第35話 カフェ

 ありすがアイスコーヒーの入ったグラスを持ち上げ、ストローに口をつけると、シルバーの細いブレスレットが肘の方にずれ落ちた。沙羅はブレスレットに光るクリスタルを眺めながら、ありすの話に相槌を打つ。

「ねぇ、沙羅ちゃん、聞いてる? びっくりしたんだけど、『Summertimeサマータイム』。ジャズ歌えないって言ってたから全然歌えないのかと思ってた。それっぽく歌えてたじゃん、今日」


 沙羅は曖昧に微笑み返し、自分もストローに口をつけた。アイスカフェラテを吸い込みながら、グラスを持つ自分の手指しゅしを凝視する。ウエストや脚は細いのに、どうして手はこうも肉厚なのだろう。指にまでしっかり肉がついているので、指輪も様にならない。沙羅はありすの華奢な指先に塗られたチョコレートブラウンのネイルに目を留めてから、眩しそうに彼女の顔を見つめた。

「ありすちゃんだって、『Feeling Goodフィーリング・グッド』、上手だったよ」


 ありすは射るような眼差しで、沙羅を見つめ返した。

「嘘。思ってないでしょ? 私の声、太くないから『Feeling Goodフィーリング・グッド』、合わないもん。歌えって言われたから精一杯歌っただけ。結局、私が『Summertimeサマータイム』になって、正直ホッとした。沙羅ちゃんだって、『Feeling Goodフィーリング・グッド』に決まって良かったでしょ? やっぱり本番は自分に合う曲で勝負したいよね」

 栗色の髪がさらさらと顔面にかかるのを両手で払いのけながら、ありすは含み笑いをした。


「でも私、『Summertimeサマータイム』、好きになったよ」

 沙羅はありすの直球かつ棘の刺さった言葉のボールをかわせずに、そう答えた。ありすの瞳の底が訝しげに曇る。

「そうなんだ。ねぇ、あの後、亮先生と会った? そう、会ってないんだ。なんか雰囲気変わったよね、沙羅ちゃん。オトコの匂いがする」

 思わず目を逸らした沙羅をありすは注意深く見つめながら、話を続けた。

「沙羅ちゃんさ、ずっと日本にいたにしては歌ってる時の発音、悪くないね」

「それは、他のとこで習ってるからかな」

 話題が変わった事に安堵し、田嶋の顔を思い浮かべながら沙羅は微笑んだ。


「そっか。でもさ、この先どうしたいの? 英語のR&B歌ってるってことは、いつかアメリカで歌いたいんだよね? 正直、東アジア人の英語の発音ってかなり訛りきついんだよね。会話ならまだしも、歌となると聞いちゃいられないってよく言われてるから、本場では」

 沙羅は言葉の真意を探るように見つめたが、ありすは真っすぐに沙羅を見つめ返した。

「でも、ありすちゃんだってブリティッシュイングリッシュなんじゃないの?」

「あのねぇ、R&BシンガーにもElla Maiエラ・メイとかAmy Winehouseエイミー・ワインハウスとかイギリスのシンガーいるし。ブリティッシュとかブラジルのポルトガル語訛りのジャズは、本場でもセクシーって言われてんだよね」


「ねぇ、何が言いたいの? 私には無理ってこと? でもさ、知ってる? あのアポロシアターの『アマチュア・ナイト』で、日本人で優勝した人だっているんだよ。私にだって可能性はゼロじゃないでしょ」

 苛立ちを隠せずに沙羅はそう言葉を返したが、ありすは眉一つ動かさない。

「そうね、だけどあの人は例外。実際、日本人の大人では今まで一人しかいないもん」

 マンハッタンのハーレムにあるアポロシアター。1934年にニューヨークで初めて黒人のエンターテイナーが起用されて以来、黒人文化のシンボルとされている。

 沙羅は淡々とした口調で話すありすを静かに睨んだ。ありすは何かに気を取られたのか、沙羅の肩越しから窓の外を見やったが、再び沙羅に視線を戻した。


「彼女は専門学校を出てから、国内でミュージシャンのバックコーラスをやってたから。でも、たとえあそこで優勝しても、メイン・ヴォーカルとしてアメリカで歌うのは、ほぼ無理でしょ。向こうでバックコーラスをするか、日本で歌う道は開けても。まぁ、私は来年からアメリカの大学に通って音楽学と経済学、二つ取る事にしたけどね。保険を掛けとくのは大事でしょ」

 ありすの言っていることは正論だ。沙羅は頭ではそう理解していた。しかし、音楽以外の道を用意できるようなお金も頭脳もない自分が歯痒く、言葉を発せないでいた。


「ねぇ、見て。さっきからあそこで踊ってるダンサー、すっごい上手」

 沙羅はその言葉にハッとして、携帯電話で時刻を確認した。レッスンの後、翔太と会う約束をしていたのだ。急遽、ありすとカフェに入ることになり、この店の前で待ち合わせる事にしたが、約束の時間はもう十分も過ぎていた。

 振り返って窓越しに翔太の姿を確認すると、沙羅は小さく手を振った。

「知り合い?」

 ありすは近づいて来る翔太と沙羅を興味深そうに交互に見つめ、窓のすぐそばで立ち止まった翔太に愛想のよい笑みを浮かべた。さっきまでとは別人のような透明感のある美少女ぶりに、沙羅の心がざわめく。翔太がありすに見惚れながら会釈をする様子を見て、沙羅は胸に暗雲が立ち込めるのを感じた。


「ねぇ、知り合いなんでしょ? 紹介してよ」

「だめ」

 咄嗟にそう答えると、予想外の言葉に呆気に取られるありすを前にして、

「違うの。あの、電車の時間に間に合わないから、また今度ね! ごめん、後で携帯で送金するからここ支払ってもらっていい?」

 そう言うと、沙羅は鞄と自分のグラスを持ち、急いで席を立った。

 一人で外に飛び出して来た沙羅の慌てぶりに翔太は驚いていた。沙羅は翔太の顔を見られずにその手を引っ張ると、「早く行こっ」とだけ言って、改札の方へと歩き出した。



 




 

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