二重の出逢い ①

 ほのかに甘い桜の葉の香りが、かつて江戸で唯一公認されていた花街────吉原の大通りにぷんぷんと来訪客の鼻腔をくすぐる頃。


 今日もまた真昼間にも関わらず、日本全国から吉原を見物しに来る人々で賑わっていた。この季節だけのために一時的に植えられる白桜色の桜の木々が等間隔に立ち並び、風でほのかに揺らめくその姿は人々を魅了する。

 

 季節の行事があるたび、物珍しさにこの吉原には男性だけではなく、女性や子供たちの姿があった。その高揚と興奮で花めく外とは裏腹に、遊女たちはどこか複雑な気持ちで中から格子越しの風景をみていた。

 

 ここは外から来る者には非日常が味わえる憧れの地であり、中で働く遊女たちにはただの生き地獄でしかない。


 カーンカーンと鳴り響く鐘のお昼の合図で、仮眠から目覚めた松田楼の遊女たちの営業は今日もまた始まる。


 いつものように、大通りに面した部屋で遊女たちは行儀良く着席していく。真紅色の格子で張られたこの部屋は、吉原に訪れた者が中を覗き、気に入った女がいないか確認できるような作りになっている。対話も許されているため、多くの客は実際にお店の利用をしなくとも遊女との交流ができる。


「あの子はどうだ?」

 

 髭を生やした、頭の前頭部が少し涼しげな中年男性が、格子越しに居座る、少し物静かそうな遊女を指しながら隣の中年太り男性に問う。


「んー……60点ぐれえかな。目がちいと小せえうえに、いまいち地味な感じちゅうか、ちいと華が足らん」


「んじゃ、あの子は?」


 今度は格子越しの部屋の中央で少し不機嫌そうな表情を浮かべる、華やかな顔立ちの遊女を指す。自分のことを指しているのがわかったのか、彼女の額には青筋が浮かび、その表情の険しさは増す。


「いいおなごだが、もうちいと豊満なんが好みだ。そうやな、75点ぐれえ与える。俺はこげなんには厳しいけん、70点越えはありがとう思え」

 

 男たちは自分たちの声が格子越しの女性たちに聞こえていることを気にすることなく、ケラケラと笑ってどこか遊女たちに勝ったような、妙な優越感に浸っているようにも見えた。


(こういう男に限って遊女に相手にされないのよね……)


 そして、普通の女性にも相手にされない。そのためか、いつしかその満たされない欲求が憎悪へと変化し、女性を侮蔑することに快感を覚えるようになるのだ。

 

 こういったは日常茶飯事のため、遊女たちも一々気に留めないように努めても、品定めされるたびにその自尊心はズタズタと、使い古された雑巾のようになっていく。


 次は自分の番が来るのではないかという静かな動揺が悟られぬように待ち構えている遊女たちがあまりにも気の毒だ。


 男たちは舐め回すような視線で遊女たちの品定めをしていると、一番手前の端に座っているやや吊り目で面長な遊女と目が合う。方言がきつい方の男性は、行儀悪く格子に寄り掛かり、檻の中の動物を見下して観察するような下賤な目付きで汚く下唇を舐める。


「こりゃあ顔だけじゃ40点。だけんど、顔が微妙な子ほど上手えちゅうしなあ。コイツは名開めいかいに違いねえ」

 

 ポツリと、真理まりの堪忍袋の尾が切れた。

 

 格子の外で男たちの横顔を大変冷ややかな眼差しを向けている真理に、男たちはまだ気づいていない。

 

 中年男性二人。どちらも服装は素朴な印象で、煌びやかさどころか、上品さや清潔感にも欠ける。まだらに生えている髭が整えられていないところが、より一層不潔な印象を与える。

 

 身なりを最低限整える努力を怠っているあたり、男性二人は自己肯定感が低く、遊女たちの品定めをして楽しむのは、相手の評価を下げて、相対的に自分の評価が上げるためであると真理は推察した。


 普段はくっきりとした可愛らしい印象の真理の瞳は、獲物を見定める蛇のように鋭く、全く隙を見せない。その姿で臆病な人が目を合わせてしまったら、きっとその場に凍りついて動けなくなるだろうと、真理本人は思っていた。


