髪女の吊り橋

「ご馳走様でした。こうしていつも兵蔵様と一緒に湯葉がゆを食べるのが唯一私のお楽しみなんですよー」

 

 冷え込んだ早朝が通り過ぎ、ほのぼのと吉原を流れる空気が暖まりはじめた頃、常連客らしき男を連れた女性が、いかにも下心ありきの甘い声音で話す。

 

 目が眩むほどに白い暖簾をくぐった二人は、茶屋の前で名残惜しそうに別れの前の戯言を交わす。


 男の方は少し淋しそうな表情を見せていたが、その目には微かな期待を孕んだ輝きがあった。


(……馬鹿な男だなあー)

 

 ここで本気の恋などをしようとする者の末路は目に見えている。


 恋に明け暮れ、来るか来ないかわからない想い人を待ち続け、苦界と呼ばれたこの遊郭でひたすらに一つの希望にしがみつきながら一喜一憂し、年季が明ける前に気が病んでこの世を去った遊女たち。


 戯れを誠と取り違え、持っている財を全て、もしくはそれ以上貢ぎに注ぎ込んで破滅を迎える男たち。


 幸いにも真の愛で結ばれた男女でも、いずれは年季と身請け金の壁に衝突する。希望と現実の狭間で憂悶し、最期はこの世でないなら、その世で一緒になることを決意して実行する。


 どのみち、ここでの恋は危うく、容易く手を出すべきものではない。

 

 真理は腹の奥から湧き上がってくる大きな欠伸を抑えながら、冷めた目で二人の様子を眺めていた。

 

 いい客が付けば、いい食事も取れるし、貢ぎ物もあるだろうし、揚代の分だけ年季明けに近づく。遊女たちにとってお客は自由を得るための唯一のでしかない。だが、同様にここを訪れる客は、浮世を離れた恋の擬似体験と肉体的な快楽を得る手段として遊女たちをとして見なしているともいえる。


 お互いに偽りを持って接していることをどこかわかっていながらも続く歪な関係だ。


 今日もまた、偽りのダンスを繰り広げる男女たちを真理は目にしてしまった。


(……まあ、いいかっ)


 せかせかと足を動かし、真理はいつものようにお得意様に挨拶をして回ろうとしていた。


 ところが、背後で影のように真理を追尾していた男の存在に気づく。


「真理さん、今日からよろしくお願いします。先ほど橘さんに任せていただく仕事の内容を聞こうとしたのですが、なぜか何も教えてくれませんでした。僕の質問を聞き取れなかったのか、ほぼほぼ無視されてしまいました。それで、真理さんに聞けば教えてもらえるかどうか確認してみましたら、『ふん』という回答を頂けましたので、こちらに参りました。真理さんのお仕事の邪魔にならぬよう努めますので、できる範囲でご指導をお願いできないでしょうか?」


 腰を低くして尋ねる青年は、昨日吉原を訪れ、今日から真里と一緒に橘屋で働くことになっている松下北陽という女性顔負けのお淑やかさを持つ男性だ。


 昨日、帰って早々店長になぜ新しく人を雇うことを事前に知らせてくれなかったのか問い詰めたい衝動に駆られたが、聞いたところで事態が変わるわけでもなく無駄に思えた。そして例の髪女の話を持ち出したところ、意外にも『くだらん』と一蹴される始末となった。代わりともいうべきか、北陽が髪女の話題に興味を大いに示し、真理が拾った怪談話は無駄にならずに済んだ。


 あの終始無口で非社交的な店長とどのように交渉して雇ってもらったのか、その経緯については謎が残るものの、昨日、北陽が自己紹介をした際、彼は余計な詮索を許さない雰囲気を醸し出していたため、深入りはできなかった。


 真理は、相手の出した情報に見合うだけの情報を出し、それ以上の個人的な話は控えた。万が一、一歩踏み込んだ質問でもすれば、それは相手に同様の質問をされること許すことになるのが、暗黙の了解のように思えたから。


