二重の出逢い②

 真理はふーと息を吐いて、杏子色に染まる空を瞳に映しながら大きなため息をついた。


 日暮れの空に点々と鳥たちが飛んでいて、どうやら帰路につき始めているようだ。そろそろ自分も帰らなくてはと、重たい足を少し気だるげに動かす。


 今日は色々な騒動を起こしてしまい、売上にも大きく響いてしまった。その後、遊女たちに長い間拘束されてしまって、いつもの営業時間が大きく削られたのが痛手だった。


 薬屋の店長の橘は口数が非常に少ない男で、真理としては無駄な会話をする必要がなく、過度に気を遣うこともなく、とても働きやすく感じていた。約二ヶ月間、橘屋で住み込みで働いていると、真理は橘の無口さから繊細に感情を読み取れるようになっていた。


 売上の良かった次の日の朝、「おはようございます」と挨拶すると、しっかりと耳に響く「ふん」が返ってくるところが、売上の著しく悪い日の返事は、ほとんど聞き取れないような「ん」になる。


 いつもは積極的に話す方ではないし、基本的に真理が「はい、いいえ」形式で答えられるような質問にしか答えないが、その彼にもその硬い口を開けさせ、自分の方から質問させるものが一つあった。


 それは、世にも世俗的で、古代より多くの女性が楽しんできた娯楽の一つである────噂話だ。


 普段は店の奥で金銭勘定や稀に本職の薬の調合をしているのだが、人がお店の前を通るたび、ヤドカリが貝殻からひょっこりと顔を出すように、そろっと店の前方にある陳列棚の後ろに移動して聞き耳を立てるのだ。


 陳列棚で顔が隠れていて気づかない者もいるかもしれないが、棚の下が空洞になっているせいで両足だけが見える、実に滑稽な姿だ。


 客を迎えるためというわけではなく、ただただそのさもしい好奇心を満たすために、通りすがりの遊女や客の世間話を餌にしている。


 その店長の気を少しでも紛らわすためには、極上の美味しい噂話を用意する必要があった。


 そんなことを考えながら桜並木の大通りをのんびりと真理は歩いていた。


 昼の営業はもう既に始まっていて、夜の営業までにはまだ時間が早すぎる、微妙な時間帯なこともあって、午前中の賑わいに比べて吉原は少し寂しさを見せていた。


 これでは客は見込めないだろうと判断し、真理は三河楼の格子の前に薬の木箱をおろし、まだ客を取っていない遊女たちと会話でもして美味しいネタを掴むことにした。


 顔見知りの遊女を一人発見すると、少しわざとらしい元気な声で話しかける。


「お初ちゃん、お久しぶりですね!その後、どうでした?」


 どんよりとした雰囲気を纏っていた遊女が顔を上げ、途端に表情を明るくする。少しあどけなさの残る、丸みを帯びた輪郭の可愛らしいその子は、数週間前にとても恥ずかしそうに橘屋の売れ筋商品である、惚れ薬を買いに来たのであった。


「真理さん、お久しぶりです。指示通りにこっそりと惚れ薬の粉末を彼と自分にふりかけてみました。その後、数回は通ってくれたんですが、最近は全然なんです。あたし、どうすればいいかわからなくて……」


 最後は少し泣き出しそうになりながら言葉を紡いでいた。


 ただの世間話をして面白そうな話を引き出すつもりだったが、これは少し困った方向にことが運びそうだ。


「お初ちゃん、それは辛かったわね。惚れ薬を指示通りに使って、最初は効果があったのに、最近では彼も顔を出すこともなくなって、寂しい思いをしていたのね」


 真理はお初の言ったことを簡潔にまとめ、お初に理解を示す。


「そうなんです……彼のことを考えるだけで胸がぎゅうと締め付けられて、寝るときに彼の顔が浮かんでざわざわして眠れないし、他の女がいるんじゃないかとか、他の遊女の元へ通っているじゃないかとか、色々考えておかしくなりそうですぅ」