 無意識に睨みつけていたことに気づいた真理は、指で強引に目の周りをほぐし、目に元通りの柔らかい印象を取り戻した。そして、意を決して男たちに近づく。


「そこのいい男さんお二方、遠くからこの吉原にお越しいただきありがとうございます」


 振り向いた男たちは、真理の皮肉を真に受けたようで、目の前にいる可憐な女性を見て、頬を緩ませる。


「お姉ちゃん、ここの遊女かい?」


「いいえ、私はここ吉原の橘屋という薬屋で働かせていただいている真理でございます」


「さすが吉原。お姉さんみたいなべっぴんさんが多いのう」


「いえいえ、とんでもございません。私はここの遊女とは比べものにはなりませんよ────実はですね……」


 と切り出した真理は、背中に背負っていた木箱の引き出しから小包を三種類取り出す。会話の方向性が掴めなくなったら、営業トークの開始の時刻。


「お二人にぴったりなお薬の調合を販売しているんですよ。どれも大好評で、お二人にも是非お試し頂きたいと思いまして」


 前頭部が涼しげな男性は少し興味津々に小包を覗く一方、もう一人の男性は『なんだ、ただの商売か』と言わんばかりに周りの景色に目を向ける。


「どれどれ。これはもしや、あの長命丸ちょうめいがんか。話では聞いたことあるが、うちの近くではまだ見たことがない。ずっと気になっていたんだ、ぜひ買わせてくれ」


 先ほど薬に興味がないことを見せつけるかのように、空に広がるもっこりとしたわた雲を数えていた男性の意識が突然ピンッと、糸で弾かれたように向けられる。


「長命丸……長命丸と言ったか?あの、どんな女でも泣かせると評判のやつか?」


 長命丸は、江戸時代から人気のある一種の媚薬だ。材料や調合はお店によって変わるが、橘屋では様々な薬草とアヘン、硫化水銀、ヒキガエルの皮脂線の分泌物などといった珍しいものを原料としている。一般的に使われる薬ではないため、こういう特殊な場所でしか手に入らないのだ。


 真理が取り出した小包を長命丸と勝手に推測し、話をどんどん進める男性を心の中で嘲けりながら、事実を告げる。


「こちらは長命丸ではございません」


「えっ」


「何だ……」


 中年太り男性は再び辺りを見渡す作業に戻る。


「申し訳ございません。うちでは取り扱っていなくて────」


 これは嘘である。売り歩いていないだけで、お店の方にはしっかりと在庫がある。気に入らない客にそれを売らないというのが、真理の商売方針だ。


「こちらは右から『かみはえーれ』、『かれいしゅうなくなーれ』、『やせーろ』です」


「随分と洒落たものを売っているではないか。西洋の響きがあるのう。もしかして西洋から輸入したものか?」


「あっ、いいえ……多少、西洋の影響は受けてますが、材料の確保や調合はすべて橘屋でやらせていただいております。効果も抜群でして、遠くからお買い求めいただいているお客様も多いのですよ」


「それで、どんな効果があるんだい?」


「かみはええれ……かれえしゅうなくなあれ……」


 喋るたびに寒天のようにぷるぷると大きなお腹を振動させている男性は、さっきから薬名を反芻しているようだ。そしてパッと、目を勢いよく見開く。


 やっと気づいたようだ。


「俺たちをおちょくっているのか?!」


「へえ?」


「馬鹿にしよって、この女が。俺らが田舎もんだけん、気づかないと思うたんか」


 馬鹿にするも何も、そこに気づかせて気分を害するのが真理の目的だ。


「いったい、どういうことだ?」


 未だに状況を掴めてないもう一人の男性は、かつて髪で生い茂っていた箇所を指で掻きながら、鈍いながらも状況を把握しようとする。


「この女が俺たちに勧めてきた薬ん名前をよう見よ。遠回しに俺たちがハゲで、加齢臭がして、太っちょると言っとるやないか」


「そ、そうなのか?」


 戸惑いの孕んだ口調は、真理に否定を求めているようにも聞こえたが、その期待に応えようという気持ちは皆無だった。


 微笑を浮かべながらここまで聞いていた真理は、一度大きく頷く。


「そちらの男性がおっしゃった通りでございます。そもそもあなた方のように、女性をただの道具としてしか見ていないような人に長命丸のような媚薬は絶対にお売りしません。自分のことを棚にあげといて、弱い立場の者を侮辱する人を心から軽蔑します。不快極まりないです。お引き取りください」

 

 それまで真剣に真理の話を聞いていた男性は唖然としている一方、もう一人は茹だったタコの如く、顔を紅潮させていた。


「この売女が!何よ偉そうに。女は黙って男に媚びちりゃあいい」


 容姿を指摘されるのは、誰にとっても気持ちの良いものではない。たった一度だけ言われた心ない一言が、人生を大きく狂わせることもある。だが、目には目を、言葉の毒には言葉の毒を。相手が男なら、尚更容赦はしない。


