晩ごはんは簡単なもので
尾八原ジュージ
簡単なものにしろって言ったでしょ
その日は夫が出張に行き、在宅しているのは私と、同居の姑のみであった。
「ミチコさん、今日の晩ごはんは簡単なものにしてちょうだい」
姑がそう注文をつけたので、お望み通り簡単なものをお出しすることにした。
夕食時、炊飯器から丼に白飯を盛りその上に生卵を割り入れようとした私に、姑は猛烈な勢いで「ストーップ!」と声をかけた。
「なんでしょう、お義母さま」
「ミチコさん、私さっき何て言った?」
「晩ごはんは簡単なもので、と仰いました」
だからこうして簡単なものを提供しようとしているのである。そう、卵かけご飯を。
ところが姑は私の言葉を聞くと、天井を向き喉を震わせて高笑いを始めた。
「オーホホホホホ! 簡単!? 簡単なものですって!? これから貴女が何をするつもりだったか、見せて御覧なさい!」
「……いいでしょう」
私は白飯の上に生卵を割り入れた。今日スーパーで買い求めたばかりの新鮮な、プルプルの卵である。それに醤油を数滴かけ、呼吸を整えると、清潔な菜箸で一気にかき混ぜた。
「ストーップ!! 調理!! これは調理だわーっ!!」
姑の声がダイニングに響き渡った。私は思わず菜箸を取り落すところであった。
「調理ですって……? この最低限の作業が……!?」
「ええそうよ。あなたがやっていることは調理――立派なひと手間だわ。そもそもお米を炊くところからして……手間よ! まぁそれはあとで美味しくいただくとして、いいこと? 見てらっしゃい!」
姑は勝ち誇った顔でそう言うと、ムーンウォークでパントリーへと消えた。十秒ほどして小粋なステップと共に出てきた彼女が手に持っていたのはなんと、チンするだけで食べられるパックの白飯――そして、小袋に入ったふりかけではないか!
「何……ですって……!」
そのとき私を襲ったのは、猛烈な悔しさであった。なんということだ。これ以上簡単なご飯があるだろうか。あるとすればチンした白飯をそのまま食べるくらいだが、私も姑も何かしら味がついたものが欲しい派である。
つまりこれが究極の「簡単なもの」……!
「ククク……更にこれをこのパックのまま食べれば、洗い物も省けるという寸法よ!」
姑は勝ち誇った高笑いをあげ、パックご飯の端をつまんだ。しかし、ここで予想外の出来事が起こった。
開かない。
何ということであろう。チンする前にパッケージの端っこを点線まで開かねばならないというのに、その端っこがなぜかまったく動かないのだ。
「うぬうううぅぅぅ」
姑は髪を振り乱し、落ち武者のような唸り声をあげて、パックご飯の蓋を開けようとする。が、なおも開かない。メーカーにクレームをつけた方がよさそうなレベルで微動だにしない。
私は愕然とその光景を見た。おお、我が姑を見よ。明らかに面倒くさいことになっているではないか。最早ひと手間どころの騒ぎではない。私が米を炊き生卵をかき混ぜるよりももっと強いストレスが、彼女を苛んでいるではないか。しかし。
「うおおおおお」
姑は一向に諦めようとしないのである。
いつしかダイニングには熱気が満ちていた。「私が考えた最も簡単なもの」を今この食卓に顕現させんという強い意志。これこそが人間の矜持というものではないのか――いつの間にか私は両の拳を握りしめていた。
「がんばれお義母さま! がんばれ!」
溢れる気持ちは自然と声援となり、唇から迸った。目から熱い涙が零れた。
姑は私を見た。その目には確かな光が宿っていた。彼女は力強く頷いた。
「ウオオオオオーーーッ!!!」
姑は雄叫びをあげ、最後の力を振り絞って右手の親指と人差し指とでパッケージの端っこのピラピラした部分を引っ張った。
ビッ、という音が聞こえた。
呆然と立ち尽くす姑の指には、赤と白のビニール片が挟まっていた。
千切れたのだ。パッケージの端っこのピラピラが。
呆気ない幕切れであった。
詰みである。この上はキッチンバサミなどを使って対処することになるが、「なんか負けた感」を伴う作業となることは必至であった。
「あああーーーっ!!!」
姑はキッチンの床に両膝をつき、号泣した。私も泣いた。涙が後から後から頬を伝った。
しかしそんな時間も長くは続かず、やがて姑は立ち上がり、私の手を取った。
「完敗よ……今日この状況においては、あなたの卵かけご飯がもっとも簡単なものだった……」
「お義母さま……素晴らしいものを見せていただきました」
私達は握手を交わした。
そして丼に好き放題白飯をよそい、生卵に醤油のみならず胡麻油、麺つゆ、鰹節、白胡麻、キムチ、柚子胡椒、ひきわり納豆など、欲望のままにちょい足しを試みたのであった。
「ミチコさん、明日はウーバーイーツにしましょうか」
「そうね、お義母さま」
晩ごはんは簡単なもので 尾八原ジュージ @zi-yon
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