 真理は無意識に握りしめていた拳の熱でじんわりと湿っていた手のひらを、着物でこっそり拭き取りながら、心の中で安堵のため息をつく。


 お初は幸い、惚れ薬の効果を疑っている様子を見せず、商品への不満を訴えたいわけではなさそうだ。不本意であるとはいえ、実効果のない薬を販売する身としては、このように薬を実際に使ったお客に再び顔を合わせる時は少しだけ心拍数と身体中の筋肉の緊張度が高まっていく感覚が拭いきれなかった。


「それは辛かったですね。お初ちゃんは彼をとても大切に想っていて、彼が来ないのは他の女性に気が移ってしまったからなのではと、疑念を持っているみたいですが────彼が来ない理由は他にも考えられるんじゃないかな……」


 答えを促すようにお初の目を見て言う。


「例えば、仕事が忙しいとか?家族の誰かが病気でなかなか離れるのが難しいとか?遊郭に通うお金が足りないとか?誰かに身柄を拘束されているとか?」


 お初が次々と発想力豊かな理由を述べていく。


「そ、そう言うことです。つまり、これまでお初ちゃんの考えていたことはただの憶測でしかないのです。こうやって改めて考えてみると、他にも色々な事情があって来れないだけなのかもしれない、ということがわかりますね」


「うーん、そうかもしれないですけど……彼が会いに来ないということに変わりないです────あたしには、彼がどこにいて、何を考えているのか全くわかりません」


 真理は少し思案したのち、口を慎重に開く。


「お初ちゃんは、詰まるところ、彼の気持ちを確かめたいのではないですか?」

 

 お初にその問いの意味が沁み込んだのか、彼女は伏せていた顔をゆっくりとあげて真理を真剣な顔で見返す。


「その通りよ……」


 か弱い声でそう告げたお初に、真理は優しく微笑んで尋ねる。


「どうすれば、彼の気持ちを確かめられると思う?」


「……文?」


 難しい問題の答え合わせをするときのように、少し自信のなさそうな答え方だったが、この答えは百点満点だ。何より、本人自ら導き出した答えなのだから。


 真理はあくまでそれを引き出す手立てをしたまでだ。本当の答えは本人の胸の奥底のぬかるみの中で眠っている。それに気づかず、いつまでも負の感情に浸っているのは勿体無い。


 答えの代わりに、真理は口元に弧を描き大きくうん、うんと大きく頷く。


「ふっ、……なんだかスッキリしました。早速、今日文を書きます!」


「それならよかったです。頑張ってくださいね」


 真理にとっては収穫なしの会話だったが、お初からしてみれば、大きな気づきを与えてくれたものだったのだろう。


(仕方ない。他を当たってみよ……)


 ひょいと薬箱を持ち上げて踵を返そうとすると、再び話しかけられる。


「あっ、あたし何書けばいいかしら?教えてくださいー」


 風を受け、ひょろひょろとよろめく頼りない野花のように懇願するお初に困ってしまうが、ここで全て一から代わりにやっていては本人のためにもならない。


 何より、恋の経験のこの字もない真理にとって、恋慕う男に送る文など書けるはずがない。


「それは自分で考えること!」


 その事実を誤魔化すように、真理はお初に子供を諭すように指を立てて言う。


「はーい!────あっ、そういえばさん、暗くなる前に帰るよう気をつけてくださいね。昨日の夜、またらしいですから」


(また出た、とは?)


「また何が出たんですか?」


 真理は間髪入れずに、しっかり食い付いた。


「えっ、聞いていないんですか?髪女ですよ────ほら、半年前に天華楼に出没して、人が亡くなったこと知りません?」


 半年前といえば、真理はまだ石田寺でのんびりと生活していたため、知らなくても当然だ。


「人が亡くなったですって?その髪女の仕業なんですか?そもそもその髪女はなんなんですか?」


 思いつく限りの疑問を次々と吐き出し、真相に迫ろうとする。


 お初は自分の知っている情報の方が多いのをいいことに、にっと笑って少し得意げに話し出す。


「知りたいですか?うふふ、真理さんに特別に教えてあげましょう。髪女は、髪をお化けのように顔の前にだらんと伸ばして、床を這って迫ってくる女のお化けらしいです。真っ黒でもじゃもじゃな髪の毛を落としていくから、髪女という名前がついたとか」


