つながる声

青樹空良

つながる声

 道路に面している部分は全面がガラスになった壁。そこから、穏やかに夕方の光が差し込む。少しこもった、ふわりと香る本の香り。コンクリートの床なのに、寒々しさは感じない。

 本の詰まった木の棚に、ぐるりと囲まれている安心感。広い店内でないからこそ、シンプルな作りでもどこか暖かいのかもしれない。

 カウンターの中には本を読んでいる店主の姿。

 その店にはいつもラジオが流れている。決まった時間に流れる時間を告げる電子音。穏やかにお便りを読み上げる声。流行りの歌。ずっと昔に聴いたことがある気がする、流行っていたであろう歌。落ち着いたクラシック。

 時折ノイズが混じる。

 なにしろ、有線でもなんでもなく、その音は古いラジカセから流れているのだから。


「店を閉める」

「え?」


 思わず僕の口から声が漏れた。

 父の言葉が理解出来なかった。というより、一瞬で解ってしまったのだが解りたくなかったといった方が言った方がいいのかもしれない。


「閉めるって、まさか閉店するってこと?」

「店を畳むってことだ。今日早じまいする訳じゃない」


 父がお前は昔から理解力が足りん、なんてぶつぶつ言っている。

 いつものように流れているラジオがやけに遠くに聞こえる。穏やかな女性の声。


「俺も、もう歳だからな。いつまでもは無理だろう? ここらで引退しようかと思ってな」

「……」

「なんだその顔は。お前だって仕事があるし、昔みたいに店番任せるわけにいかないだろ。この家に住んでもいないくせに」

「それは……、そうだけど」

「継がせる気もないと前から言ってたろ。個人の書店なんてこれからの時代なぁ」

「でも、この店は母さんの……」


 言ってしまってから口をつぐむ。父の顔が険しくなる。


「このご時世にせっかく就職できたんだ。間違っても継ぐとか言うんじゃないぞ。こんな小さな店で食っていける訳がない」

「……帰る」

「あ?」

「また、来るから」


 僕は父に背を向ける。


「全く、本当にろくに会話も出来ないやつだな」


 背中越しに父のあきれた声が聞こえた。




 ◇ ◇ ◇




 狭いアパートの中で、僕のため息が静かに響く。

 口下手で言いたいことがいつも言えない。

 子どもの頃から父に言われ続けていることだ。直せ直せと口うるさく言われて、余計に委縮してしまい本音が口に出せなくなってしまった。


「……なんて、言い訳だよな」


 もう成人して仕事もしているいい大人なのだ。

 自分を変えたいと思ったら、自分で何とかしなければいけない。そんなことはとっくにわかっている。


「でも……」


 あの店を畳んで欲しくないのはただのわがままであって、僕が口出しできることではない。

 あそこは父の店であって僕の店ではない。

 たとえ、それが母の始めた店であっても。




 ◇ ◇ ◇




「ただいま!」


 ランドセルを背負った僕が店に駆け込む。


「おかえり~」


 今でも鮮明に思い出せる母の笑顔。

 あの店のカウンターの中から、いつも優しい声で僕を迎えてくれた。

 僕にとって、本屋の中はリビングだった。家の中よりもずっと落ち着く場所だった。

 いつだってそこで、学校であった楽しかったこと、友達とケンカしたこと、新しく覚えた言葉を母に報告した。

 今も流れているラジオの音が、あの頃も変わらず流れていた。

 違うのは父がそこにいなかったことだ。その頃にはまだ会社勤めをしていた。

 あの本屋は本が好きだった母が、どうしてもやりたいと言って始めた店だ。

 カウンターの中が父の定位置になったのは、定年退職をした後のことだ。

 母はもういない。

 父が定年退職した次の年に、母は帰らぬ人となった。いつも元気だと思っていた母がいなくなるなんて考えたこともなかった。

 急死だった。

 父は黙って本屋を続けた。

 母がいた頃には一度も手伝わなかった店を、ただ黙って続けた。

 母の定位置だったカウンターの中は、父の定位置となった。

 僕はすでに就職して家を出ていたから、その時も意見することはなかった。

 母がいなくなって、一度は店が無くなってしまうことを覚悟した。父が店を続けると言い出した時には驚いたものだ。

 そう、父が続けると決めたのだ。もっとずっと、あの店は続くと思っていた。

 大切な思い出が詰まった、あの店が。

 だけど、僕は思い出す。

 さっきあの店にいたときのことを。


「父さん、いつの間にあんなに小さくなったんだろうな」