 お互いに少し気になることがあっても、聞けない。そのような、妙な空気が二人の間を流れていた。


「やはりそうでしたか。橘さん、今日は特段機嫌が悪いだけですから、松下さんが嫌われたわけではありませんよ。無口なのは、いつものことですし。たしか、薬を扱ったお仕事は今回が初めてなんですよね?」


「はい、恥ずかしながら商い全般的に経験がございません」


「わかりました。でしたら、初日ですし、今日は一日私に付き添い願えますか?私もまだまだ経験が浅いですが、少しでもお役に立てるのでしたら......」


「真理さん、ありがとうございます!」


 北陽は目を細め、爽やかに口元を少しほころばせながら言う。


 すると、少し離れたところから朝露で少し湿り気のある地面を微かに擦るような足音がどんどんと真理たちに近づく。


「あのー、もしかして橘屋の真理さんですか?」


 突然名前を呼ばれ、真理は慌てて声の主を探す。


 声のした方には、先ほど湯葉がゆで腹を満たしたばかりの遊女がいた。


 その女性は、朝顔のように凛としていて、上品な一重瞼を飾る優美な曲線を描いた眉が特徴的だった。清楚で、女性なら誰もが憧れる純和風的な美の象徴ともいえる。


「はい、そうですが.……」


「実は、うちのおみつちゃんがね、最近全く元気がなくて困っているのよ。食べ物もほとんど喉を通らないみたいで——あたしは、あっ……」


 北陽の存在に気づき、彼女の目には一瞬、色めいた動揺が見られた。


 彼女は儚く眼差しを北陽から外し、綺麗に結われた髪に手をかけ、かきあげる髪のないところに、髪をかきあげる仕草を見せた。


 色っぽい流し目で北陽の様子を確認するが、彼は自身のメガネに付着した塵を袖で丁寧に拭いていて、一目もくれる余裕がなさそうだ。


 その好色めいた一瞬の出来事を側から目撃した真理は、なぜだか愉快な気分になったが、それを悟られぬよう会話の続きを促した。


「そういうことでしたら、一度医者に診てもらった方がいいのではないでしょうか?

私は医者ではなく、ただお薬を販売する者ですので、おみつ様の病状に適切に対処ができるかどうかは……」


「うちの楼主が心配して、一度は医者を呼んで、診てもらっているのよ。でも、食欲増進薬とか、精力薬を飲ませてもあまり効果がなくてね……それで、三河楼のお初ちゃんからあなたの評判を聞いたのよ。薬が効くというのもそうだけど、相談ごとに親身になって聞いてくれるってみんな口を揃えて言うのよ」


(……ずるい)


 そのように買いかぶられてしまったら、断りづらくなるのをわかっていて言ってそうなところが、真理の気に障った。


 元々、真理には人助けをしようという気はなく、実効性のないインチキ薬を売っている罪悪感から、せめてもの償いとして客に耳を傾けていたまでだ。相談事のある客から助言を求められることも多々あったが、真理が以前、趣味程度に読み漁っていた西洋の翻訳本の知識をそれとなく混ぜ込んで理屈っぽく助言すると、それに納得し、行動に移し悩みを解決する人が一定数いたのだ。


「お願いできないかしら?」


 彼女は首をわずかに傾けながら、女の耳にのみ障る、女性を意識させるような高い声で問う。その質問は真理に向けられたものではないと、一瞬にして悟らせるものだった。


 だが、仕事を始めて間もない北陽に行くかどうか決める権限などなく、北陽は真理の判断を伺うように静かに見つめる。


「お願いできないかしら?薬代はいくらでもあたしが出すから……」


 気づけば、真理の口は勝手に言葉を発していた。


「承知いたしました。早速、今からお伺いさせていただきますね」

               

                ♢ ♢ ♢


「本日はすみれ様からのご依頼を受け、おみつ様の体調に合わせたお薬をご案内できればと思い、お伺いさせていただいております」


「す、すみれさんが、ですか?」

 

