な事を言うなよ……奈緒……」
和夫が祈る様に、目を閉じた。
その時、消防士の両手が、奈緒を後ろから掴んだ。
ハシゴが、小窓へと戻ってきたのだ。
それに気付いた和夫が、消防士に叫んだ。
「消防士さん、奈緒を……この子を! 早く!」
「嫌だぁぁぁ!」と、泣き叫ぶ奈緒。
消防士は、力のある三十代の男性だったが、どれだけ奈緒を強く引っ張っても、離れなかった。
まるで、くっついたように動かないのだ。
消防士は驚いた。
こんな小さな身体の、どこにそんな力があるのだろうかと。
消防士は、より一層力を込めた。
とうとう奈緒は、引き剥がされてしまった。
さすがに、大人の力には勝てなかったのだ。
「嫌だぁぁぁ! 離してぇ!」
奈緒は、消防士の腕に噛み付いた。
しかし、消防士が着る防火服は、素材が厚手のため、痛みを与える事は出来なかった。
ハシゴが、家から離れていく。
奈緒は遠くなっていく父親に、届かない手を伸ばした。
「お父さーん、お父ざーん、お父ざぁーん……! お父ざぁぁぁぁぁぁぁぁん……! ああああああああああああああああああ!」
消防士に、ガッチリと胴体を掴まれ、泣き叫ぶ奈緒。
和夫は、無理に微笑んで、口を動かした。
その瞬間、フッと雑音が消えた。
奈緒は、時間が止まったような気がした。
「奈緒が……道に……ずっと……からな」
父親の、最後の言葉。
しかし奈緒には、聞き取れなかった。
いや、聞こえてはいた。
だが心が拒絶してしまったのだ。
——言わないで……。
言わないでよ……。
お父さん……。
お別れの言葉なんて……言わないで……。
もう耐えられない。
奈緒の意識が、もうろうとする。
底無しの闇に堕ちていくようだ。
やがて奈緒は、涎を垂らしながら、消防士の腕の中で気絶してしまった。
白石家は全焼した。
火が消し止められたのは、消防車が到着して、約三時間後だった。
和夫の遺体は、一階のリビングで見つかった。
彼は燃え盛る炎の中、一階へと降りたのだ。
それはなぜか。
リビングに飾っていた額を、手にするためだった。
死を覚悟した彼は、奈緒が描いた家族の絵を、最後に抱きしめていたかったのだ。
つづく……
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