 ずっと僕よりも大きいと思っていた父が、なんだか小さく見えた。




 ◇ ◇ ◇




 閉店当日。

 だからといって、平日だから仕事を休める訳ではない。

 僕は取引先から会社に帰るために、車を走らせている。

 車の中にはあの店と同じようにラジオが流れている。運転しているときには流している癖だ。子どもの頃にいつも流れていたせいで、習慣のようになっている。

 いつも聞くともなしに聞いているけれど、今日は少しだけそわそわしていた。

 いつもの番組。聞きなれたパーソナリティの女性の声。

 学生時代にはよく夜中に投稿なんてしていた。自分のお便りが読まれるワクワク感を思い出す。

 僕の書いたつたない文章が読まれるたびに小さな部屋の中が、世界につながっている気がした。

 今はそれとは違う感情で、ラジオに耳を傾けている。


『では、お便りのコーナーです』


 微かなノイズと共に聞こえる音声。


『A県の本屋大好きさん』


 あ、と声を上げそうになる。

 ハンドル操作を誤らないようにと、自分で自分に言い聞かせる。


『父がやっている本屋が今日で閉店することになりました。亡くなった母親が始めた店なので最初は閉店することに寂しさしかありませんでした。僕にとってあの店は母との思い出がたくさん詰まった特別な場所なのです。』


 そこで一旦言葉が途切れる。


『でも、改めて考えてみたら母の店を続けていくのは、父にとって辛いことではなかったのかと思い直しました。それでも今日まで続けてきた父を尊敬します。これまで、続けてくれて本当にお疲れ様でした。僕はあの店が大好きでした。』


 ふうっと息が漏れる。

 読まれてしまった。


『お父さん、聞いてますか? 続けていこうと思ったのはきっとお父さんにとっても大事なお店だったということですよね。私からも言わせてください。本当にお疲れ様でした!』


 パーソナリティの明るい声。

 手が汗でびっしょりだ。このままでは危ないと一旦コンビニの駐車場に入る。

 ラジオの中では、すでに次のお便りが読まれ始めている。

 僕にとっては大きな出来事でも、他の大勢にとってはたいしたことではないのだ。

 父は聞いているだろうか。




 ◇ ◇ ◇




『店、閉めたぞ』


 その夜に父から電話があった。肩に妙に力が入る。


「そっか」


 ラジオではあんなに素直に言えたのに、お疲れ様の一言も出てこなかった。

 しばらくこれからのことを話したりしたけれど、ラジオのことは何も言わなかった。いつも聞いている番組のはずだが、たまたま耳にしていなかったのかもしれない。

 聞いていなかったのかと思うと、肩から力が抜けた。あの内容だから聞いてさえいれば、ラジオネームでもわかってしまったに違いないのだ。

 よかったと安心し、同時になんだかがっかりした。




 ◇ ◇ ◇




 次の週の同じ曜日、再び仕事で車を走らせていた僕は習慣でラジオを流していた。


『……次のお便りは、ようやくリタイアさん』


 ぼんやりと耳に入ってくる声。


『……先日、亡くなった妻から引き継いだ店を閉めました。定年してから始めたので慣れないことも多く大変だったのですが、閉店するとなれば寂しいものです。店を続けることで、妻がいなくなった空白を埋めていたのかもしれません。続けていくのが辛くなかったと言えば嘘になりますが、私にとってもあの店は特別な場所でした。』


 ん? とようやく内容に意識が行く。


『もしかすると他人の空似なのかもしれませんが、先週のラジオで息子のお便りが読まれました。言いたいことを言えない男だとばかり思っていたのは、私の思い違いだったようです。私がすぐに口を挟んでしまうのがいけないのかもしれません。』

「……父さん、だ」


 思わず呟く。


『なあ、もし聴いていたら今度一杯やらないか。ゆっくり話したいこともあるんだ。』


 読んでいるのは女性の声のはずなのに、父の声が聞こえる。


「私信になっちゃってるじゃないか、ラジオだっての。全く」


 人のことは言えないけれど、笑ってしまう。

 なんて、不器用な親子だろう。 

 仕事が終わったら父に電話を掛けよう。

 ラジオで言っていたように、他人の空似だって構わない。

 ただ、僕が言いたいと思ったことを、今度は自分の声で伝えるために。

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つながる声 青樹空良 @aoki-akira

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