 目を丸くして問う遊女は、意外にも元気そうで当初想像していた病弱な女性とはまるで違った。


 今回、真理は天華楼に初めて足を踏み入れることになったが、この妓楼の入り口付近で起こった事故の話を思い出し、まだ灯ってない燭台の先端部分の黒ずみが、ただの経年劣化によるものなのか、もしくは飛び散ってこびりついた体液なのか、ついつい色々と考えてしまっていた。


 天華楼は、江戸の面影のある木造の長屋になっていた。炭火で燻したような梁が剥き出しになっている入り口で女郎に事情を話したところ、通されたのが病人の療養に通常使われる真っ暗な部屋ではなく、遊女たちが雑魚寝をして仮眠を取る、畳が敷き詰められている普通の部屋で驚いてしまった。


 どうやら睡眠中だったらしく、睡眠の邪魔をしてしまったことへの謝罪と後に出直すことを伝えようとしたところ、彼女は逆に謝罪をし、準備に少々時間を要することを告げてきた。


 別室に連れて行かれ、彼女は眠そうな目を擦りながら真理たちの話しを聞いている。


 一通りの経緯を話し終えたところで、おみつは不思議そうな表情を浮かべていた。


「私はこの通り、少しは疲れが溜まっていますが、体調はいつもとそれほど変わりませんよ」


 おみつはきょとんとして言う。

 

 彼女の丸みのある可愛らしい頬と、水に戻した大豆のようなくりくりとした純粋そうな瞳は、女性というより少女という印象を与える。


「食欲がないとお伺いしましたが……」


「あっ!……それはですね……」


 ちらりと北陽を見て、彼女の瞳は躊躇いで揺らいでいた。


「僕は席を外しますね」


 何かを察したようで、ほぼ反射的に彼は言って立ち上がる。


「あっ、待って!行かないでください!ここで話したことは、絶対に秘密にしてくれますか?」


 北陽は行くか行くまいか、悩ましい足取りで部屋の入り口付近を彷徨う。


「約束いたします。おみつさまが話すことは決して口外しません。私たちには守秘義務がございますから」


 真理はそうきっぱりと断言し、気の乗らなさそうな北陽を呼び戻す。


「彼に聞かせても問題ない、ということで間違いありませんね?」


「はい、問題ございません。実は……実は……」


 彼女の視線は何往復もしながら泳ぎ、なかなか文を完成させない。


 挙動不審なその様子は、何かとても恥ずかしいことを明かすかどうか迷っているようで、好奇心をより一層掻き立てた。


 男性に聞かせても問題ない内容となれば、これほどに動揺するはずもないと思われる。女性特有の身体に関する悩みであるのなら、北陽を呼び止めることもなかったはず。ともなれば、やはり、男にぎりぎり聞かせても良いこと、むしろ聞かせた上で意見を聞きたいこととなると、真理の脳裏には一つの答えが浮上した。


「教えてください、おみつさん。食欲がないのは、いつものことではないのでしょう?特定の場面だけ、食欲がなくなるということなのではないでしょうか?」


 彼女は大きく頷き、「そうなんです。どうしてわかったのですか?」と聞く。


 説明が長く億劫だったので、「女の勘ですよ」とだけ言って笑みを見せる。


「もしかして、なんですけど、おみつさんにはお慕いしている方がいらっしゃるのではないでしょうか?」


「そう、そうなんです!」


「で、その方が周りにいるとき、その人のことを考えているときだけ、食が細くなるということですか?」


「は、はい!その通りです。やっぱり、橘屋の真理さんの噂は本当だったんですね。何でもお見通しで、どんな悩み事にも的確な助言ができるとか!」


 真理の頬は思わずほんのりと林檎色を帯びる。


 唐突な褒め言葉と、真理のことをまだあまり知らない北陽の前で大袈裟に持て囃され、気恥ずかしさで爆発しそうになり、逸れてしまった話題を早急に軌道修正させようと試みる。


