第31話 ピアノ(1)

 頬に当たる柔らかな朝の日差しを感じ、沙羅は薄目を開けた。見慣れた自室の天井をぼんやりと眺めながら、今日の予定を頭の中で整理する。アルバイトはお昼からだ。

 沙羅は寝返りを打ち、ピンク色の洋服箪笥を見るともなく見ていた。モノトーンでまとめられたこの部屋の家具の中で、その箪笥だけが異質である。


 小学校入学時に母親から買ってもらったその箪笥は、学習机とセット売りされていたものだ。執拗にねだる沙羅を前にし、困ったような悲しげな表情を浮かべた京子は、沙羅を宥めながら箪笥だけを購入した。

 当時人気のあったキャラクターが施されたその机は、機能性にも優れ、金額的に手が出せなかったのだろう。代わりに配達されたシンプルな机を前にして沙羅はしばらく黙った後、小さな声で京子にありがとうと言った。


 それ以来、欲しい物やしたい事が叶わなかった時、きまって沙羅はベッドに横たわりながら、ピンクの箪笥を眺めたのだ。あの頃、何度もピンク色の学習机で勉強する自分を想像したように。


 やっぱり、この部屋にピンクは似合わない。

 沙羅はつくづくとその箪笥を眺めながらそう思った。子どもじみているとは思いつつも、捨てられなかった愛着や執念のようなものは消え去っていた。

 爽やかな秋晴れのような清々しさが沙羅の心に充満している。沙羅は下半身に鈍痛のような違和感を覚えながら、昨日翔太と肌を重ねた事を思い出し、ひとり顔を赤らめた。上半身を起こして伸びをし、ベッドから出て窓辺に立つ。


 見慣れた近所の光景であったが、秋陽しゅうようを浴び、屋根も壁も煌めいていた。カーテンを開けた沙羅に驚いたのか、電線に止まっていたヒヨドリたちが一斉に飛び立つ。

 沙羅は寝巻きのまま、『Feeling Goodフィーリング・グッド』を口ずさんだ。


 聞いて。ヒヨドリたち。

 今、私は最高に幸せ。

 人生にこんな幸せがあったなんて。

 もう、昔の記憶に囚われなくていいの。


 歌う声は次第に大きくなり、沙羅は高揚感に包まれた。歌い終わってからもしばらく余韻に浸っていた沙羅は、リビングの方から流れる音楽にハッとした。

 そう言えば、いつもなら私が歌うとすぐに飛んで来るママが、来ないなんておかしい。

 沙羅はカーテンをぴったり閉めて寝巻きを脱いだ。リビングから聴こえてくるのはショパンの『ノクターン第2番』だ。


 沙羅が幼かった頃、ベッドに入った後でリビングからよく聴こえてきた曲だ。夜想曲という名の通り、暗闇の中でこの曲を聴くと、優しく睡眠にいざなわれるような感覚がしたものだ。

 きれいだけど、悲しくて怖い曲。

 沙羅は箪笥から部屋着を取り出しながら、その頃に感じた印象を思い出す。


 繊細なショパンの手から紡ぎ出されたこの曲は、泣きたくなるほど甘美な音色を奏でながらも、時折叩き出される硬い音や終盤にかけて盛り上がりを見せる場面がある。哀しみの中に浮き上がる僅かな激しさ。それが、暗闇の中で耳を澄ませていた当時の沙羅には少し怖かったのだ。

 この曲が生まれた年、ショパンの祖国ポーランドを占領するロシアに反旗を翻した蜂起ほうきが失敗に終わった。ウィーンにいたショパンはフランスへの旅路でその悲報を聞き、深い絶望の中、あの有名な『革命』を作曲した。ロシアによる祖国への圧政は一層強まり、苦しむ同胞たちを想いながら『ノクターン第2番』は作られたのではないかと言われている。


 沙羅はそんな背景は知らなかったが、この曲に漂う優しさや哀しみ、激しい感情を感じ取っていた。

 あの頃、どんな気持ちでママはこの曲を毎日聴いていたのだろうか。

 沙羅は自分の下着姿が窓の外から見えないか、カーテンを再度確認してから着替えた。ついこの間まで「下着姿なんて誰も見てない」と母親に口答えしていた自分が、我ながら恥ずかしく感じる。


 脱ぎ捨てた服を拾い、沙羅は耳を疑った。

 あれ? さっきまでと音が違う。もしかして、ママが弾いてる?

 田嶋が送ってくれた電子ピアノが、昨日到着したのだろうか。沙羅は自室を出て、洗面所に置かれた洗濯機に寝巻きを放り込むと、リビングの扉を開けた。


 リビングの端で電子ピアノに向かう京子の後ろ姿が、沙羅の視界に入る。隣人に配慮したのか、電子ピアノは腰高窓の下に置かれていた。ボリュームはかなり抑えられていたが、その音色はいつもスピーカーから流れる音とはまるで違うものであった。


 電子ピアノで弾いても、こんなに温かい音色が出るんだ。

 沙羅はそのことに驚きを感じながら、静かに母親に近づいた。京子の背中からは真剣さと気迫が漂っているように感じられた。

 いよいよ後半の盛り上がる場面に差し掛かる。沙羅は京子の背中越しに演奏する手を覗いた。その両手は蝶のようにひらひらと舞いながら鍵盤を優しく押さえる。沙羅が悲しく怖く感じていた場面はこうして見るととても美しく、音の粒が立ち上がり、ぱらぱらと輝きながら降ってくるようだった。


 「ママ、すごい」

 京子がそっと鍵盤から手を離した時と、沙羅が声を発したのはほぼ同時だった。京子は振り返ってそこに沙羅がいるのを見ると、驚きつつも恥ずかしそうな表情を浮かべた。

 


 

 



 


 

 


 

 

 


 






 


 

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