「せいぜいこの薬でも飲んで、その醜さを少しでも軽減されてはどうですか?あいにく、性格の醜さには全く効果ありませんが」


 真理は薬の入った小包を男たちに投げつけながら、捨て台詞を言う。


 格子のすぐそばで起こした騒動を、固唾を飲んで遊女たちは見守っていた。声を大きく張り上げていた男の声に反応した野次馬の群衆も徐々に大きくなっている。


「真理ちゃん、もういいから!」


「誰か、佐藤さんを呼んで止めてもらって!」


 焦りを孕んだ遊女たちの声がするが、真理の耳には入ってこない。


 流石に煽り過ぎたかもしれないと思った時にはもう既に遅かった。肉肉しい手の平が頬に命中し、その衝撃で思わず後ずさる。どっしりとした薬の保管箱を背負っているせいで体勢を崩してしまい、土が踏み固められてできたカチカチな地面に両手で全体重を受け止める。


 少し遅れてきたピリピリとした肌の痛みと、鼻にツンと来る不快な感覚に、無意識に目が潤んでしまう。


(いつぶりだろうか、このように叩かれたのは……)


 ぼんやりとそう考えていたのは束の間。痛みより激しい憤怒の荒波が押し寄せてくる。


(絶対に許さない。女に手をあげるやつだけは絶対に許さない!)


 真理は沸々と湧き上がってくる義憤を宿した瞳を上に向けた。


「とても可哀想な人ですね。自己肯定感が低く、おまけに自己表現があまり得意でないから、きっとすぐに手を出すのですね。あなたには認知行動療法をお勧めします」


「訳のわからんことを!もういっぺん俺を馬鹿にしてみぃ!お前のような生意気な女にはこん手でしっかり教育する必要があるみてぇや」


 真理は、先ほど扇動的な発言を繰り返している自覚は十分にあり、目の前の怒り狂う男性がどのような行動を取るのかも予想がつく。その怒りに震える拳の振り下ろされるであろう矛先も。


 野次馬たちはただ茫然と騒動を何かの見せ物のように眺めてはヒソヒソと会話している。


 これほど痛い目にあっても、これほど屈辱を受けても、ここで自身が屈することを許してしまっては、自尊心を保てなくなると真理は知っている。ただの虚勢であっても、真理はそれを貫き通さなければならなかった。


 真理は口角を僅かに吊り上げ、思いっきり挑発的で憎たらしい笑みを見せつける。


 それが引き金になったに違いない。


 男性は再び近づく姿勢を見せた。


 さすがに体を張っての応戦に勝利する自信はないため、真理は防衛態勢に縮こまる心構えをしていた。無防備な女性が男性に一方的に叩かれていては、一人くらい良心的な人が出てきて、男を宥めたり喧嘩を止めに入ってもおかしくないと真理は考えた。


 少し都合の良い話であるが、その期待を胸に秘めながら、接近してくる暴力男を警戒するように睨んでいた。


 その期待がまんまと裏切られた、と思いかけていた矢先。

 

 宵闇を纏った大きい背中が真理の視界を占拠する。


(……誰……?)


 生ぬるい春風が吹いていた空間が、一瞬にして真冬の闇夜のように凍りつき、うなじの毛が逆立つようなぞくぞくとした寒気が身体中を走る。


「女に手を出すとは悪趣味なやつだな」


 低く透き通ったその声は、全身黒の洋装に身を包んだ男性から発せられた。


「誰だおめえ?」


 真理の都合の良すぎる希望の光が消え失せそうになった瞬間、突如姿を現した希望の新星の背中は、眩しかった。


「お前のような落人おちゅうどから善良な市民を守る、言うなれば英雄かな……なんてな」


 最後は鼻で笑うように吐き捨てた。


(……英雄……?)


 その言葉の響きは真理の中の何かを掻き立て、渦を巻くように脳内を占領する。そして、真理にとあることを思い出させた。


 かつて読んでもらっていた西洋の物語には、必ずと言っていいほど市民を悪から救う英雄が登場し、それは自分を顧みず、他人の幸福と平和を守るためだけに尽力する孤独な存在だった。


