第4話 狂気によって正気(理性)を得る

 仏映画「恐怖の報酬」(1953年)とは、油田で起きた大火災の消火に使うため、大量のニトログリセリンをトラックで運ぶという物語。


ニトログリセリンとは、無色油状の液体で強力な爆発力を持つ、ダイナマイトの原料なのですが、この爆発力が消火に利用される。また、血管拡張作用があるので狭心症の特効薬に用いられる。「毒を変じて薬と為す」です。

しかし、この液体は振動を与えると大爆発を起こすため、その輸送には細心の注意が必要となる。まるで、眠った赤ん坊を起こさないようにして、トラックでこの液体を火災現場まで運ぶという恐怖を描いた映画です。


日本拳法とは、この意味でまさに「ニトログリセリン」。「本気でぶん殴る」という狂気が雑念を吹き飛ばし、人の正気を呼び覚ますからです。


子供の時から「危ない橋を渡る」のは好きでしたが、また、仲間がドジで落ちたこともありましたが、ガキの遊びとしての「危険」ではなく、社会人として何千万・何億という単位のビジネスをするには、かなり際どい橋を渡らねばならないこともあります。

その死ぬか生きるかの瀬戸際で、私の場合、大学日本拳法で鍛えた「狂気/正気」が、大いに役に立ちました。


大学時代、私の日本拳法とは、5段階評価で自己採点すると、体力4・知恵1・技術1・根性5でした。知識や教養なしということですが、それでも、というか、むしろそのお蔭で気楽に人にものを尋ね、あまり深く物事を考えず気軽に行動できました。


私の勤務した会社は総合商社の子会社だったのですが、財務・法務(子会社・親会社)、コンピューター・半導体の技術(子会社)と、知識・知能・技術の部分は様々な情報源・情報網を活用できたのです。 米映画「マネーボール」で、球団のGMビリービーンが、ピーターブランドというエール大卒の優秀な参謀を手にして、それまでにない画期的な手法で野球を面白くすることができたようなものです。


私は今大会の観戦に於いて、隣り合った互いに見も知らぬ同士ですが、この女性の発する「超本気・超真剣な声援」に「狂気=正気」を感じました。「エエッ ? 何だよ、この子は !」という驚き・怒りが、しかし、次の瞬間、私の中で尊敬・尊崇に変わったのです。


********************************


  本当に真剣になってやっていることは、時に周りの人にとって狂気に映るものですが、いつか理解してもらえる時が来る。

  私自身、それを大学卒業後に勤務した会社で経験しました。

はじめの1.5年間は煙たがられ、遠ざけられていましたが、その後の3.5年間は百八十度転換し、神様・仏様の如き扱いに変わりました。「24時間営業」「狂人」と揶揄された営業スタイルによって、他の営業マンの3~4倍の売り上げ・利益を上げていたからです。同じ「一歩を置く存在」といっても、嫌悪ではなく尊敬・尊崇によって「近づきがたい存在」となったのです。


  そんな「狂気/正気」を経験してきた私ですから、今大会の女性に限らず、一瞬でも「狂気」に見える人やものがあると、その裏にある真実・正気を感じて嬉しくなります。   

  moderate(穏健な、程度が中くらいの、普通の)ではなく、insane(正気とは思えない)くらい、突出した・突飛な人間というか、そういう人(の一面)を見ると、在来種日本人を感じることができるからです。


  私の狂気がずば抜けていたのは、親会社の○○にも、こんなクレージーな営業マンはいないと、親会社で会社全体を見る立場にあった方から評価されるほど絶好調の時でさえ、正気を保っていたことです。

  なにが狂気/正気であったかと言えば、その絶好調の時に結婚をしなかったことです。

  浪人時代10回も読んだ「坂の上の雲」の主人公(の一人)秋山好古(陸軍大将(1859~1930))の、「結婚は男としてやりたいこと・やるべきことをやってからするもの」「若いときは何をしようかと言うことであり、老いては何をしたか、ということである」つまり、やることをやってから結婚すべき、という考えに共鳴していたからです。

  そのおかげで、その後の私の人生の幅は広がりました。

  年に2度は海外旅行をしている裕福なドイツ娘と結婚してドイツに住む、金持ちの未亡人と結婚してアメリカのシリコンバレーにある邸宅に住む、南米に移住して一財産築いた日本人の一人娘と結婚して南米に住む、なんていう、(当時は大したこととは考えていませんでしたが)今から考えると夢のような選択肢が生まれました。


  しかし、1980年代の日本とは今の韓風日本に比べ「全くちがう国」というくらい、素晴らしい国でした。ですから、そんな日本に未練があったし、第一、ドイツやアメリカへ行って「なにをやるか」という計画もビジョン(見通し)もないのに、ただ女性と一緒に生活しても何の意味もない。

  そこで、アメリカ駐在から帰って1年間考え、禅寺(大徳寺)で(雲水として)日本文化を体得し、半年後に南米へ行こうと考えたのです・・・。


  そうして月日は流れ、今や、スーパーのオネエちゃんをからかう(からかわれているのは私か)程度の「つましくも楽しい、地味な人生の終焉」を迎えようとしているわけです。


 まあ、あの世で閻魔さまを楽しませる物語は山ほどあるので、最終的に閻魔さまの娘と一緒になり、次の人生まで過ごすことになるのでしょう。

閑話休題。


◎「寸止め」に理性はあるか?

空手や少林寺の、顔面攻撃に於ける寸止めという殴り方には理性があり、日本拳法の思いっきりぶん殴るという行為には理性が無い、のだろうか。

私は逆だと思います。寸止めというのは迷いがあるから判定が難しい(真理に突き抜けない)。日本拳法の場合、打った自分と打たれた相手、それをミクロで見る審判、マクロで見る観客という4人(副審を入れれば6人)の判断が、面突きの相打ちというのは微妙な時もありますが、概ね一致します。

事実・真実・真理が明確なのです。ですから、知性・悟性・感性といった余分な要素が排除され、「ぶん殴り合いの繰り返しによって」透明感のある理性を磨くことができる。


空手も少林寺も、長い歴史と実績のある優れた武道・スポーツです。

ただ、「寸止め」と「思いっきりぶん殴る」という点に於いては、様々な見方・評価が生まれるのは致し方ないことです。善悪の問題ではなく、むしろ好き嫌いの範疇に入るかもしれませんが、寸止めで涵養できるのは、理性ではなく悟性ではないのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る