第32話 ピアノ(2)

「いつからそこにいたの」

 京子ははにかむように笑いながらそう言うと、沙羅の顔を見つめた。

「ママがこの曲を弾き始めてから」

 沙羅はこぢんまりとしたリビングのソファーに腰を下ろし、京子に視線を戻した。

「私が小さい頃、夜中にリビングから聴こえてきた曲だったから。なんか、あの頃の気持ちとか思い出しちゃった」

「そう。あの頃、聴こえていたのね」

 京子は目を伏せてそう呟いてから再び沙羅を見つめ、微笑んだ。


「ママもね、小学生になったばかりの頃かしら、この曲をよく練習していたの。楽譜を見るとそんなに難しくはないのだけど、上手には弾けなかったのよ。楽譜通りに弾いているつもりなのに、ルービンシュタインとかピレシュとか一流のピアニストが弾いているものとはまるで違うの。そんなの当たり前なのにね。だって、六歳のただの女の子が弾いているんだもの。でも、ママは何が違うのか分からなくて、どうしたらいいのか分からなくて途方に暮れていたの」

 懐かしそうなどこか寂しげな京子の表情を見ながら、沙羅は小さな京子が鍵盤の前で試行錯誤している姿を思い浮かべた。きっと今のように真面目な女の子だったのだろう。沙羅は微笑みながら頷いた。


「ママのお家にあったのは、ほら、あなたも見たことあるでしょ? あの、アップライトピアノで、グランドピアノとは音が違う。それに、通っていたのは全国展開のピアノ教室で、ママが先生に質問しても答えをはぐらかされたように感じていたのよ。『それは今のあなたにはまだ難しいから、ひとつずつ頑張りましょうね』って言われるから。でも、たとえ技術がなくても知りたかった。どうすればあの音が出るのか」

 自分の技術とはかけ離れた完成度を求めてピアノに向かう少女に、若い女性講師は辟易したことであろう。沙羅はくすりと笑った。

「ママ、大人しそうに見えてそうとう頑固だもんね」


 京子はその言葉にたしなめるような目つきをしたあと、二人で顔を見合わせて笑った。

「それじゃ、沙羅の頑固さはママ譲りね。結局、大学教授のレッスンに通えるようになったのは短大受験前の二年間だけで、それまでは一人で悪戦苦闘していたの。何度も何度も一流ピアニストの演奏を聴いて。テレビで放映される時は、ずっと手元を映してくれないかしらって思ったものよ」

 まるで、私がマイケルやホイットニー、リアーナのステージに夢中になったのと同じ。

 沙羅は一度シンガーを好きになると、何度も繰り返し聴いたり観たりする。母親の血が自分に流れていることを改めて強く感じた。


 沙羅の思いを見透かしたように京子はふふふと笑った。

「ピアニストや作曲家の伝記もたくさん読んだわ。その曲が生まれた時代に何があったのか、作った人に何があったのか。楽譜ってお手紙のようなもので、でも分かりやすくは書いてないの。大好きな人からもらう暗号のような手紙。そこに何が書いてあるのか気になるでしょ? 何が正解かは分からないまま、一生懸命に読み解こうとする。相手のことを知るだけじゃ片想いのまま。想像力と技術と経験が合わさって両想いになれる。両想いになった後も愛を育んでいかないといけないの」


 一流ピアニストの同一人物による演奏であっても、弾く年齢によってまるで音色が違うものだ。それはシンガーであっても同じこと。年老いて高い声が出せなくなっても、聴き手の心に染み入るような歌い方ができる歌手もいる。

 沙羅は、京子の経験に裏打ちされた言葉に感銘を受けながら母親を見据えた。

「ママがこの曲と両想いになったのはいつなの?」


「パパと会ってから」

 京子は小さな声でそう言うと、深呼吸をした。

「ママは、この曲はショパンがパリに着いてから作ったという説を読んで、きっとそうだと思ったの。華やかなパリの社交界で、リストや亡命してきたポーランド人達と会えたショパンの喜びや幸せな気持ちが伝わってきたから。パリの社交界ってどんな感じだろう。明け方に帰る時の気分ってどんな感じだろうってずっと思っていたけれど、あのライブバーでパパや亮君達と遊んでいた時、その気持ちが少し分かった気がしたの。だから、これはママの青春の曲」

 華やかで美しい社交場から帰るときの、幸せだけれど少し寂しい気持ち。京子の言葉を通して追体験されたそんな感情が、沙羅の心に浮かび上がった。


「そんなことより、沙羅。このピアノってジャズを自分なりに弾きながら歌うために、田嶋さんが下さったのでしょう? ママもね、教えてあげたいのだけれど、ジャズピアノとクラシックピアノってまるで違うのよ。ジャズって即興演奏が勝負だから、再現して演奏するクラシックとは根本が違う。私、コードしかない楽譜で演奏するなんてできないもの。だから、私の知り合いを紹介するからその人に教わってちょうだい。明日、あなたアルバイトもレッスンもないでしょう? ちょうど明日なら大丈夫って言われたから、一緒に行きましょ」


「明日!? 嬉しいけど……急だね、ママ」

 京子はじっと沙羅の顔を見つめた。

「仕方ないじゃない。ピアノが届くのだってこの前聞いたばかりだもの。次のレッスンでまた歌うんでしょう? それに、昨日沙羅とその話をしようと思っていたのに、沙羅ったら帰ってきてすぐに自分の部屋に籠っちゃうし」

 いぶかしげな京子の視線に慌てて目を逸らした沙羅は、せわしげにソファーを立つと、「じゃ、バイトに行くから」と言って足早にリビングを出た。


 

 

 


 

 

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