終章

第40話 2020年8月1日。「俺は、この世界から死んだ...」

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8月1日。

目を開ける。焦点が合わなくて目が霞む。

誰かの人影が見えて何か叫んでいる気もするが、すごく篭って何を言っているのかわからない。

それに身体を起こそうとしても、なかなか言うことを聞かない。力を入れているつもりだが、なぜか腕が上がらない。

ああ、そうか。本当の世界に戻ってきてしまったんだな。

小雪は、もう…

小雪が、消えてしまったことのダメージは想像以上に大きかった。小雪が実際にいないと思うと、生きる気持ちが薄れていく。思考する気力も、生きる気力も、人生さえ、何もかもがどうでも良かった。もう、このまま身体が動かないで死んでもいいと思った。身体が動くなら誰か殺してくれとも思う。

俺は、この世界に生きる理由を...失った。

そんな中でも小雪との思い出は鮮明に頭の中に残っていた。ああ、やっぱり無理だよ小雪。小雪がいない世界なんて、なんのために存在しているんだ。俺の人生なんて小雪がいないと、なんのためにあるかわからないよ。

俺はこれからどうすれば良い?教えてくれよ小雪…


目が覚めてから少し時間が経った。目も少し見えるようになり、身体も動かせるくらいには戻った。

俺は、病院にいた。

カレンダーは、小雪との日々を否定するように8月1日を示していた。前回は6月1日だったから、2ヶ月間病院で寝ていたことになる。そんな中、ふと窓の方を見ると見たことのある人がこちらを心配そうにこちらを見ている。

「小雪…小雪なのか?」

まだ目が霞んでいた俺は、そう錯覚してしまう。

「ごめんなさい」

小雪じゃない。

「なあ、小雪はどこにいったんだよ。俺の小雪を返してくれよ…」

その人の肩を大きく揺らす。

「お願いだから、頼むよ」

「ごめんなさい」

「小雪の毎日を、幸せをなんだと思っているんだよ」

「お兄ちゃん、落ち着いて」

「小雪を返してくれよ。君ならできるだろ?。君の中に小雪がいるんだろ?お願いだから返してくれよ…」

「ごめんなさい…」

「もう俺に近づかないでくれ…顔も見たくない」

この人にぶつかっても、起こった事実は変わらない。でも、小雪の幸せを無碍にしたこの人は許せなかった。

「どうしたのお兄ちゃん」

妹が俺に話しかけてくる。1年ぶりだろうか。

「私が悪いんです」

「そんなこと」

「いえ、いいんです。私の責任です。だから、湊音くんは私が責任を持って預かってもいいですか?。お願いします」

「でも、またいつ襲われるかわからないです。危険ですよ。望月さんは、何もしてないでしょ?。お兄ちゃん久しぶりに目が覚めて少しおかしいんですよ」

「それでも、お願いします。もう一人の私のことは、私の責任です」

「もう一人?」

「お願いします」

「望月さん顔を上げてください。わかりました。親にも事情は伝えておきます。兄をよろしくお願いします」

「はい…。ありがとうございます」

そうして死んだようにあの人に連れられて、病院を後にする。

「自分で歩ける。俺に触らないでくれ」

「ごめんね。そう、だよね」


病院にいる妹に別れを告げて、あの人の家に当たり前のように入る。

1ヶ月間ここが俺の家だった。居場所だった。だから、足は勝手にこの家に動いていた。

小雪が、笑顔で「おかえり」って言ってくれるんじゃないかって思ってしまう。また、帰ってきて笑顔で抱きついて迎えにきてくれるんじゃないかって。幻想の話をつい思い出してしまう。

でも現実は、小雪の家とは全く違う。この家での思い出も、小雪も全部消えてしまったんだな。

「湊音くんまって!」

そんなことを考えると、もうこの人生に絶望感しかなかった。

大切な人に2度と会えない。あの笑顔が見れない苦しさは誰にも理解できないと思った。

だから俺は、心の蓋を閉じるように部屋のドアに鍵をかけた。もう無理だ…


それから何時間が経ったのだろうか。目が覚めると、あたりは真っ暗だった。

部屋は、月明かり以外の光はなく真っ暗だった。

「湊音くん、お腹空いてるよね?ご飯ここに置いておくね」

『コトン』とドアの前にお盆が置かれる音がする。

「私の顔なんてもう見たくないと思う。私は、小雪さんの偽物だから。私を許して欲しいなんて言えない。でも、少しお話がしたいの…湊音くんに謝りたいの。だから私、待ってるね。本当にごめんなさい…」

うるさい。うるさい。

もう一人にしてくれよ。

「ご飯食べてね」

足音がどんどん離れていく。

謝罪なんていらないから。小雪を返してくれ…それだけでいいから…

腹が減っていた。あの人が使ったものを口にしたくなかった。

でも、人間は何も食べないと死ぬ。

俺は、ドアを開けて食事を受け取る。

箸を持って、おそるおそる料理を口に運ぶ。でも、その料理は、喉を通ろうとしなかった。

小雪とおんなじ見た目で、小雪じゃない。俺は、あの人を本能的に拒絶していた。

だからそんな人が作った料理を身体が拒否していたんだ。


8月2日。

何も考えず、動かず今日も夜がくる。

「昨日の料理おいしくなかったよね。ごめんね。今日は、湊音くんの好きなものにしたんだ。少しだけでもいいから、食べられたら食べてみて欲しいな。お腹空いちゃうよ…。今日も、ここに置いておくね」

昨日に増して腹が空いていた。人間は3日食べていないと死ぬというが、もう2日目だ。

今日の料理は、栄養バランスもバラバラで俺の好きなものばかりだった。でも、今日もこの料理は喉を通らなかった。

あぁ、こんな時は、小雪の手料理を食べたい…。俺のために、頑張って作ってくれた小雪の味。

恋しいよ…。


8月3日。

また、気づいた時には夜だった。あの人の声が聞こえて正気に戻る。

「今日は、コンビニのご飯も買ってきたよ。そうだよね。私の料理は食べたくないよね。気づいてあげられなくてごめんね。私の料理と、コンビニのご飯、2つ用意しておくから、今日は食べられる方を食べてみて。お願いだから、少しだけでもいいからご飯食べてね」

一日中、腹が減って、胃が痛くて頭がおかしくなりそうだった。

足音が去っていくのを確認して、たくさん用意されたコンビニのご飯をひたすらに食べる。

久しぶりの飯だった。でも、味は感じなかった。

今の俺にとって食事は、生きるための手段でしかなかった。しなければいけないから食べているだけ。

本当は、もうなにも考えたくもないし、動きたくもなかった。


9月1日。

あれから、1ヶ月近くが経って夏が終わった。

この世界での夏は、あっさりと終わった。

俺は、ひたすらに食べては、無心になってを繰り返し部屋に篭り続けた。

最近は、扉越しにあの人がよく話しかけるようになった。

でも、心底どうでも良かった。内容は何も覚えていないし、聞こうともしていない。 

小雪以外とはもう話したくもなかった。俺は、何ヶ月も言葉を発していないから、もう喋り方さえ忘れた。

希望も人生の意義も全て失った。

そんな俺は、魂のない抜け殻のようだ。

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