第30話 引っ越し(2)

 翔太の胸の中でその鼓動を聴いていると、沙羅はそれが自分のもののように感じた。自分の驚きと躊躇ためらいが脈打ち、耳元まで鳴り響いているかのようで、翔太と自分の境目が分からなくなる感覚に包まれた。

「歌、めないで」

 翔太のくぐもったような声が耳元で聞こえる。

「でも……これじゃ、歌えない」

 掠れ声で沙羅がそう言うと、翔太は腕の力を緩め、沙羅は翔太から体を離して隣に座り直した。


 「……あのね、私も最近調べて知ったんだけど、この曲はもともとオペラの中で歌われたの。出演者のほとんどが黒人のオペラ。オペラって白人のものってイメージだったからびっくりしたんだ」

 沙羅が照れくさそうに自分と壁を交互に見ながら話すのを見て、翔太は少し余裕を取り戻したのか、小さく頷いた。

「黒人のオペラってあるんだ。いや、オペラのことなんて知らねぇけどさ。イメージないな」

「うん。1920年代のアメリカのチャールストンっていう港町が舞台なの」


 奴隷解放宣言の後も、一向になくならない黒人差別。黒人達は貧しい暮らしの中、行き場のない苦しみや哀しみを抱えて生きていた。足の不自由な心優しい物乞いの青年ポーギーとドラッグ中毒の娼婦ベスの悲しい恋の物語。

 沙羅はオペラ『ポーギーとベス』のあらすじを翔太に説明し終わると、翔太に触れた時に蘇った父親との想い出を反芻していた。急に黙り込む沙羅を、翔太が訝しげに見つめる。

「沙羅? さっきの曲、歌ってよ」

 現実に戻された沙羅は、おもむろに口を開いた。


「うん。あのね、この歌は『Summertimeサマータイム』って言うの。漁師の家のメイドさんが赤ちゃんに歌う子守歌。すごく優しい歌。でもね、赤ちゃんのお父さんもお母さんも嵐に巻き込まれて死んじゃうの。その後、独りぼっちになった赤ちゃんに、メイドさんがこの歌をもう一度歌うんだよ」

 言葉に詰まりながら、途切れ途切れにそう話す沙羅を翔太は黙って見つめている。

 沙羅の瞳は潤み、懸命に泣くまいとしているが、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。翔太は沙羅の膝に置かれた左手をそっと握った。


「パパが死ぬ前に歌ってくれたのをさっき、思い出したの。急に。だから、今はうまく歌えない」

 沙羅の目から涙が溢れ出し、それは頬を伝い、沙羅の手を握る翔太の手の甲に落ちた。雨垂れのように何滴も何滴も落ちる涙を見つめながら、翔太は握る手に力を入れた。

「そっか。さっき聴いていて、子守歌だっていうのは分かったんだ。いつもヒップホップとか聴いてっから、耳はいいんだ」

 温かい声でそう言うと、翔太はもう片方の手で沙羅の頭を自分の肩に乗せて、優しく髪を撫でた。

 泣きながらふふっと沙羅は笑う。

「なんかいちいちパパみたい。だから、思い出しちゃうんだよ。翔太さんが悪い」

 沙羅は翔太の肩から頭を離して、両手で目をこすった。


「男の人と付き合うっていいね。なんか子どもに戻れる感じ」

 濡れた目で笑いながらそう言う沙羅に、翔太は口元を緩ませた。

「まぁな。赤ちゃんに戻る方法もあるしな」

 部屋の隅に畳まれた布団を親指で指しながら翔太がそう言うと、沙羅は動揺を隠すように自分の髪の毛を触った。

「……それ、裸ってだけでしょ。赤ちゃんじゃないし、全然」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「沙羅、もう一回歌って。実は、俺もガキん時のこと思い出したんだ。俺が幸せだった頃のこと」


 沙羅は黙って頷くと、目を閉じてかすかな記憶を辿った。サンディエゴの家の庭にあった小さなブランコやすべり台。よく手入れされた芝の上で寝転がったこと。そして、沙羅を気に入っていつもまとわりついていたゴールデンレトリバーも。

 沙羅はこの曲を歌った時の父親に想いを馳せた。

 

 どんなに愛していても、子どもはいつか自分の元から巣立っていく。

 夢と希望を抱いて柔らかい羽を羽ばたかせながら、大空の向こうへ。

 でもその時までは、この腕の中で守りたい。


 自分の命が残り僅かであると知りながらこの曲を歌ったルイスの心境を想うと、沙羅の胸はいっぱいになってしまう。ただ、記憶にある父親の瞳はどこまでも優しかった。

 沙羅は胸の奥にあった無数の傷が、少しだけ塞がったような温かいものを感じていた。


 沙羅は歌い始めながら、今度は翔太の過去を想像する。

 じっとしていることが苦手で、周囲から叱責されやすかった翔太が見つけた光。ダンスをしている時だけは周りの評価や自責の念から逃れ、夢中になれたのだろう。自分の夢を本気で応援してくれた弟に、どれほど励まされたのだろうか。

 沙羅は床に置かれた写真に目を移し、自分の胸も引き裂かれるような感覚がした。


 それは、沙羅にとって初めての感覚だった。他人のことでここまで我が事のように苦しくなるのは。きっと翔太の両親にも彼らなりの考えがあったのだろう。けれども、翔太は苦しんでいる。自分だけでも翔太の味方でいたい。

 翔太さんはお父さんみたいだけど、私も翔太さんのお母さんみたいになりたい。

 そんな感情を抱いた自分に驚きつつも、沙羅は自分の歌声が翔太の体に溶け込み、翔太と自分の心が溶け合っていくのを感じていた。




 

 

 

 


 






 


 

 

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