(なんだ……ただの幽霊騒ぎか)


 いかにも典型的な女幽霊像に真理は少しがっかりしてしまった。どの文化においても、その地域や文化ごとに幽霊の姿形や言動が似通ってしまうのは、言い伝えられている怪談話や幽霊の画を参考に、人間の壮大な想像力で作り上げられているからである。それ自体が、幽霊が存在していることを否定しているみたいなものだ。


 幽霊はともかく、人が死んでいるのなら、話は別だ。これは、幽霊を装った殺人に違いない。


「それで、人が死んだと言うのはどういうこと?」


 急かすように聞いて、固唾を飲んで答えを待つ。


「それはですね……詳しい状況とかは知りませんが、半年くらい前に天華楼の客が、偶然その髪女に遭遇して、恐怖のあまり二階から飛び降りたんです。ほら、あそこの建物って純和風な感じが残ってて、まだお見世の前に燭台を使っているでしょう?運悪く、ちょうどその大きな燭台の上に落ちて、串刺し状態で発見されたらしいです」


「くっ、串刺し状態?」


「そう、このようにぶすっと」

 と、彼女は人差し指を立ながら、人の肉に見立てた拳をぶすっと刺していた。


 思わず『ぶしゅ』っという鈍い肉裂音を頭の中で響かせてしまって背筋が凍る。


 随分と物騒なことを語りながら、少し楽しそうな表情を浮かべるお初を奇妙に思いながらも、詳しく聞きたい欲に抗えず、会話を継続する。


「そのお客を死に追いやったのは本当にその女なんですか?」


「連れの男性がその一部始終を見ていたらしいですから、間違いないでしょう。それに、大量の髪の毛も落としていったようですから」


「なるほど……お話ありがとうございました。それではまた」


(なんと恐ろしい……これは後で店長に報告をしよ)


 今度こそ踵を返し、軽い足取りで橘屋に向かおうとする。


(……あれ?)


 だが、真理は先ほどから誰かに見られている妙な感覚を拭い切れないでいた。第六感か女の勘ともいうべきか、微かに鳥肌の立つこの感覚には間違いはないはず。


 ささささっと風で掠れる葉の音と同時に辺りを見回すが、誰もいない。


 (さっき聞いた怖い話のせいね。これはきっと、気のせいというやつだわ)


 そう自分に言い聞かせながら、ゆらりと枝を揺らしている桜の横を通ると、「すみません」という爽やかで甘やかな男性の声が桜の花びらとともに降ってくる。


 「は、はい」と恐る恐る振り返ったその先には、一人の若い男性が立っていた。


 桜の幹の近くにいたその男性は、いつからそこで待っていたのか、慎重に声をかける時機を見計らっていたかのように、耳に心地良い声音で話しかけてくる。


「あの、すみません、どうしても気になることがあるのですが、お伺いしてもよろしいでしょうか?」


(……?商品に関することかしら……)


 真理は次に来る質問に身構えながらも、ほぼ反射的に男を分析していた。


 まず、顔。歳は二十代後半だろうか。春先の半溶けした雪のような色白さと透明感のある肌と、漆黒のような艶やかな黒髪とキリッとした形のいい眉が、甚だしい対照を成している。縁取られた黒い丸い眼鏡は、黒曜石のような瞳を覆い隠していたが、その奥には学者や文豪を思わせる知性が感じられた。


 次に、服装。彼の皺やヨレ一つない紺色の着流しの下に、ボタンが行儀良く縦に並ぶ襟の立った白い洋風な衣類。この時代を生きている、粋で洒落ている男性の服装を代表していると言っても過言ではない。