「す、好きな人の前で食欲がなくなるのはよくあることですよ。病気でも何でもありません。好きな人のことを考えるだけで胸がいっぱいになって、箸が進まないのは、恋する人間の自然現象です。それとはまた別に——これは女性特有の事情ですが、好きな男性の前で少食な上品でか弱い女性であるということを見せつけるために、あえて少なく食べる場合がございます。無意識にそれを行なっていることもありますが……」


「ああ、なるほど……では、私はどうすれば良いのでしょうか?彼はいつも友人に連れられて登楼するんです。向こうの羽振りもよく、宴席で一緒に食事を取ることが多いんですが、彼を目の前にすると、緊張で食べ物に手をつけることができなくて、一晩中ふらふらして仕事になりません。それに、最近では彼のことを思い出すと、他のことが手に付けられなくなったり、この前は他のお客様にまでご迷惑をおかけてしまいました」


(……恋煩いという厄介なやつか)


 ここまで仕事に支障が出ているようでは、放置するのも罪深く感じ、真理は脳内でかつて読んでいた心理学の本の知識で、最善の案を模索する。


「彼とは今まで何度お会いしていますか?」


「数ヶ月前から二週間に一、二度ぐらいの頻度で登楼してくださり、合計で五回です」


おみつの瞳は「どうして?」という疑問を映し出していた。


「心理学では、馴化というものがあります……特定の刺激物に一定期間接触を続けていると、その刺激に慣れてしまって、一々反応しなくなるのですよ。つまり、今回のおみつ様の場合ですと、理論的には彼と会う回数を増やしていけば、過剰に反応することもなくなり、食欲も徐々に回復するでしょう」


 だが、意中の相手に会いに行く自由は遊女にはないのが難点だ。


 女性が吉原の門をくぐる際は通行証が必要だ。真理でさえ少し前までは通るたびにチラチラと疑いの目を向けられていたことたが、顔を覚えられたこともあり、最近は真理の見せる通行証を入念に確認されることも少なくなった。


 過去には、男装をして脱走を試みた人もいたようだが、連れ戻された遊女は公開処刑のごとく、みんなの前で鞭打ちの刑を受けることになると聞く。


「恋愛中の男女ははじめは全てが新鮮で刺激になりますが、一緒に過ごす時間が増えるといずれ刺激がなくなり、飽きがくる。それと同じ原理ですよ」


(……もうこうなったら、あれしかないわね)


「彼に惚れられるしかありませんね。彼がもっと頻繁に来てくれれば、きっと落ち着くはずです」


「ふぇっ、私に、ですか?そんなこと、できるんですか?」


(……あなたじゃなかったら、他に誰がいるのよ)

  

「ええ、そうですよ。ご存知かもしれませんが、当店の売れ筋商品の惚れ薬をお使いになれば、可能です。ですが、惚れ薬の効果を最大限に引き出すためには、他にも実施していただきたいことがございます」 


 おみつはその純粋そうな双眸を大きく開き、真理の言うことを一つも逃さずまいと、前のめりになって固唾を飲んでいた。


               ♢ ♢ ♢


「本当に僕まで来て大丈夫なんでしょうか?」


 ぎりぎり聞こえる小声で、北陽は襖と襖の間の隙間をやや不安げに覗いていた。ただでさえ柔らかい色調を帯びた声は、潜めると聞きづらくなり、否応なく距離を縮めなければならなくなる。


 襖と襖の間に広がる豪華絢爛な宴会用の座敷は、天華楼一の華美な空間となっている。

 

