第34話 ピアノ(4)
『
ニューオーリンズの娼館の一階で演奏されたジャズ。客はジャズバンドの演奏を聴きながら娼婦を品定めし、二階に上がる。
奈緒美は間奏を弾きつつ隣りに立つ沙羅を見つめた。
「ジャズの中にブルースを感じるでしょう」
沙羅は奈緒美を見つめ返し、頷いた。
ジャズが生まれる少し前にアメリカ南部の農村で生まれたブルースは、黒人奴隷が労働の合間に歌った即興歌がもとになっている。
哀しみや魂の叫びを歌ったブルースは、アフリカ人独特のブルーノートスケールが特徴的だ。西洋のドレミの音階とは違う、物悲しく憂いのある響き。それが歌詞の内容と相まって聴く者の胸を打つ。
奈緒美の右手が軽やかに動きながら、アドリブ演奏を繰り出す。鍵盤が叩く一つ一つの音が、沙羅の心の深いところに届く。間奏なのに、沙羅は涙が出そうだった。
そっか。私、ゴスペルからR&Bに入ったからソウルフルに歌ったり、シャウトしたりするのは得意だけど、だからしっとり歌うパートが苦手だったんだ。
沙羅が目の色を変えたのを見て奈緒美は微笑むと、2コーラス目を歌い始めた。躍動感が増し、心が湧きたつような歌い方に変わる。
「スウィング……」
思わず呟く沙羅に、奈緒美は歌いながら頷いた。
ニューオーリンズから北上したジャズは、シカゴ、そしてニューヨークへと辿り着く。禁酒法時代には、地下の違法酒場でジャズは欠かせない音楽となる。人間の弱さに寄り添ってきたジャズは、
1929年、世界恐慌がニューヨークのウォール街を襲う。絶望した人々は、ジャズに光を見出そうとした。そこで誕生したのがスウィングジャズだ。
ジャズに潜む、うねるようなグルーヴ感のある歌い方が前面に出たスウィングジャズ。沙羅は奈緒美の体内から流れ出るリズムに合わせて体を揺らした。
奈緒美は手を止めて沙羅を見上げる。
「ジャズはスウィングが命。四分音符の時も八分音符の時も、この三連符を感じて欲しいの。実際には三連符だけじゃないけれど。もし、それが難しいなら、裏拍にアクセントをつけるっていうイメージで。そして、ちょっと遅らせて弾いたり歌ったり。『ためて歌う』って言うんだけどね、R&Bでも使うテクニックでしょう?」
奈緒美はそう言うと、また鍵盤に手を置き、歌い始めた。奈緒美の心地よいスウィングを聴きながら、沙羅は壁に飾られた絵を眺めた。ダンスクラブで踊る客達とジャズミュージシャン。演奏家には白人の姿もある。沙羅はまるで自分が踊っているような気分に浸りながら、目を瞑った。
スウィングジャズは白人の上流階級にも浸透したが、そんな白人主体の大衆音楽になったジャズに不満を持つ黒人演奏家もいた。彼らは昼間にビッグ・バンドで演奏し、夜になるとハーレム地区のジャズクラブバーに出入りするようになる。そこではアドリブが主体のセッションが毎夜繰り広げられ、後のモダンジャズの流れへと繋がる。
アフロアメリカンの湧き上がるようなクリエイティビティと高度な演奏技術や音楽理論に基づくモダンジャズは、ついにその芸術性を白人達に認められるのだ。
黒人にだって「大衆音楽」だけでなく「芸術音楽」が生み出せるのだ、と。
奈緒美は3コーラス目に入ると、声を張り上げた。そのパンチの効いたソウルフルな歌い方に驚き、沙羅は壁の絵から奈緒美に視線を戻した。
スウィングしながらシャウトするその歌声により、『
嵐の大きさは、生まれた環境や人によって全然違う。たとえ大嵐だとしても、この世に生まれた限り、飲み込まれて死にたくはない。諦めたくない。
沙羅が胸の中でそう呟くと同時に、奈緒美が言葉にならない叫び声を上げた。
スキャットだ‼
ジャズシンガーの最たるアドリブは、スキャットだ。歌詞では表せない魂の叫びだ。奈緒美の歌声が沙羅の頭の中で鳴り響いた。
「沙羅ちゃん。大丈夫? どうだった?」
奈緒美の問いかけに沙羅は現実に戻され、すごかったですと呟いた。
「スキャットはね、とにかくいろいろなジャズシンガーのを聴いてみて。で、今通ってるスクールの先生とコールアンドレスポンスで練習するのが一番よ。あ、先生がワンフレーズ歌った後に、沙羅ちゃんが真似して歌うやつね。オッケー?」
沙羅は黙ったまま頷く。
「じゃ、残り時間いっぱい使って、今私が言ったポイントを練習しましょう! 沙羅ちゃんの歌声聴かせてよ」
奈緒美はそう言うと、前奏を弾き始めた。
緊張しながらも目を輝かせて歌う沙羅を、京子は離れた場所から見守っている。その頬は紅潮し、奈緒美が繰り広げたジャズの世界にすっかり魅せられているようだった。
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