第29話 引っ越し(1)

 沙羅は手元にあった段ボールを引き寄せて、玄関前の小さなキッチンに立つ翔太を見上げた。翔太は鼻歌を歌いながら、コップと皿を二つずつ流し台の横に置く。沙羅の視線に気づいたのか、翔太は沙羅を見てコップを持ち上げた。

「昼前に引っ越し業者が帰ったから、これだけ買ってきたんだ。沙羅の分の箸とスプーンもある。いつでも来てオッケー」

「ありがと。でも、フライパンとか鍋とか一個もないよ?」

「それは、これから買う。今日の夕飯はコンビニのめしでいい?」

 沙羅が頷くと、翔太は玄関脇のユニットバスの方に歩いて行った。


 沙羅はこの狭い部屋を見回し、レースカーテン越しに見えるベランダに視線を移した。最寄り駅は町田駅から二つ目の駅だが、ここから歩いてニ十分はかかる。ベランダの先には国道が見え、夜になったら通行人から部屋の中が見えそうだと沙羅は不安になった。

 翔太さんに遮光カーテンを買ってもらわなきゃ。

 俯いて段ボールに貼られたガムテープを剥がすと、沙羅は中から本とノートを取り出した。どの本の表紙にもダンサーの写真やイラストがあり、使い古され、ヨレているものもあった。


 とりわけ傷みの多いソフトカバーの一冊が目に留まる。沙羅は他の本を床に置き、ぱらぱらとその本のページを捲った。『ヒップホップの基本』というタイトル通り、さまざまなダンスポーズのイラストがどのページにも描かれている。

 開きすぎて破れたのかセロハンテープで補修されている箇所もあり、沙羅はテープを指でなぞった。この年季の入り具合からして、幼い頃から何度も開いては練習をしたのだろう。巻末付属のDVDは、袋ごと外されていた。沙羅は他の本と一緒にカラーボックスに立てかけようと、その本を縦にした。

 

 ひらりと一枚、写真が床に落ちる。

 トロフィーを抱えた少年は、十歳頃の翔太であろうか。満面の笑みだ。隣りに笑いながら立っている眼鏡をかけた小さな男の子は、翔太の弟だろうか。どことなく翔太に似ている。

 沙羅が写真を拾って顔に近づけた時、ユニットバスから出て、歩み寄る翔太の足音が聞こえた。

 

 沙羅の脳裏に、この前すれ違った時の翔太の弟の態度がよぎる。何となく見てはいけないものを見たような気がして写真を元の本に挟もうとした。

 一足早く翔太が沙羅に近づき、立ったまま写真に目を落とすとハッとした表情を浮かべた。

「ごめん。本の間に挟まっていたみたいで……。これ、弟君? 二人ともいい笑顔だね」

 翔太は自分を見上げ、取り繕ったように微笑む沙羅を一瞥すると、沙羅の手から写真を取り、隣りに座った。


 黙って写真を見つめる翔太の横顔に、ベランダから差し込む光が当たる。沙羅はやや寂しげなその表情に見入っていた。

「初めて俺が大会で入賞した時の写真なんだ。この頃はあいつとも仲が良かったからな」

 沙羅の方は見ずに、ぽつりぽつりと翔太は話し出した。

「俺の弟は喘息持ちで体が弱くて、運動が嫌いでさ。昆虫採集が趣味で、よく俺も付き合わされたっけ。川でメダカやザリガニ獲ったりな。あいつの部屋にはいつも虫かごや水槽がいっぱいあってさ、ちょっと変な匂いがしたな」

 翔太は写真に視線を落としながら、懐かしそうな目をした。


「俺がダンスで入賞すると、弟だけがマジで喜んでくれた。俺は中学受験に失敗したけど、弟は進学校に受かってさ、でもそこからだな……だんだんあいつの様子がおかしくなっていった。俺は高校も親が望むような学校には受からなかったから。あいつにだけ期待がのしかかるようになった」

 胡座あぐらをかいた翔太の膝は、落ち着きなく揺れていた。沙羅はいつになく苛立ちや苦しみが浮かぶ翔太の顔を前に、黙って頷くしかできない。


「あいつは生物学者になりたかったんだ、ずっと。だけど、俺が親父おやじの会社を継がないってことは、あいつがやらなきゃいけないってことだ」

 振り絞るような声でそう言うと、翔太は顔を上げて沙羅を見つめた。翔太の瞳孔が揺れているように沙羅は感じ、返す言葉が見つからないまま見つめ返した。

「俺は……俺は、自分の夢の為にあいつを犠牲にした。そうだろ?」

 黙ったままの沙羅から目を離し、翔太は写真に視線を戻す。あの日、沙羅が見た不愛想で冷たそうな少年と同一人物とは思えないほど、翔太の弟は柔らかな笑顔をしていた。


 沙羅は翔太の背中にそっと手を置いた。ぎこちなく上下にさする。小さい頃、沙羅が泣き出すといつも優しく背中を撫でてくれた大きな手を想い出しながら。

 そのおぼろげな記憶を手繰り寄せると、ランドセルの中にあった写真が瞼に浮かんだ。サンディエゴの家の庭で、揺り椅子に腰かけながら父親がギターを弾いてくれた想い出も。

 沙羅の口から溢れ出たメロディーは、父親が弾き語った『Summertimeサマータイム』だ。


 沙羅が泣くと、いつも困ったような顔をしてルイスが口ずさんでくれた曲。その甘く優しい記憶に浸り、歌いながら沙羅は翔太の頬に手を当てた。

 翔太は右手で沙羅の手を掴むと、力強く引き寄せて抱きしめた。驚いた沙羅は歌うのを止め、翔太の腕の中で彼の鼓動を聴いていた。




 

 

 


 

 



 


 



 

 

 


 


 

 

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