 ずらりと並べられたお膳には、色味鮮やかな刺身が贅沢に盛られていて、男女六人の前に一膳ずつ置かれていた。その食事の光景は、今夜の客の懐の深さを物語っていた。


 部屋の一面には豪然たる龍の絵が描かれた巨大な屏風があり、それを背にして座る形式をとっている。


 それに隣接する部屋、つまり座敷持ちの花魁の寝床に身を潜めて宴会の様子を見守っている真理と北陽は、趣味の悪い覗きをしていることより、二人の後ろに敷かれているふかふかの派手な緋色の布団に居心地の悪さを感じていた。


 今日はこの上ない上客の登楼のため、女郎たちが気を利かせて客の素早い行動を予想をしてか、用意周到に布団の準備を済ませていたようだ。


「おみつさんのご希望でしたから。きっと男としての意見が欲しかったのでしょうし、北陽さんにはこれから大役を務めていただかないといけませんしね」


「そうですか」


 ぽつりと呟く彼だったが、意外にも不満げな表情を見せず、極めて真剣な眼差しだった。


「おみつちゃんは修一様の隣にお座り!」


 向こうの部屋からすみれの艶っ気溢れる声が響き、すみれがおみつの肩をやや強引に掴んで一人の男性の隣に座らせるのが見える。


 おみつは恥ずかしそうに、しかし内心は嬉しそうに男の横の席につく。


 修一と呼ばれた男は、一見すると他の男二人と比べると特徴の掴みづらい、至って普通、いや、むしろ地味な雰囲気を醸し出していた。模様のない濃い灰色の着流しに、顔を覆い隠すかのように生える黒髪は、見ないでくれと言わんばかりの鎧のようにも見えた。

 

「お、お隣、よろしいでしょうか?」


「はい、どうぞ」


 目も合わせず、淡々と答える彼は、脈なしどころか、本当はこの場に居たくないという本音を表しているようにも見えた。


 おみつから聞く話だと、彼はいつも食事だけ済ませて帰るらしく、もしかするとあっち系なのかもしれないと、真理は密かに推測していた。


「残念ながら、脈なしかもしれませんね」


 隙間から頭を離し、北陽に同意を求めるように言う。


 彼は空いた隙間に顔を近づけ、しばらく黙ったまま向こうの様子を伺っていた。


 しばらくこのように交互に二人で監視作業を繰り返していた。


 二人して同時に隙間を覗きこむことになると、自ずと距離が近くなるため、真理としてはなるべく避けたい状況になるが、ごく自然に順番に覗く形式が確立したのは、もしかしたら北陽の気遣いなのかもしれない。


「どうでしょう。僕には無関心にも見えなくはないですが、ただのぎこちなさの可能性もあるかもしれません」


「ぎこちなさ、ですか……」


 その後、修一はおみつの振る話題に耳を傾け、話を返す様子を見せていたが、会話の流れはいつも彼で行き止まりになり、変な沈黙を経て新たな話題を出すことを幾度も繰り返していた。


「修一様のお仕事は今大変だとお聞きしましたが」


「ええ、まあ、はい」


「……お医者さんとなると、夜間急に呼ばれたりもするんですか?」


「私はまだ医者ではなく、ただの見習いです」


「……そうでしたか。でも、人の命を救える術を身に付けようとするのはとても素敵なことですね。私も男として生まれてきたなら、医師を目指していたと思います」


「医者は命を救う術もあれば、奪う術もあります」


「……」


 なんだか話題の要点をうまく掴めていない修一との会話を聞いている真理まで少し呆れてきた。


 そんな状況の中、おみつの瞳はハート型で、相変わらず箸も進まない。


(……この男のどこがいいんだか)


 十人十色というべきか、恋は盲目というべきか。恋をしたことがない、今後する予定もない真理にとっては到底理解が追いつかない。


 おみつと修一の間で新たに作り出された沈黙の中、おみつは何かの合図のように辺りを少し見廻し、姿勢を整えてから聞く。


「今から言うことは、絶対に秘密にすること約束してくれますか?」


(……いよいよ始まったわ)


