第33話 ピアノ(3)
吉祥寺駅のロータリーを抜けて賑やかな商店街を歩きながら、沙羅は京子の横顔を見た。店先に並んだ洒落た商品に目を輝かせているその様子は、まるで学生のようだ。
そう言えば、ママと二人で出かけるなんていつぶりだろう。
「沙羅。今から行くお店、お昼からはお客さんが入るから教えてもらえるのは二時間もないの。聞きたいことは忘れずに聞くのよ」
華やいだ表情を引き締めて京子が沙羅に顔を向けると、沙羅は黙ったまま頷いた。
レンガ造りの建物の地下へと続く階段を、京子に続いて降りながら沙羅は胸の高鳴りを感じていた。「ピアノバー ヴューカレ」と書かれた重い扉を京子がゆっくりと押す。狭い店内の中央に置かれたグランドピアノが、二人の目に飛び込んだ。
「京ちゃん!! やだ、ほんと久しぶり」
ピアノの傍らに立っていた肉付きのいい女性が京子に駆け寄ると、柔らかく抱きしめた。黒いドレスのスリットから艶めかしい脚が覗く。沙羅は思わず目を背け、壁面に飾られたジャズミュージシャンやピンク色の建物の写真を眺めた。
「あの楽屋でルイスから京ちゃんを紹介されたのって、もう二十年以上も前なのよね。そりゃあ、私達も年を取るわけだ。でも、京ちゃん、変わらない。女手一つで沙羅ちゃんを育ててるって言うから、どんなに逞しくなったかと思ったのに。こんなほっそい腕して」
ふふふと笑う京子の両腕を掴んだままそう言うと、その女性はもう一度京子を抱きしめてから、沙羅に視線を移した。
「それ、ニューオーリンズのロイヤル・ストリートってところ。ジャズが生まれた場所よ。アメリカっぽくないでしょう? スペインやフランスの植民地だったころの街並みがまだ残ってるの。あたしもね、大人になってから短期だけど留学したのよ。アメリカはあちこち行ったわ。ライブハウスでセッションしたり、ツアーに参加させてもらったり。あなたのパパともお仕事で知り合ったのよ。R&Bやりたいんでしょう? それなら絶対にアメリカに行った方がいいわ。若いうちよ、何でも」
早口で捲し立てるようにそう言うと、その女性はからからからと笑った。その豪快さと情愛のこもった笑い顔を見ていると、沙羅は緊張が解れていくのを感じた。
「沙羅、こちらは
京子がお辞儀をすると、沙羅も慌てて頭を下げた。
「いいのよ、気にしないで。じゃ、早速だけど始めましょ。小さい頃に教会のオルガンで弾いてたんだって? それじゃ、少しは弾けるのね」
奈緒美はピアノチェアに腰かけると、ジャズのスタンダードナンバー『
「まずは、ジャズピアノの演奏の基本。見て。左手がコードで右手がスケールね。左手は幾つか同時に鳴らすことが多くて、アドリブは右手で入れるの、こんな風に。コードとスケールが溶け合う感じよ。面白いでしょう? アドリブはひたすらジャズを聴いてフレーズを覚えるのも大事だけど、やっぱりコード理論と音楽理論を勉強しないとダメね」
奈緒美は上半身を揺らしながらリズムを取り、鍵盤の上では軽やかに指が躍っている。沙羅も『
「そんなの面倒くさい! ジャズは楽譜を読めない黒人さん達が耳コピとアドリブで演奏したんだからって言う人がいるけれど、リズム感もセンスも何もかも違うでしょう。天才じゃないのなら、基本は大事。それでね、弾き語りなら一オクターブ下げることも多いわ。左手がベース、右手がコード、歌がメロディーってパターンね」
溌溂とした調子でそう言うと、奈緒美は両手を少し左に移動させた。若干しっとりとした演奏に変わると、奈緒美の掠れた歌声が飛び跳ねるように曲に乗る。
奈緒美の強い眼差しとハスキーでありながら伸びやかな歌声が、この曲の甘い歌詞と合わさり、聴き手の心を
「どう? 沙羅ちゃん、弾けそう?」
いたずらっぽく奈緒美が沙羅を見上げて笑うと、沙羅は強く
「そりゃ、そうよね。あたしだってびっくりしたもん。京ちゃんから久しぶりに連絡が来たかと思ったら、一ヶ月で課題曲が弾けるようになんてお願いされて」
奈緒美の言葉に京子は肩をすぼめ、ごめんなさいと呟いた。
「ジャズは譜面通りに弾くのとは違うんだから、それは無理な話よ。でも、本当に歌いたいのはR&Bで、表現力の練習の為なんでしょ? イベントで歌うんだっけ?」
こくりと頷く沙羅を見て、奈緒美は優しく微笑んだ。
「それならあと一時間でジャズの歌い方のコツだけ教えてあげる。まずね、楽しむのが一番。だから、肩の力を抜いて」
奈緒美は鍵盤の上で両手を転がしながら、沙羅を見つめたまま『
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