第2話……食
懐中電灯の灯りしかない、仄暗い部屋。
密閉された熱気、畳の匂い。
そして無言の二人。
まず沈黙を破ったのは、真一だ。
「今、何時かな……」
真一は呟いて、畳の上をミシミシと歩いた。
床に転がる置き時計を、拾い上げる。
時刻は午前、八時半。
この状況になって、一時間以上が過ぎた事になる。
真一の背中に、奈緒の声が飛んできた。
「ねぇ、喉乾いたんだけど」
「え、あぁ、飲み物ですか?」
真一はキョロキョロと、部屋の中を見回した。
醤油のボトルがあった。
昨夜、ここで冷奴を食べた時に使用した物だ。
醤油は、五百ミリリットルのペットボトル容器に、半分ほどが残っている。
「醤油ならありますけど……」
途端に、奈緒が顔をしかめた。
「はあ? ふざけてんの?」
「でも、他に無いですよ」
真一は再度、部屋を確認した。
「あっ、そう言えば……」
何かを思い出した真一は、押し入れを開けた。
押し入れは、上下二段になっている。
上段には布団、下段には掃除機や映画雑誌、小物類などがある。
真一は、下段に身体を突っ込むと、ガサゴソと何かを探し始めた。
そして、一本の缶ジュースを取り出した。
コーンポタージュだった。
「これ、どうぞ」
「え? なんで、夏にコンポタ?」
「でも、これしかないですよ」
「……じゃあ、それでいいよ」
仕方がないと、缶を受け取る奈緒。
「それ、冬に一ケース買ってたんですよ。確か一本だけ残ってたような気がして……」
知らねーよ、と心の中で呟いた奈緒が、缶のプルタブを開けようとした。
しかし、奈緒の長い爪では、なかなか開けられない。
「開けましょうか?」と、真一が気遣った。
奈緒は掌を向け、真一を寄せ付けない。
「いいって、来ないで。醤油でも飲んでなよ」
「そうですか、分かりました」
真一は、先ほどの醤油ボトルの蓋を開けた。
そして、勢いよくガブリ、ゴブリと喉に流し込む。
「うっぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その直後、真一は断末魔の叫び声を上げた。
畳の上を転がり、何度も咳き込んだ。
「ガハッ、ゲホッ、ゴホッ!」
奈緒が吹き出した。
「アハハハッ。あんた馬鹿だねー。醤油なんか飲めるわけないでしょ? 本当に先生なの?」
真一は、少し辛いくらいだろうと予想していたが、とんでもなかった。
まるで猛毒だ。
とんでもないほど、辛くて苦い。
結局、真一は、ほとんどを吐き出してしまった。
「きったなー」
奈緒は、汚物を見るような目で真一を見た。
「水で薄めないと飲めませんよ、こんなの。水、持ってませんか?」
「水があったら、コンポタなんか貰わないって!」
「コ、コンポタ……」
そう呟いた真一が、奈緒の持つコーンポタージュの缶を見つめた。
真一からの熱視線に気付いた奈緒が、缶を背中に隠す。
「これは、返さないからねっ!」
「う、ううぅ……」
真一は、残念そうに唸った。
「はあぁぁ」
とうとう真一が、大きな溜息をついた。
「くっさ! ちょっとぉ、醤油くさいんだけど! こっち向いて息しないでよ!」
鼻と口を押さえた奈緒は、生ゴミを見るような目で真一を見た。
「え? ああっ、すみません。別にわざとじゃなく……」
「喋んなって! 向こう行って!」
奈緒が片足を上げて、蹴り飛ばす様な動作をした。
四時間が過ぎた。
部屋の入り口付近で、体育座りをしている真一が奈緒を一瞥した。
奈緒は部屋の奥で、背を向けたまま寝転がっている。
真一は、視線を時計へと移した。
まもなく正午。
「……お腹、空きましたねぇ」
真一は、続けて言った。
「朝、何か食べました? 僕はバナナと、バナナチップスと、あとバナナジュース……」
「……猿かよ」
奈緒がボソリと呟く。
「でも、バナナには栄養が……」
「黙って」
奈緒の不機嫌な声に、真一の言葉は遮られた。
言いかけた言葉を飲み込んだ真一は、代わりにフゥと吐息を吐いた。
その数秒後、真一が叫んだ。
「ああぁーーっ!」