 流行に敏感で流されやすい、軸を持たない類の人間とも言える。


 だがその立ち振る舞いや話しかける際の繊細な仕草は、舞踊や武芸に熟達した者にしか見られない独特の気品を窺わせるもので、その着こなしをより一層美しく見せていた。


 歌舞伎役者が似合いそうな整った顔は、世の女性をうっとりさせることは間違い無いだろうと真理は思った。


 真理はそのうちの一人ではないけれど。


 彼は真理の背負っている木箱に貼り付けられている広告の紙を指し、真理はようやく我に帰る。


 橘屋の売れ筋商品である、『どんな相手でもあなたを一途に溺愛させる惚れ薬』とその真下にある『どんな相手でもあなたを嫌いにさせる忌避薬』を見ているようだ。


 真理の首から冷や汗が一粒流れ落ちる。


 店長の考えたこの誇大広告の宣伝文句は、少しでも考えてみればすぐにその矛盾に気付けるはずだが、人間の脳は情報を効率的に処理するために、常々無意識的に情報の取捨選択を繰り返すようにできている。そのため、大概の人は自分の求めている薬の情報だけに目が行ってしまい、今まで指摘をされることはなかったのだ。


「はい、お気軽に何でもお申し出ください」


 真理は強制的に目を細め、機械的に口元に笑みを作り出すことで愛想の良い商売人と思わせる。


 その様子に安心したかのか、男は少し緊張で強張っていた表情を僅かに緩める。


「ありがとうございます。こちらの惚れ薬とは、具体的にどういうものでしょうか?」


 その広告文句の矛盾に気づいた訳ではなく、惚れ薬について詳しく知りたいようだ。


 心の中でふーっと安堵の溜息を吐きながら、陽気に答える。


「こちらの惚れ薬はズバリ、自分と自分に惚れさせたい相手にふりかけて恋愛の成就を図る特製のお薬でございます」


 興味津々な反応を示す彼に、真理は実際に惚れ薬の小包を取り出し、熱く商品について語りつづける。


「実はこれ、イモリを黒くカリカリに焼いたものを細かい粉末にしたものなんです。少し驚かれると思いますが、発情したイモリの雄雌同士は、このように節で隔たれた竹筒に別々に入れても、その節の部分を食いちぎって再び逢うんです。イモリの恋は凄まじい威力を持っています。その恋の力を借りて人間に応用したのがうちの惚れ薬です」


 彼のその身なりを見るに、一般人に比べて生活に余裕があると思われる。その後も長々と説明しながら、彼に何も買わずに帰ることへの罪悪感を、刻々と過ぎゆく時間とともに大きくしていった。


「色々と勉強になりました。本当にありがとうございました。せっかくなので、薬を買わせてください」


「いいえ、いいえ。こちらこそありがとうございます。どのようなお薬をお探しでしょうか」


 最後は天使のようににっこりと笑って尋ねる。


「眠くならないような薬、目が覚めるような薬はないでしょうか」


 彼の顔を近くで見ると、目の下にはうっすらと葡萄色の肌が広がっていた。よく眠れていなさそうで、薬屋としては逆の効用を持つ薬を勧めたいところだが、眠りたくない事情があるのなら、その要望に答えるほかない。