 それまで各々の会話で盛り上がっていた部屋が、少しだけ静まり返る。


 人は秘密という単語には敏感なものだ。見てはいけないものが見たくなるように、知られてはいけないことを知りたがる。


「ええ、まあ、はい」


 少し興味が湧いたのか、彼は頷きながら少しだけ身を乗り出し、二人の距離が縮まった。


 おみつは残りの距離を埋めるべく、大胆にも彼の腕につかまりながら、真理と事前に計画していた通りにことを進める。


「修一様なら知っているかもしれませんが、半年前、うちでは怖いことが起きたんです」


「怖いこと?」


「ええ、それは、今晩のような快晴の夜の出来事でした」


 いかにも怪談話のような出出しで、おみつが幾度も頭の中で今晩語ることを練習していたのがわかる。


「いつものようにここの遊女たちは営業をしていました……ですが、その晩は、月が怪しい橙色の輝きを放っていて、不吉な予感がしていました」


「……」


 彼は物語調な話に釘付けのようだ。


「うちのお客の二人がちょうど二階の厠で用を済ませていたところでした。そのうちの一人が先に部屋に戻ろうとしたとき、床に落ちている何本もの長ーい、長ーい髪の毛を発見したのです。その出元を調べるように男は髪の束を辿って厠を出ました。すると!何と、男の前には床を這いつくばるように動く、髪の長い女が姿を現したのです!『許さない、許さない』と、唱えるように迫るその女は、手足が不自然に曲がっていて、どう見てもこの世の者ではないのです。男は恐ろしくなって後退りしますが、やがて壁にぶつかり、それ以上逃げ場がなくなるのです。髪女は最後、男の両肩をずっしりと掴み、にゅるりとした声でこう言うのです」


 おみつは修一の赤く染まった耳たぶに唇が触れるほど近くで続けて囁く。


「『あなただけは絶対許さない』、とね」


「その男は、どうなったんですか?」


 茹った蛸のような修一は、頭が真っ白になったのか、少しの間を置いてから聞いた。


「え、ええと……ここにはご登楼してくださらなくなりました」


 それは嘘ではない。死んでしまったのだから、登楼は難しいことだろう。


「えっ、えんん」


 すみれが突如、わざとらしく大きな咳払いをする。


 おみつは急に思い出したように、可愛らしい紅梅色の花柄模様の着物の合わせから怪しい小包を一つ取り出す。


「それは一体なんでしょう?」


 医者の卵というだけに、修一はおみつの取り出した薬に見える粉末に興味を持ったようだ。

 

「あっ、こ、これは、馴化のために飲んでいる薬です」


 咄嗟に思いついた言葉だったのか、隣の部屋から聞いていた真理は少し冷や冷やしていた。


「じゅんか?」


「ああぁっ!」


 それを言ったと同時に、おみつは紙で丁寧に包まれていたものを勢いよく開き、その拍子に粉末が二人だけでなく、あたり一面に飛び散る。


「申し訳ございません!」


 おみつは謝りながら修一に付着したイモリの粉末を丁寧に、ゆっくりと振り払う。


「もう!おみつちゃんったら、本当におちょこちょいなんだから……うちのおみつの不手際ですみませんね、修一様」


 呆れたようにおみつを叱りながら謝るすみれは、演技をしているとわかっている人間にとっては、とても演技くさくてしょうがない。


「……床も結構汚れたことですし、あたくしたちは他の部屋に移りましょう」


 すみれの隣に座っていた中年男は少し不服そうな顔をしていた。登楼した男性の中でも最年長で、着物の生地に優雅な光沢があり、より一層高級なものに見える。思うに、この男が全員分の費用を負担しているのだろう。


(……そういうことだったか)


 すみれが人肌脱いでまでおみつのをするのは、単なる姉御肌でも何でもなく、おみつの恋愛感情を利用して上客の鴨を一羽増やすためだったのだ。


 おみつと修一が恋仲になれば、恋に破れたお大尽な男の自己肯定感は自ずと低くなってしまう。そのような状態で自分に惚れたと言って、優しく接してくれる綺麗な女性がいれば、自分への評価が下がったままでは、相対的に相手の評価は高くなる。こんな自分を愛してくれる者はいい人に違いないという錯覚に陥る。