「うるさいって! 急に大声出さないでよっ!」
「そうだ! 食べる物あります!」
「えっ……本当?」
真一が、一心不乱にゴミ箱を漁り始める。
「これこれ!」
そして取り出した物。
それはバナナの皮だった。
「は?」
奈緒が眉根を寄せた。
「さっき、バナナの話をしたでしょう? それで思い出したんですよ。そういえば、皮をゴミ箱に捨てたなって」
「……マジかよ、コイツ」
奈緒は、呆気に取られた。
そんな奈緒に、バナナの皮を差し出す真一。
「半分、食べます?」
「食べるわけないでしょ」
「えっ、でも、貴重な食糧ですよ」
「いらないって!」
奈緒は、ハエを払うように手を振った。
「そうですか? じゃあ僕、食べますね」
真一はバナナの皮を、ハグハグと食べ出した。
奈緒はその一部始終を、夜道にある嘔吐物を見るような目で見た。
「なんかもう……猿以下だね、あんた」
「しょうがないですよ。緊急事態ですから。でも思ったほど不味くないですよ。ちょっと苦いですけど」
ウンザリした奈緒は、元いた場所へと戻った。
さらに、三時間が経過した。
何もする事のない二人は、畳の上に寝転がるだけだった。
真一の提案で、懐中電灯は消してある。
電池の消費を防ぐためだ。
パチリ。
その懐中電灯を、真一が点けた。
「あの……」
真一が半身を起こし、奈緒に問いかけた。
「寝てるんですか?」
「寝てない」
真一に背を向け横になる奈緒が、面倒くさそうに答える。
「そろそろ、お名前、教えて頂けませんか?」
真一を無視するように、奈緒は欠伸をする。
「お互いの名前くらい知らないと、コミニュケーションが取りづらいじゃないですか」
「別に、私はあんたとコミニュケーション取りたくないんだけど」
「でも……」
「しつこい!」
奈緒が怒鳴った。
真一は仕方なく、沈黙する。
しばらくして、奈緒は観念したように、半身を起こした。
名乗らなければ、きっとまた真一が訊いてくると思ったからだ。
「……奈緒。白石奈緒。十九歳。これでいいですかー?」
奈緒が投げやりに言う。
真一は満足したように、微笑んだ。
「奈緒さんですか、良い名前ですね」
「はい、どーも」
奈緒は無表情で答えると、テッシュで顔の汗を拭った。
「それにしても、本当に蒸し暑いですよね。僕も汗っかきなんで、シャツが身体に貼り付いて……」
真一は言いかけて、言葉を詰まらせた。
奈緒の濃いメイクがとれて、素顔が露わになったからだ。
キリッとした、芯の強そうな瞳。
形の良い鼻筋、魅力的な唇。
日本人ばなれした顔立ちは、ハーフのようだ。
真一は呼吸を忘れ、見惚れた。
こんな美人を見た事がない。
犯罪者のような目で近づく真一に、奈緒は警戒した。
「えっ、ちょっ、何?」
「奈緒さんて、もしかして芸能人の方ですか? モデルとかやってます?」
「はあ? やってないけど。てか顔が近いって、キモい!」
「ああっ、すみません!」
真一は身を引いた。
しかし、それにしても美人だ。
なぜ、ガングロメイクをするのだろう?
せっかくの美しい顔が、勿体無い。
真一は、そんな事を考えながら、首を傾げた。
真一が元いた場所に戻ると、奈緒から話しかけてきた。
「……親、いなくて良かったね」
「えっ?」
「あんたの親、旅行に行ってるんでしょ? 山崩れに巻き込まれなくて、良かったねって言ってんの」
「確かに……」
真一は、神妙な面持ちで頷いた。
奈緒は、話を続けた。
「私達は、土に埋まっちゃったけどね。この事を知ったらビックリするだろうね、あんたの親」
「そうですね……」
真一は相槌を打ちながら、奈緒を見た。
「奈緒さんのお父さんとお母さんも、奈緒さんがこんな状況にいる事を知ったら、さぞ心配するでしょうね」
その時、奈緒の表情が固まった。
顔を伏せ、一点を見つめた。
明らかに表情が曇っている。
「あれ、奈緒さん? どうかしました?」
「ん……別に……」
つづく……
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