 茶葉を濃縮させた粉末でできた眠気覚ましの薬を彼に手渡し、元気よく「ありがとうございました」と言いかけたそのとき、彼は急に思い出したかのように切り出す。


「あっ、そういえば、もう一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」


「はい、なんでしょう」


 彼は再び真理の背負っている薬箱を指す。


 嫌な予感しかしなかった。


「あっ、やはりこの惚れ薬が気になります?心を寄せている女性にお使いになってみますか?」


 慌てて惚れ薬の小包を半ば強引に彼に押し付けながら、何とか会話を誘導しようとする。


「っ……いいえ、僕は女性の意思を無視して自分のものにしようとは思いませんよ」


 それは、それまでの会話の中で、感じの良い好青年のような印象のある彼から、僅かに嫌悪感のような影が差した瞬間だった。


 彼は慌てて言い足す。


「あっ、僕は決してこの商品を売っているあなたを批判しているわけではないですよ。買い手の需要あっての商売ですから」


 そう言われてしまったものだから、あえて新たな商品の話題を持ち出せる雰囲気でもなくなり、真理は渋々質問を促す。


「そうでしたか……ところで、ご質問がおありだったようですが……」


「あっ、そうでしたね。こちらの惚れ薬と忌避薬を同じ人に同時に使ったらどうなるのでしょうか?」


 あまりにも単刀直入に聞かれ、真理は動揺を隠せない。


 まるで、故事成語の『矛盾』の物語の矛と盾を売っていた商人のように、回答に困惑しその場で固まってしまった。


(この男、物腰柔らかそうな雰囲気出しときながら、かなり嫌味なことを聞くわね……)


 作り物の笑顔を取り繕う余裕が吹き飛び、真理は目を細めた鋭い眼差しを男に向けた。


「そのようなご質問をされるようなら、すでにその答えはわかっているのでしょう?」


 彼はとぼけているのか、少しきょとんとした表情でその答えを懸命に考えているようなふりだけは見せていた。そして、少し思案したのち、答えが突然閃いたように明るく答える。


「両方の薬が作用しあって、その結果、どちらの効能も相殺される、ということでしょうか」


 真理の質問に含まれていた棘を気にするでもなく、真面目に回答する彼の好奇心旺盛な童のような瞳を覗き込めば、なぜだか本当に心底他意がなかったように見えてきて、真理は先ほどの言動に後ろめたさを感じてしまう。


 真理は他人の行動や言動を見て、自分が彼らを理解できたかのような錯覚に陥ることがあったのだ。


「あっ、申し訳ないですが、僕は使いたいと思う女性もいないですし、こちらはお返ししますね」


 先ほど強引に渡した惚れ薬を、彼は返すために真理の方に手を伸ばす。


────びくんっ


「あっ!」


 考え込んでいた真理は不意をつかれ、男の大きく骨ばった手が真理の手の甲を掠めた。その拍子に手を勢いよく引っ込んでしまい、小包の内容物であるイモリの黒焼きの粉末が両者をもくもくとした黒雲に包む。


 ゲホッ、ゲホッと咳き込む。


(……ちゃんと構えていたら、こんなに動揺しないで済んだのに……)


 仕事柄、男性と全く触れないことは限りなく不可能に近いが、それでも近い距離にいる時はいつも身構えて、接触後に迫ってくる不安と恐怖の震慄を周り人にはわからない程度には抑制できた。


 だが、今回は少し油断してしまったようだ。


 調子の狂った楽器のように心臓の律動が不規則になり、思わず胸に手を当て、何とか深呼吸と気の集中で落ち着きを取り戻すよう努めるが、余計に咳き込んで別の意味で息苦しくなる。


 ようやく飛び散ったイモリの粉末が完全に地面に沈着すると頃になると、黒いモヤで遮られていた視界が元の明るみに照らされ、真理も落ち着きを取り戻す。


「申し訳ございません!弁償させてください!」


 彼の申し訳なさそうな顔が、真理を申し訳なくさせる。


 その必要はない、むしろ自分の方に落ち度があるのだと言おうと、口を開けた途端────


「あっ!」と、男は急に気づいたように、自身の衣類および顔、頭に付着したイモリの粉を、まるで体についた無数の蛆虫を振り払うように、取り乱した様子を見せた。


(……別にそこまでやらなくてもいいのに)


 それは、真理と恋仲になるかもしれない未来の可能性をその一瞬で想像して、一瞬で激しく拒絶しているかのよう。


 真理の少し傷ついた視線を察知したようで、またもや謝罪と弁明の雨が降る。


「あなたはとても素敵な女性だと思いますし、そのように考えられないというわけではいんです。僕はただ、あなたのような女性が、間違っても僕のようなまともでない人間を好きになってはいけないと思っただけです」


(……まともでない?)