(……上手く考えたもんだ)


  彼は後ろ髪を引かれるような思いで、すみれに別の部屋に引っ張られていく。


「松下さん、いよいよですよ」


 真理は少し離れたところでじっとして待っていた北陽にそう告げる。


 北陽の顔の筋肉がほんの少し強張りながらも、頷きながらあらかじめ準備していた 黒い長髪の被り物を頭に乗せる。


「これでいいでしょうか?」


 ボサボサな髪の間から北陽の端正な顔が覗き、その不整合な様がなかなかにおかしい。


「あっ……っふふ、顔はなるべく全部隠しましょう」

 

 真理は慎重な手つきで北陽の被り物を回転させ、髪の一番長い部分が顔を覆うように変えた。


「これで行きましょう」


 北陽の頭からさっと素早く手を離し、真理は向こうの部屋で都合よく隙間の近くに置かれた、柿渋で何重にも塗られたような時代を感じさせる燭台に目をつけた。


 そして、勢いよく息を吹きかける。


——っふぅー


 という音とともに、ゆらゆらと律動的に揺らめいていた燭台の蝋燭が消火し、部屋の明かりが一段と暗くなる。


「な、なに今の?」


 おみつは目を大きく見開き、不意に修一の腕にしがみつく。


 その狼狽える様子は、無理もない。元々、計画にはなかったのだから。


「部屋を出ましょうか?」


 と修一が問うと、おみつは慌てて「待って!」と修一の袖を指先で握りながら止める。


「松下さん、出番ですよ」


 促された北陽は返事の代わりに隙間の前に跪き、白粉のように白く美しい指を少しづつ隙間に挿入していく。


 指で襖の縁をゆっくりと掴みながら、指一本一本順番に下ろして上げる動作を繰り返す。それは、鍵盤を弾くようにとても雅やかで美しい動きなのだが、この状況からして、襖の向こう側から見ている人にとっては奇奇怪怪な動きをしている指だけが見えていることになる。


「あっ!み、見て、あれ!」


 襖の向こうから、タイミングよく恐怖を演じる女性の声がする。


「許さない、許さない、許さない、許さない、ゆーるーさーなーいー」


 腹の奥からぷくぷくと溢れ出る毒を吐くように真理はうめき声をあげる。


 驚くほどに変な声が出てしまい、顔の見えない北陽を意識してか、急に少しだけ恥ずかしくなり、後半の方は声が小さくなっていた。


「きゃああああ!」


 修一は慌てて立ち上がり、おみつの手をしっかりと握って引っ張り上げる。一瞬にして顔面蒼白になった彼は、付いてこいと言わんばかりの勢いと迫力でおみつを部屋から連れ出したのだ。


 宴会用の座敷と真理たちの潜んでいる部屋を繋ぐ廊下には二人の慌てた足音と、古びた杉板の軋む音だけが鳴り響く。


「あ、待って、修一様、私すっごく怖いです……せめて、せめて今晩だけは、一人にしないでください」


 呆れか諦めとも取れる男の深いため息が、夜の冷えた空気に溢れた。


「……いいだろう」


「ありがとうございます」


 おみつの声は、見ずとも密かな笑みを浮かべていることを想像させる満悦を孕んでいた。


 息を殺して、襖に耳をくっつけながら聞いていた真理は、悪戯な笑みを浮かべて北陽に目で語りかけた。成功した、と。


「結局、僕がこの被り物を見せる機会はありませんでしたね……残念です」


 北陽は毛先の揃っていない巨大な筆のような被りものを下ろし、小さく笑う。


 あまり知らない相手に少し冗談じみたことを言ったのを少し恥じらうような笑みだった。


 少しだけ可愛い笑みだと、真理は思った。

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