「悪いことをする輩には……制罰が必要だ」


 感情の読めない声音で言い放ったその男は、次の瞬間、懐にしまってあったと思われる金属製の凶器をぎらつかせながら男を牽制した。


 緊迫した様子に野次馬たちは合唱のように「ハっ」と息をのむ。


「言っておくが、俺はこれで何人もヤってる。意味、わかるか?」


 鋭い刃物らしきものの先端が暴力男の喉仏に当てがわれ、彼の柔らかい首に濃い朱色のビー玉を形作る。


「……っ、こん卑怯者め……凶器のねえ俺と対等に戦えるわけねえやろう!」


「っふ、笑わせてくれるなあ────戦える術のない者に手をあげといて」


 男は刃物を勢いよく落とし、その衝動で土埃が僅かに舞う。


「ならば、刃物を無くそう。は捨てたがは元からだからどうしようもない」


 その言葉の意味は、数秒遅れて理解することになる。


 鈍く、不快な音が辺りに響き渡る。例えるなら、まだ乾燥していない木の枝を強引に折った時に出るような音だった。


 『英雄』と名乗った男の背中越しで何が起こっているか正確に把握はできなかったが、それに続く「っっっああぁぁぁ」という悲痛の叫びで、その音の正体は容易に想像できた。


「……っ、おめえ、どうか、してる……」


 二本の指が不自然な方向を向いている手をもう片方の手で抱えながら、男は苦しそうに言葉を絞り出した。


 暴力男はか弱い女性でなく、自分との体力勝負に圧勝する男性と対峙し、自分の運命を悟ったのだろう。


 彼は無言のまま、連れの男性の袖を引っ張りながら、立ち去ろうとする。


「ま、待て!」

 

 ただ茫然とその様子を見ていた薄髪男は、暴力男の手を一度振り払い、真理の近くで一度しゃがみ込む。 


(な、何をするつもり?)


 その表情には罪悪感に似たものが見て取れて、それは謝罪を期待させるようのものだったが、目を合わせるや否や、その視線は素早く外されてしまった。そして稲妻のような速さで真理が投げつけた薬を拾い、瞬時にその場を去ってしまった。


(ええええ……)

 

 真理は目を見開き、その様子に唖然としていたが、自分を窮地から救ってくれた男性にお礼を言わなければならないことをすぐに思い出す。


 彼はまだ背中を向けたまま、地平線に向かって去って行った男たちの情けない姿を呆然と眺めていた。


「あ、あの……助けていただき、ありがと────」


 まだ緊張と恐怖が抜けきれず、震える小さな声で男の背中にそう言いかけた途端、真理は心配そうに覗きこむ遊女たちの言葉に遮られた。


「真理ちゃん、大丈夫?」


「無茶しないでっていつも言ってるじゃない!」


「その頬痛そうね。手当するからちょっと待ってて!」


「あ、私ならもう大丈夫よ」


 遊女たちはお店から出てきたようで、真理を取り囲むようにしていた。全方向から飛び交ってくる気遣いの言葉やちょっとした説教に、心底ほっとする。


 普段から仲良くしている遊女もそうでない遊女も、こういった有事には団結して行動を共にする。女性同士の嫉妬やねちねちとした感情が衝突を生み出し、一致団結することが困難なことも多いが、共通の敵が出現した場合、そういった感情を一旦棚に上げ、敵を倒すことや共通の目標の達成のために手を取り合って尽力することがある。実に面白い心理現象だなと、のんびりと考えて思わず笑みをこぼしてしまった真理に、再び質問の雨が降り注ぐ。


「どこか痛い?」


「ねえ、本当に大丈夫?」


 次から次へと投げかけられる問いに応答しきれず、真理はぽかんと男の後ろ姿を見つめることしかできなかった。


 常軌を逸しているとしか思えない彼の行動に、大半の見物者は化け物を見るような眼差しを向けて怖気付くが、真理の瞳には不思議なほど彼の姿は違うものとして映っていた。


 果敢で頼もしいその後ろ姿は、太陽を直視したときのように眩しいながらも、己の正義を貫くために手段を選ばないその残虐さと覚悟は熟練の職人に研ぎ澄まされた刀のような精鋭で危うい美しさを感じさせるものだった。


 彼は一度も振り返らず、タッタッと、しっかりとした足踏みで人の波へと消えてゆく。


(待って!まだお礼も何にも言えていないのに……)


 目で必死に追いながら心の中で叫ぶ。


 タッタッと鳴り響く足音が、段々と聞こえなくなり、人一倍に暗い影を落としていた一匹狼は、とうとう見えなくなってしまった。


「……っ、……『英雄』さん」


 感嘆のごとく、思わずこぼしてしまった独り言は誰に届くこともなく、昼の喧騒に呑み込まれていった。


 そして、知らぬ間に胸に当てていた両手の辺りに、春の一陣の風が吹く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る