 少しおどおどしているし、口が開くと大体謝罪の言葉が出てくるが、それ以外は至って普通どころか、感じが良く好奇心旺盛な好青年という印象しかなかった。


 だが、自分で自覚できるほどまともでないという事実の裏を掻けば、まともでないことを自覚できるほどのまともさを持っているということでもある。


「責任を取って、そちらの忌避薬も買わせてください!それでしたら惚れ効果が消されますよね?」


「……その必要はありませんよ────どちらも立派な偽物商品ですから、効果が相殺されるどころか、最初から効能などはないはずです」


 彼は顔を上げ、答えを求めるように形のいい眉を片方吊り上げる。


「こちらの惚れ薬と忌避薬、どちらも効能に根拠の一塵もありません。うちの店長がどういった漢方書を参考にして調合しているのかも私にもわかりません。ただ、惚れ薬に関しては実際に使用したお客様からは良いご報告を頂くことが多く、評判が一人歩きしているようなものですから……」


 彼の反応を伺うが、その表情が読めない。


 せっかく先ほど真理のことを『素敵な女性』とまで言ってくれた彼を、なぜか彼を落胆させたくないと思い、彼女は沈黙を埋めるように慌てて付け足す。


「最初は私も皆様を騙しているような気がして、この誇大広告な宣伝文句を使った信ぴょう性の薄い薬を売ることに乗り気ではなかったのですが、そのうち気づいたんです」


「何にですか?」


「これを買って行く方々の目は希望に満ちていて、どこか活き活きしているんです。そしてその想いが成就したお客様はわざわざまたこちらに出向いてお礼を言いにくるんですよ……最初はたまたま運が良かったからなんじゃないかと思っていたんですが、その数がただの偶然で片付けるにはあまりにも多いのです」


「では、やはり薬の効果なのでは?」


「それが、違うんです。これはあくまで私の推論ですが、お客様の恋愛成就の最大の要因は単なる思い込みによるものだと思うんですよ────例えばですが……幼い頃に怪我をした際、母親におまじないをかけらませんでした?……ほら、『ちちんぷいぷい、ちちんぷいぷい』というおまじないの言葉で」


「……あ、はい」


 本来なら懐かしい記憶を蘇らせるはずの問いに、彼は一瞬表情を曇らせ、その返事の前の僅かな沈黙に意味を感じさせる。


「不思議なことに、本当に傷の痛みが引いて行きましたよね。実質的な効果は持たないはずのに、それに効果があると信じているがために、体まで騙せてしまう────そのような現象を心理学では……たしかプラシーボ効果と呼ぶらしいです」


 つまりは、惚れ薬にしろ忌避剤にしろ、その効果を信じ込むことによって本人に自信が芽生え、意中の相手に積極的に近づきやすくなる。さらに、相乗効果ともいうべきか、たとえそれまで全く意識していなかった相手に突然好意を寄せられたとしても、好意の返報性の原理が働き、自然と好意を好意で返したくなる傾向にあるということだ。


「ですから、お客様と私が発情したイモリのように激しく求め合うことは決してありません。どうかご安心ください」


 真理はそう説明した後に男は「なるほど」と、納得しているような、していないような思慮深い顔を見せては話を切り上げる。


 彼はこぼしてしまった惚れ薬の粉末を弁償しないと気が済まないらしく、最終的には十分過ぎるお代をもらい、こぼさせる原因を作った真理の罪悪感をより一層濃くした。


「本日はお時間を取ってしまい、すみませんでした。薬屋の見習いとして、大変貴重なお話をして頂き本当にありがとうございました」


(……薬屋の見習い?)


「あっ、正確には今日から薬屋の見習いというべきですね。実はこの吉原内の薬屋で本日からお世話になる者でして、事前になるべく情報収集や勉強をしておこうと思い、薬学に関する書物を数冊熟読したのですが、世の中にはまだまだ僕の知らない薬学の知識があることを学ばせていただきました」


「吉原内と言ったら、うちのお店────橘屋しかありませんよ……」


 これまで『橘屋』の名を会話中に出さずにいたことに気付く。


 彼の口はまた「あっ」とでも言いたそうに、飴玉がギリギリ入るくらいの大きさに開くと、またすぐに閉じる。


 真理は相手に悟られぬよう、心の中で深いため息をついた。

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